見つからない鍵穴
ドンドンドン!!
激しく叩く音が響く。それでもダメだった。どうしたらいいのか、全く見当もつかない。
尚哉はずっと困惑していた。ここから脱出するには、何をすればよいのか。何もしないほうがよいのか。頭をどんなに回転させても、全く何も思い付くことはなかった。
尚哉はどこにでもいる普通の大学生だった。特に目標もなく、なんとなく適当な大学に通い、アルバイトで小遣いを貯め、友人達と遊びに行く。一般的な大学2年生である。その日も、退屈な授業に出席し(本当は出席するかどうかも迷った)、つらつらと並べられる教授の呪文のような言葉を右から左に聞き流していた。
夢の世界に思いを馳せるのも悪くないな、と思い始めた頃にふと周りを見ると、机に顔を伏せている女子生徒が目に入った。尚哉よりも前の席に座っているため、後ろ姿しか確認できないが、髪はセミロングで黒。派手なアクセサリーや服装ではなく、シンプルで落ち着いた色合いの服装のようだ。これと言った特徴はないはずだが、なぜか目を引いたのだ。
雰囲気からして真面目な学生のように見えるが、授業で寝ているのは昨晩徹夜をしたのか、もしくは成績はよいものの授業は気にせず寝てしまうタイプなのか。兎にも角にも、尚哉はその女子生徒を観察してみる事にした。
授業が終わる、ちょうど17分前に彼女はビクッと震えて目が覚めたようだった。彼女を見つけて以降、ずっと観察していた尚哉だったが、特に起きる様子はなかったために、途中で自身のスマホを弄る事に集中してしまっていた。彼女が起きた気配を感じると、また観察を再開した。
現状把握のためだろう。少し辺りを見回してから、教授が登壇している方に目線を向けた。ホッとしたのか落ち込んだのかわからないが、少し肩を落とした彼女は周りの連中と同じように片付けを始めたのだった。
「ねぇ、キミさ。突然変なこと聞いて悪いんだけど、どこかで会ったこと…ない?」
「えっ…?」
授業が終わってすぐに彼女を追いかけておきながら、我ながら古典的なナンパの仕方だと尚哉は思った。そもそもナンパをしたくて声をかけたのではないのだが、彼女の持ち物や服装から話題を探すのは早々に諦めたのだ。何しろ彼女は特徴がない。
「あ、いや。ごめん。えー…と、その…」
「……」
尚哉が次の言葉を選んでいる間、彼女は訝しげにこちらを見上げていた。思っていたより可愛い子ではなかった。化粧も薄く、目を大きく強調するようなものではない。どちらかと言えば、キレイ系の化粧をしているようだ。ますます持って特徴がない。
「…あの、もし時間があるなら……学食でお茶でもしませんか?」
先に提案したのは彼女の方だった。彼女は、彩花と名乗った。
「…懐かしいな。キミはあの時、ブラックコーヒーを飲んでいたよね。それで、ボクはコーヒーが好きなのかと思って、オススメの喫茶店にデートに誘ったら、本当はコーヒー苦手なの…だなんて。」
尚哉はフフッと笑みをこぼした。目の前にいる彩花の遺影も、心なしかいつもより微笑んでいるように見える。お互い顔は皺だらけで、口角もあまり上がらなくなってきてしまった。初めて出会った頃のことを思い出していた尚哉は、もう既に80歳を越えている。あれから彩花と結婚し、子供を授かり、孫もできた。
喧嘩することは少なく、いつも2人で笑って過ごした。学食でかっこつけて、ブラックコーヒーを飲んでみせた彩花は、本当は無類の甘党だったのだ。対する尚哉は、あまり甘いものは得意ではなかった。だから、デートで喫茶店に行ったとしても、お互い注文するものは正反対のものばかりだった。デートの回数が2桁になろうかという頃、それが無性に面白く感じて笑っていたら、彩花に出会った時のように訝しげに見上げられたのは、もう何年前だろうか。
「キミはいつも笑っていたから、目の皺ができるのが早かったね。まぁ、そんなこと言ったら、ふくれっ面をして怒るんだろうけど。」
庭でスズメが鳴いた。家の中は大変静かであった。息子夫婦と同じ家に住まわせてもらっているが、今彼等は少し遠い公園にピクニックに行っている。無論、尚哉も誘われたが足腰が弱くなった今では歩くのがキツいと遠慮した。普段なら孫が走り回って、息子の良く出来た嫁に叱られている頃なのに。すぅと息を吸えば、庭に植えた薔薇の良い香りが漂ってくる。洋風の家はバリアフリーになっていて、実に快適だった。彩花も年を取ってから、転ぶことが少なかった。むしろ若い頃の方が転んでいたくらいだ。
尚哉の最近は1人で、コーヒーを飲みながらもっぱらアルバムを見ていた。彩花と出会った大学時代の写真だけでなく、2人でデートをした時の写真や、尚哉の友人達と撮った写真など。昔を懐かしむことが増えた。
「だけどな…やっぱりキミがいないと落ち着かないんだ。もういい加減コーヒーは飲めるようになっただろう?ってコーヒーを飲ませて、まだ無理だと言って悔しそうな顔をするキミを見るのが好きだった。意地悪だなんてキミはまた怒るけど、ボクがそれを楽しんでいる時がキミもまた好きだったんだろう?」
女性は夫に先立たれても1人で生きていけると言う。しかし男性は妻に先立たれると生きてはいけないのだそうだ。昔は迷信だと思っていたそれも、今ならなんとなくわかる気がした。今が幸せでないはずがない。しかし、彩花がいた頃の生活が懐かしくて、恋しくて。彼女は悪質な事件に巻き込まれた訳でも、不慮の事故や病に苦しんで亡くなった訳でもない。ただ単に天寿を全うしただけだ。だから、尚哉がどんなに足掻こうとも、彩花が帰ってくる訳でも、喜ぶ訳でもない。そもそも、彼女はきっと尚哉も自分と同じように天寿を全うして、幸せに天国に来ることを願っている。
そんなことは百も承知だった。しかし、尚哉はずっと困惑していた。何をすればよいのか。何もしないほうがよいのか。頭をどんなに回転させても、全く何も思い付くことはなかった。年老いたにも関わらず、常に頭は回転して、思考の部屋から出られない。もういい加減、脱出したかった。
「彩花…もう一度、一度でいいんだ……キミに会いたいよ…」
ドンドンドン!!
激しくドアが叩かれる音が聞こえた。
「父さん!ごめん、玄関を開けてくれ!」
「おじいちゃーん!ただいまー!!」
どうやら、孫たちが帰って来たようだった。ドアを叩く音は、ずっと頭の中で響いていたものとよく似ている。
「あぁ、わかった。今開けるよ。」
玄関に向かうと鍵は開いていた。なのに何故開けられなかったのだろうか。尚哉は不思議に思いながらも、ドアノブに手をかけ扉を開いた。
「せーの…っ!」
おじいちゃん!お誕生日おめでとう!!
その瞬間、尚哉の目の前が鮮やかな花びらで彩られた。そして、孫と息子夫婦が笑顔で両腕を上げている。遅れて理解したのは、3人がこの花びらを思いっきり舞い上げたということだ。
「どうだった?おじいちゃん。公園にね綺麗なお花がいっぱいあったから、摘んできたんだ!」
「本当はお義父さんにも一緒に来ていただいて、お祝いする予定だったんですが…旦那がこっちの方がいいだろうって。」
「だって、最近の父さんは歩くのも辛そうだったから。それに落ち込んでいるようだったし。どう?気分転換になっただろ?」
あぁ…あぁ…。感無量というのはこのことだろうか。せっかくの息子たちの笑顔もぼやけてしまってよく見えない。彩花が亡くなってからも、周りはずっとぼやけていたのに。これ以上視力が悪くなっては、何も見えなくなってしまう。
「ありがとう…ありがとうね…」
「えっ!?父さん泣いてるのか!?」
「お父さん、おじいちゃんのこと泣かせたー!」
「お義父さん…!大丈夫ですか!?」
きっと、ぼやけていて見つからなかっただけなのだ。常に部屋から出られたはずなのに。鍵は持っているのに鍵穴が無いと、自分で見えなくしていただけだったのだ。
大量の花びらで玄関は埋め尽くされていた。きっと掃除も大変だろう。それでもいい。やっと気づくことができたから。
「今、カメラを取ってくるから、写真を撮らせてくれないか?」
「え?ここでいいのか?」
「いいじゃん!玄関お花がいっぱいで綺麗だよ!」
これも良い思い出として、アルバムにしまっておこう。
尚哉の目の前に、“彩花”が帰って来てくれたのだ。この素晴らしく“彩られた花”と共に。
とにかく、幸せな話を書きたかったので、書いてみました。いつも書こうとすると悲恋になってしまうので、オチが笑顔になるような展開に持っていくのが大変でした…。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。