異世界のオークな初陣(前編)
森の中の道を、三百人ほどの軍勢が進んでいた。
軍の先頭を行くのは、馬にまたがった美しい少女だった。年端もいかぬ少女でありながら、馬上でリラックスしている様子は歴戦の兵士のような余裕を感じさせた。単なる美しさだけではなく、それ以上に人の目を引きつける不思議な魅力を持った少女だった。
その少女の横を歩くのは一人の戦士だった。こちらも人目を引くことに関しては少女に負けていない。というか、初対面ならまず間違いなく少女よりも戦士の方に目がいくだろう。
黒一色の全身鎧を装備した戦士は大きかった。いや、大きすぎたというべきか。なにしろ身長は三メートルを超えている。もはや巨漢というレベルではなく、人間サイズを超えているだろう。
巨大な黒い戦士の名はリョーチ。そして少女の名はセレーネ。
ディアンの剣姫と呼ばれるセレーネと、その配下の黒い戦士リョーチ。今やディアン王国では知らぬ者はいないと言われる有名人二人組である。
元々セレーネはリョーチと会う前から有名人だった。ディアン王国の姫として生まれ、その美しさ、そして天才的な剣の腕から呼ばれたディアンの剣姫の名は、王国だけでなく諸外国にも鳴り響いていた。
そんな彼女の配下として、突然リョーチが現れたのは一年ほど前のことだった。
ケレネス伯爵の配下で、王国最強の一人に挙げられていたワズンと決闘し、快勝するという鮮烈なデビューを飾ったのだ。
当時、王国内はそのニュースで持ちきりとなった。それまで無名だったリョーチの正体が謎に包まれていたため、貴族平民を問わず多くの人間の興味を引いたのだ。そしてその興味は今も続いている。鎧の下の彼がどんな姿をしているのか? どこで生まれ、どのように育ち、どうやってセレーネの部下となったのか? そのあたりのことが全て謎のままだからだ。
謎なのも当然だった。なにしろリョーチの生まれは国外どころか世界外なのだ。現代日本で生まれ育ち、平凡な会社員として生活していたが落雷事故で死亡し、なぜか異世界であるこの地に転生した天城良一という名の青年。それがリョーチの正体なのだから、わかるはずがない。
さらにリョーチにはもう一つ大きな秘密があった。それは彼が人間ではなく、この世界でオークと呼ばれるモンスターに転生してしまったことだ。
巨大で凶暴、人間を見れば襲いかかり、若い女を犯してそれ以外は皆殺し――恐れられ、忌み嫌われる凶悪なモンスター、それがオーク。もしリョーチがオークだと知られれば、問答無用に討伐されてしまうだろう。だから彼は巨大な黒い全身鎧に身を包み、常にそれを装備したままという生活を送っていた。
幸か不幸かオークはやたらと頑丈な体をしていたため、例えば鎧を着たまま寝てもぐっすり快眠できるし、翌朝体が痛くなることもない。
オークは知能が低く言葉を話すこともないため、言葉をしゃべるリョーチはどうにか異様に体が大きい人間扱いしてもらっていた。
そんな彼の正体を知っているのはセレーネただ一人。他の者たちには、ひどい皮膚病にかかって醜い姿になったため、それを人目にさらしたくないと説明している。
オークの肌は緑色で岩のようにゴツゴツしているが、鎧の隙間からちょっとそれを見せてあげれば、みんな納得してくれた。最初から疑っていれば別だろうが、今のところリョーチをオークと見抜いた人間はいない。
セレーネと出会ってから、もう一年になるんだよなあ、とリョーチは思った。
ちなみにこの世界での一年は基本三百五十五日で、今いるディアン王国には四季もあったため、日本にいたときと同じように一年の移り変わりを感じている。
改めてこの一年を振り返ってみると、激動の一年だったというしかない。
セレーネと出会い、その理想に共鳴し、同志としてともに行動してきた。対外的には主人と部下だが、セレーネからは同志として扱われているし、リョーチもそう思っている。
そうやってこの一年、二人は王国内をあちらこちらへと駆け回ってきた。その成果が、今彼女が率いる三百人の軍勢として現れている。
この軍勢はセレーネが自分の金で雇った私兵たちだ。
出会った頃、セレーネには自分の部下と呼べる人間は数人しかいなかった。リョーチは彼女は姫なのだから多くの部下がいて、軍隊にも命令できると思っていたのだが、そうではないと彼女自身から教えてもらった。
確かに王子ならば、王国の重要な役職に就いたり、自分の領地を与えたりしてもらって多くの部下を持つようになる。だがいずれどこかへ嫁いでいく姫には、そんな権力はなかったのだ。
そういえば時代劇のお姫様とかもそんな感じだったなあとリョーチは思った。姫の側に仕える女中はいても、兵士たちを直接指揮したりはしなかった。時代劇とディアン王国を一緒にすることはできないが、男社会であることは共通している。
そのためセレーネは自分で資金を集めて軍勢を組織した。
資金の出所の半分は、彼女に友好的だったり、あるいは彼女の将来性に投資してくれた貴族や商人たちだ。
もう半分は、脅迫や実力行使で貴族や商人たちからぶんどった金だ。
言い方は悪いが、彼女の行いはヤクザそのものだった。脅迫できるネタを見つけてきては本人の屋敷に乗り込み、もめ事があると聞けば口を挟んで利権に食い込む、といった調子で暴れ回ったのだ。
彼女曰く「悪事に手を染めていない金持ちなどいない」というわけで、実際に相手に不自由はしなかった。なにより彼女自身の行いが悪事そのものだろう。
もちろん相手も素直に言うことを聞くわけがない。だがそんなときはリョーチの出番だった。セレーネには姫という高い身分と悪知恵の働く頭があり、それとリョーチという圧倒的な暴力装置の組み合わせは強力で凶悪だった。抵抗する相手はことごとく叩きつぶし、今やセレーネ姫が来ると聞いただけで貴族や商人が震え上がるという。
「いくらなんでも、やり過ぎじゃないか?」
とリョーチが不安を口にしたこともあったのだが、セレーネから返ってきた答えは、
「ちゃんと相手を選んでいるから安心しろ」
だった。
古今東西、人間社会には派閥が存在する。学校の教室にも、巨大企業や国家にも、派閥はどこにでも存在する。それは異世界のディアン王国でも変わらず、貴族たちの間にも色々な派閥があった。そんな派閥の中に、王国を二分する巨大な派閥があった。国王派と貴族派と呼ばれる派閥だ。
名前から想像できるとおり、国王派というのは国王の権力を尊重し、その下で自分の権力を伸ばそうとしている貴族たちの派閥だ。貴族派というのは国王の権力を小さくしようとしている派閥だ。
セレーネはこの貴族派の貴族や、彼らに与する商人たちを狙い撃ちにした。これは国王派の貴族、そしてその上に立つ国王にとってはプラスだ。だからかなりの無茶をやっても国王は黙認してくれたらしい。
もちろん実際はそれほど単純ではなく、セレーネは色々と裏で根回しもしていたようだが、そこら辺についてリョーチはあまり気にしていなかった。自分はセレーネの言う通りに戦うだけだと割り切っていたのだ。
リョーチが気にしていたのはセレーネが約束通り獣人たちを助けるのかだけで、実際に多くの獣人奴隷を解放していたからそれでよかった。
ケモミミ好きのオタクだったリョーチは、この世界でリアルケモミミを生やした獣人と呼ばれる者たちがいるのを知り、さらに彼らが人間に弾圧されているのも知って、彼らを助けるためにセレーネに協力することにしたのだ。セレーネがリョーチと同じくケモミミのかわいい女の子好きだったことが決め手となった。
とはいえセレーネの強引なやり方は多くの敵を生んだ。姫であるセレーネを暗殺しようとする者はまだいなかったが、代わりにリョーチのところへはすでに何人も暗殺者が送り込まれてきた。全員返り討ちにしたので問題なかったが、普通の人間ならとっくに死んでいるところだ。
「セレーネはいいよ。狙われるのは俺なんだから」
「だがお前は暗殺者などに殺されはしないだろう?」
「万が一って事があるだろ」
暗殺とは基本的にひっそりと標的を殺すものだ。人間ならば隠していた短剣で一突きすれば殺せるが、オークだとそうはいかない。武器で殺すのが難しいなら、もっとも注意すべきは毒殺になるが、オークの致死量は人間よりかなり高い。オークには効きにくい毒も多く、最初からリョーチの正体をオークだと知っているならともかく、人間相手だと思って料理に少量混ぜたりして毒殺するのはかなり難しい。
だが命を狙われるのが恐いことに変わりはないし、油断大敵ということもある。
「お前が死ねば私も終わりだから安心しろ。それに今の事態はお前が招いたんだぞ」
「やったのはセレーネだろ。俺は言われた通りに戦っただけだ」
「剣姫などと呼ばれても、私は無力な一人の少女に過ぎなかった。お前と出会わなければ、私は自分の野心と折り合いをつけて、せいぜい夫を傀儡にして操るぐらいの穏当な人生を送るはずだったんだ」
それは穏当とは言わないんじゃないかとリョーチは思った。
「だが私はお前というわかりやすい力を手にした。リョーチという豪傑が仕える私は、もはや無力な少女ではない。忘れるなリョーチ」
リョーチの体に悪寒が走った。自分をじっと見つめるセレーネの目に恐怖したのだ。巨大なオークである自分が、自分の半分も生きていない少女に気圧されてしまったのだ。
「私をやる気にさせたのはお前だ。元よりあきらめていた人生、失うものなど何もない。だから私はとことんまでやるし、お前にも最後まで付き合ってもらうぞ」
セレーネの目に浮かぶ光は情熱を通り越し、もはや狂気ではないかとリョーチは思った。だが彼はこうも思った。
歴史に名を残す英雄というのは、みんなこういう狂気を持っていたのではないだろうか。良くも悪くも普通の人間では世の中を変えることはできない。
オークになったとはいえ、しょせん自分は凡人。目の前の少女とは人間としての器が違う気がした。
もっとも英雄が暴君になるのもよくある話だ。セレーネを動かしたのが自分だというなら、暴走を止めるのも自分の役目だろう。
そうやって一年間暴れ回ってきた二人は、今こうして軍勢を率いて、もう一つ上の段階へ進もうとしていた。
「ところで、予定より遅れてみたいだけど大丈夫ですが?」
リョーチが馬上のセレーネに訊ねる。二人の時は同志として気安い口調で話すが――セレーネも望んだことだ――今のように人目があるところでは、レンは部下としての立場を崩さない。
「大丈夫だ」
セレーネは自信満々の笑顔で答えた。
「基本、ナバックとの戦争はにらみ合い。今度もそれで終わるはずだ」
今、セレーネは軍勢を率いてノゼ平原という場所へと向かっている。そこは隣国ナバック王国との国境地帯だ。そこではすでに一万を超えるディアン王国軍が陣を構え、やはり一万を超えるナバック王国の軍勢と向かい合っている。
ディアン王国とナバック王国は隣国同士だが仲が悪い。むしろ隣国だから仲が悪いというべきか。過去二回、大規模な戦争になったこともある。
それなのにセレーネに余裕があるのは、今回は大規模な戦争にはならないと読んでいるからだ。いや、これも今回もというべきか。
今の両国を比べると、国土も人口もナバックの方が少し上だが、それほど大きな違いはない。また両国とも国内の状態は安定しており、双方とも付け入る隙を見出せていない。つまり追い込まれて戦争するような状況ではなく、一方的に勝てるようなチャンスもない。セレーネが戦争にはならないと言っているのは、そんな状態だからだ。
ではどうして軍勢が集まっているのかといえば、これは双方の面子の問題らしい。
国境付近ではもめ事や小競り合いは日常茶飯事で、それがエスカレートして片方が軍勢を出せばもう片方も反応し――というのを、この十年ぐらい何度も繰り返しているようなのだ。
「初陣を飾ったという実績作りにはちょうどいい」
「それがそんなに大切なんですか?」
「お前には理解出来ないか。だが我々王族や貴族にとって、戦に出たことがあるかないかでは大きな違いがあるんだ」
危険なモンスターが存在し、人間同士の戦争も繰り返されているこの異世界では、人の上に立つ者には強さが求められた。貴族なら戦に出て初めて一人前という価値観である。
そんな社会だから私が実際に戦場に出たことが大きな意味を持つのだ、とセレーネは語った。
「やっと兄上たちと同じ舞台に上がる資格を得た、というところだな」
「それってつまり――」
セレーネが茶目っ気たっぷりに人差し指を口に当てるのを見て、リョーチはそれ以上言うのをやめる。他人がいるところでそれ以上はダメということだろう。ちなみにこのジェスチャーは、元の世界でもこちらでも同じ意味だ。
すでにセレーネはリョーチに自分の野望を語っている。それはこの国の女王になるということ。そしてそのためには王位継承権を持つ兄たちと戦って勝たねばならない。
王位は基本的に長男が継ぐというのがディアン王国のルールだ。加えて女性なのも大きなハンデだ。貴族でもよほどの事情がない限り女性が当主になることはないし、ディアン王国の歴史上、女王は一人もいない。セレーネが女王になるのはかなり厳しいだろう。
だからこそセレーネは最初から女王を目指したりせず、彼女の言う穏便な人生を送るつもりだったのだが、リョーチと出会ってしまった。そして彼女は己の野望を実現すべく動き始めたのだ。
「話の続きはまた後で、だ。そろそろ森を抜けるぞ」
この森を出た先がノゼ平原。ディアン王国とナバック王国の軍勢がにらみ合っているはずの戦場だ。
セレーネの言う通り森の出口はすぐそこだった。
暗い森を抜けると一気に視界が広がり、リョーチはノゼ平原の様子を見ることができた。オークの視力は人間と変わらないが、高い身長のおかげで遠くまでよく見える。
ノゼ平原には確かに両国の軍勢がいた。しかし聞いていたのと様子が違う。
「姫様。俺には戦っているように見えるんですけど……」
騎兵が先陣を切って突撃し、背後から槍と盾を構えた歩兵が続く。
迎え撃つ側も槍と盾を構え、両軍の兵士が激突する。
槍と槍、槍と盾が打ち合わされ、血しぶきが上がり、怒号と悲鳴が交錯する。
リョーチは異世界に来てから多くの戦いを経験してきたが、大規模な軍勢がぶつかる戦場はこれが初めてだ。しかしそれでもわかる。
これはにらみ合いなどではない。本気の戦争だ。
「おかしいな。なんで戦ってるんだ……?」
この展開はセレーネにとっても予想外だったようで、呆然と戦場を見つめている。
「姫様、どうしたらいい?」
とりあえず参戦したという実績だけでいい。後は機会を見つけて抜け駆けし、ちょっとした戦功でもあげられればなおよし――というのがセリアの考えだったのだが、すでに状況は当初の予定と大きく違っている。
後にノゼ平原の戦いと呼ばれることになるこの戦いだが、実はどうして戦端が開かれたのか、はっきりしたことがわかっていない。
戦いはディアン王国軍の左翼に布陣していたオルフェン伯爵の軍勢と、その正面に布陣していたナバック王国のレーベン子爵の軍勢が衝突して始まった。しかし両者の軍勢がどうして戦い始めたのか、それがはっきりしない。
なにしろ当事者たちの言い分からして食い違っている。
オルフェン伯爵はレーベン子爵軍が攻撃してきたため、これを迎え撃っただけだと主張した。
一方、レーベン子爵側は少数の偵察部隊を出したところ、オルフェン伯爵軍が急に動き出して襲いかかってきたため、それを迎え撃ったと主張した。
この時、オルフェン伯爵軍を率いていたのは当主のレゴ・オルフェン。しかし父親の急死によって当主になった彼は、この時まだ十二才だった。
もっとも有力とされている説は、このレゴを子供と侮ったレーベン子爵が挑発を繰り返し、それに激怒したレゴが軍勢を動かした、というものだ。
だがそれも確実な証拠があるわけではなく、全く違った証言をする者もいたため、結局本当のところはどうだったのか謎のままだ。
色々な説の中には、セレーネ姫が軍勢の中にスパイを紛れ込ませて戦いを誘発した、というものまであったりする。後にそんなうわさ話を耳にしたリョーチは「あの姫様ならやりかねないな」などとつぶやくことになるのだが、その話がさらにうわさ話として広がってしまい、セレーネ姫陰謀説が有力説の一つにまでなってしまうのは余談である。
このようにどうして始まってしまったのかは謎だったが、リョーチたちにとって重要なのは、始まってしまった戦いにどう対処するかだった。
一部の貴族の衝突で始まった戦いは、すでに全面衝突に発展している。それは両軍の貴族の中に、戦いを望んでいた者が多くいたからだ。
ここ十年ほど、両国の間に全面衝突はなかったわけだが、それは戦いを望まない人間にとってはいいことでも、戦いを望む人間にとっては不満なことだった。
貴族にとっては戦場で武勲をあげることが最高の名誉とされる時代である。特に血気にはやる若い貴族たちは、平和よりも戦いを待ち望んでいたのだ。
そこで起こったのが今回の衝突である。
この機を逃してなるものか、と勝手に動き出す者が続出し、なし崩し的に全面衝突まで発展してしまったのだ。
必然的に戦いは混戦となり、当初はどちらが有利か不利かもわからない状況が続いたが、やがてその均衡が崩れ始めた。
きっかけとなったのは最初に動いたオルフェン伯爵軍だった。
最初、前方のレーベン子爵軍へと攻め寄せたオルフェン伯爵は、これを簡単にを撃破した――ように見えた。オルフェン伯爵軍の兵力は一千、対するレーベン子爵軍は五百ほど。単純に兵力差だけを見れば、オルフェン伯爵軍が圧倒してもおかしくはない。
当主のレゴはここぞとばかりに追撃を命じたが、それはレーベン子爵の罠だった。負けたように見せかけて敵を誘い込むという、単純だが効果的な罠だ。
オルフェン伯爵軍の中にも、あまりにもあっけない敵の崩れ方を見て、これは罠かもしれませんと進言する者はいた。しかしレゴはまだ十二才の子供で、しかも自信家で好戦的な性格だった。勝てると思い込んで興奮する彼は慎重論になど耳を貸さなかった。
また軍勢の中には実勢経験のない者も多くおり、彼らも初めての実戦で興奮しており、例えレゴが制止したとしても、軍勢を止めることは難しかっただろう。十年ほどにらみ合いだけを続けてきた結果、戦場を知る者が少なくなっていたのだ。
一方のレーベン子爵軍も人間同士の戦争から遠ざかっていたことに違いはない。だが幸か不幸か彼の領地は魔物が多く生息する森林に隣接しており、兵士たちは魔物相手の戦いに慣れていた。
「魔物の突進と比べたら、ディアン王国の弱卒など雑魚同然。それを見せつけてやれ! 盾を構えろ!」
レーベン子爵の周囲を守る兵は百名ほど。そこへ前衛を突破したオルフェン伯爵軍が殺到してくるが、命令に従い横一列となって大型の盾を構える兵士たちの顔には緊張の中にも余裕が見え、不敵な笑みを浮かべる者もいた。
喚声を上げたオルフェン伯爵軍が、待ち構えるレーベン子爵軍に突っ込んだが、そこで彼らの勢いはピタリと止められてしまった。盾を構えるレーベン子爵軍が彼らを受け止めたのだ。
レーベン子爵軍の兵士たちは、先ほどレーベン子爵が言ったように、普段は魔物相手に戦っている。時にはオークなどの大型の魔物を相手にすることもあり、それと比べれば人間の軍勢を受け止めることは容易だった。
「今だ! 押し返せ!」
レーベン子爵が命じ、兵力が少ない子爵軍が逆に前に踏み出す。それだけでない。負けたと見せかけて左右に下がっていた子爵軍の前衛が体勢を立て直し、オルフェン伯爵軍の左右から襲いかかってきたのだ。
この時点で、オルフェン伯爵軍の先頭は前後左右の三方向を敵に包囲された形になった。しかも後ろの味方は止まらず押し寄せてくるので、ある意味、全方向を包囲されたとの同じような状況に陥った。
とはいえ、兵力はまだまだオルフェン伯爵軍の方が多かったため、まだまだ十分に逆転は可能だった。
例えば指揮官が冷静なら、一度軍勢を下がらせて立て直すという手もあっただろう。あるいは兵力を一点に集中して強引に突破を図るという手もあった。指揮官の命令がなかったとしても、場数を踏んだ兵士たちなら自分たちで状況を判断して、事態の打開を図ったはずだ。
しかしここでも実戦経験のなさが災いした。
若い伯爵も、実戦経験のない兵士たちも視野狭窄に陥り、敵が待ち構えているのに前へ前へと進むばかり。一方で軍勢の先頭は敵ばかりか味方にも圧迫されて大混乱に陥り、もはや満足に敵と戦うこともできない有様だった。
そしてついに部隊の先頭が崩壊し始めると、後はあっという間だった。経験を積んでいない兵士たちは逆境にも弱い。一人が逃げ出せば、つられるように逃げ出す兵士が続出した。
軍勢を指揮していたレオは訳がわからなかった。寸前まで自分たちが勝っていると思っていたのに、味方の兵士たちが次々と逃げ出していくのだから。
一度崩れた軍勢を立て直すことは歴戦の将でも難しい。まだ子供だったレオには到底不可能で、どうすることもできなかった。
「レオ様! ここはお逃げ下さい」
そう言う近習の騎士に守られつつ、まだ事態の把握もできないまま逃げ出すしかなかった。
こうしてオルフェン伯爵軍は完全に崩壊したが、それはディアン王国軍の一部に過ぎず、全体の戦況を左右するほどではなかった――はずだったが、実際にはこれで戦況が大きく動いた。
戦場慣れしていなかったのは、なにもオルフェン伯爵軍に限ったことではなく、ディアン王国軍の多くの兵士がそうだった。そのため逃げ出すオルフェン伯爵軍を見て怖じ気づく者が続出し、それがたちまち全体へ伝染してしまった。
臆病風に吹かれたディアン王国軍は防戦一方となり、一方のナバック王国軍は勢いを増して攻めまくる。このまま戦いが推移すれば、ディアン王国軍全体が崩壊するのも時間の問題だった。
セレーネが戦場へ到着したのがちょうどこの頃だった。
「なんか味方の方が負けてないですか?」
リョーチに大規模な戦いの経験はなかったが、それでも敵側の方が明らかに優勢に見えた。
「一方的に負けてるな」
セレーネも戦況をそう判断した。
「じゃあ、俺たちもさっさと逃げた方が……」
「それじゃあ、おもしろくない。それにこれは好機だ」
「負けているのにですか?」
「勝ち戦に後から荷担しても手柄の横取りにしかならん。だが、我らの力で負け戦をひっくり返したらどうだ? 文句のつけようがない功績だ」
「そりゃそうですけど、そんなの簡単にできるわけが――」
「できる!」
セレーネは力強く断言すると、リョーチに笑って言う。
「お前ならできる。やってくれるだろう?」
「……わかった。やってやろうじゃないか」
答えたリョーチも仮面の下で笑っていた。不思議なのだが、セレーネにできると言われると、本当にできるような気になってくるのだ。人を乗せるのが上手いというか、彼女の笑顔と言葉には人をやる気にさせる何かがあった。
「者ども聞け! これより我らは窮地に陥った味方を救う!」
背後にいる三百の軍勢に対してセレーネが命じると、おおっ! という気合いの入った声が兵士たちから返ってくる。彼らは全員が赤く塗られた鎧に身を包んでいた。また馬上のセレーネも赤い鎧を身につけている。
これは目立って名前を売ろうと考えたセレーネに、何かいい方法がないかと聞かれたリョーチが、赤備えなんてどうだろうと答えた結果だ。
リョーチは日本の戦国時代にそれほど詳しいわけではなかったが、徳川の武将や真田幸村が部隊の鎧を赤く塗り、赤備えと呼ばれていたことは知っていた。
この時代、ディアン王国やその周辺諸国でも部隊の色を統一することなど誰も行っていなかったので、セレーネはその案を即座に採用した。そして彼女のもくろみ通り、セレーネの赤備えは後生に「セレーネの赤い親衛隊」として語り継がれるほど有名になっていく。
ちなみにリョーチの黒一色の大鎧は黒いままだ。赤く塗り直そうかとも考えたのだが、すでに黒い戦士として名が売れていたため、彼だけはそのままになったのだ。
「あっ」
何かを思い出したようにリョーチが言った。
「どうした?」
「いえ、前から何かに似ているなと思っていたんですけど、これってスイミーだなあと思って」
「スイミー?」
「俺の世界に伝わる童話で――いえ、今はどうでもいい話なんで、また後で説明します」
「そうか。ではリョーチ、我らの旗を掲げよ」
「はい」
リョーチは自分の武器である長い鉄の棒を構える。だが、今の棒には大きな布が巻き付けられていた。
元々戦闘になるとは予想していなかったセレーネは、リョーチの棒に旗を取り付け、それを掲げて参陣する予定だった。それも目立つための一環だ。
予定とは全然違ってしまったが、ある意味、今の方が存在をアピールする絶好の機会ともいえる。
リョーチが棒を高く掲げると、風に吹かれた旗がなびいた。
それは現代の日本人なら誰でも知っている旗だった。そしてこの世界ではリョーチだけが知る旗だった。
白地に赤い丸が一つ。日の丸である。
これもまた、目立つ旗はないかと聞かれたリョーチの答えが反映された結果だ。
もちろんディアン王国にも旗はあったし、貴族も自分の家の旗を掲げて戦いに臨んでいる。ただこの時代の旗にはちょっとした問題があった。
旗の意匠の複雑化である。
旗は家の象徴だったから、王族や貴族は競って自分の旗に様々な趣向を凝らしていったのだが、結果として旗の意匠はどんどん精緻になり複雑化していった。今では旗を見分ける専門の旗見官と呼ばれる人間がいるほどなのだ。
そんな世相だったから、セレーネは一目見て日の丸を気に入った。
シンプル・イズ・ベスト。複雑なものばかりだから、逆にシンプルなものが目立つという構図である。
そしてこの旗もまた、赤一色の部隊とともにセレーネの太陽旗として、その名を轟かすことになる。
「全軍突撃用意! リョーチに続け!」
まずは高く旗を掲げたリョーチが飛び出し、その後にセレーネ率いる三百の赤い軍勢が続いた。
スイミーはケモミミ共和国の教科書を始め、他国の教科書にも載っている有名な童話だ。
とある海に小さな赤い魚の群れがいた。その中でスイミーだけが黒い色をしていた。小さな魚たちは大きな魚に食べられることを怖がっていたが、スイミーのアイデアで大きな赤い魚の形になって泳ぐことになる。そしてたった一匹だけ黒い色をしていたスイミーは、大きな魚の目になって一緒に泳ぎ、他の大きな魚を追い払った。
簡単に説明するとそんなお話だ。
小さい頃に読んだことがある方も多いだろう。
ところがこの有名なスイミーについて勘違いをしている人が多いのだ。一般的にスイミーの作者は、ケモミミ共和国の建国時代に活躍した武将リョーチだと思われている。しかしそれは正確ではない。
確かに今あるスイミーの話はリョーチが書いたものなのだが、そのリョーチが原作者は他にいると証言しているのだ。
スイミーの話が最初に登場するのは、大神歴一〇五六年に起こったノゼ平原の戦いにおいてだ。この戦いで史上名高い「セレーネの赤い親衛隊」が初めて戦場に登場する。一方、リョーチは常に黒い鎧をまとっていた大男として知られており、赤一色のセレーネ姫の軍勢の中で、彼だけが一人真っ黒な姿をしていた。
赤い軍勢の中、たった一人の黒い戦士。まさにスイミーのような状況であり、そこからリョーチはこのお話を思いついたとも言われる。
しかし色々な資料を調べてみると、このときリョーチは「スイミーみたいだ」と語ったという。つまりスイミーのお話を思いついたのではなく、すでにスイミーの話を知っていたことになる。
また彼が後に書いたスイミーの初版本は、いまでもケモミミ共和国国立美術館に保管されているが、その冒頭には、このお話は私が昔読んだお話を思い返しながら書いたものである。名前を忘れてしまった本当の作者に深い感謝を捧げる――と書かれているのだ。
他人が書いた話を自分が書いたと偽ることはあっても、普通、逆のことをする者はいないだろう。そんなことをする理由もない。
以上のことから、スイミーはリョーチのオリジナルではなく、少なくとも元になった何らかの話があり、その作者こそが本当の原作者だと私は思っている。
ただ、では実際に原作となったのはどんな話なのかといえば、まだそれはわかっていない。
小さな者たちが集まって、大きな存在に挑むという話の作りは、昔から色々な場所で色々な話があり、スイミーと似ているような話もある。しかし、これだというほど一致する話は見つかっていないのだ。
リョーチは極端に謎の多い人物としても知られている。ひどい皮膚病だったという理由で、常に黒い全身鎧を身につけ、素顔を知る者はセレーネ姫ただ一人だったとも言われる。また自分の出生についても語らず、彼がどこの出身で、セレーネ姫の配下になるまでどのような人生を送ってきたのかも謎で、今も様々な説が語られている。
スイミーはそんなリョーチの過去に迫る有力な手がかりの一つなのだが、その原作もまた謎に包まれているのだ。
筆者個人の考えでは、スイミーは例えば彼の母親などが子供に語り聞かせるために作ったオリジナルの童話ではないかと思っている。出生についても語らなかったリョーチだから、自分の家族が作った話とは書かず、あえて作者を忘れてしまったと書いたのではないだろうか?
もちろんこれは推論に過ぎないが、いずれにしろ色々と興味をかき立ててくれる話ではないだろうか?
ヴァンヴァ・バーン「意外と知らない童話のお話」より抜粋




