第九十話 別離と希望と
「……精霊達が落ち着きを取り戻した。長老の樹に宿っていた大精霊は死んだようだ」
以前よりも早く怪我を治せるようになったアロアの迅速な治療が終わり、子供の精霊が問題なく呼び出せるようになった事を確認するとサークさんが呟く。中心から真っ二つに裂けた巨木は黒い煙を上げ、その屍を静かに晒していた。
「サークさん……死んでしまった精霊は、どうなるんですか?」
「精霊は死ぬとまた新たな別の精霊として生まれ落ち、それを繰り返して自然は循環する。大精霊にまで育つ精霊が少ないのは、大抵はその前に役目を終えて死んでしまうからだ。大精霊ってのはもしかしたら、精霊の中でもイレギュラーな存在なのかもしれない」
「じゃあ、あの樹の精霊もまた新しい命に生まれ変わるんでしょうか?」
「ああ。それがすぐの事なのか、或いは遠い未来の事なのかは解らないが」
アロアの質問へのサークさんの答えに、僕は少しだけ救われた気持ちになった。自分達とラヌーンの集落とを守る為とは言えずっとこの地で生きてきた大精霊を手にかけた事に、多少なりとも罪悪感はあったからだ。
ちらりと、ヒューイさんとリィンの方に目を遣る。ヒューイさんはリィンの肩を抱き、何がリィンの身にあったのかを問いかけていた。
「リィン、何故ここに来たんだ。ここに来てはいけないと、族長様達から強く言われていただろう?」
「僕、自分からここに来たんじゃないよ。昨日の夜おしっこしに起きたら見た事のない仮面を付けた人が外を歩いてて、目が合ったと思ったら急に眠くなって……気が付いたらここにいて、動けなくなってたんだ」
「仮面を付けた……それはここにいる奴らを含めた、昨日集落を訪れた人間達じゃないんだな?」
「うん。真っ白な服を着たお姉ちゃんだった。僕ハッキリ見たんだ」
一通りリィンの話を聞いたヒューイさんは、バツが悪そうに僕らを振り返った。多分……散々犯人呼ばわりした事を、後悔しているんだと思う。
「……サーク、これがお前達の言っていたグランドラという国のやり方か」
「そうだ。仮面の女というのは初めて聞いたが……俺達と長老の樹を互いに潰し合わせ、どう転んでも自分の得になるように仕向けたんだろう」
サークさんの言葉を聞き、ヒューイさんが一層強く顔を歪める。そして、覚悟を決めたのか僕らをしっかりと見据えて言った。
「自分が傷だらけになり、危機に陥ってもリィンを救う為動いてくれたお前達の事を俺はもう疑わない。一族を代表して、今までの非礼を詫びたいと思う。……問題は族長を始めとした、他のエルフ達だ。やむを得ない形とはいえ長老の樹とそこに宿る大精霊を倒したんだ。無事で済むとは思えない」
「確かにな。大精霊が魔物に変わっていたと僕達が言って簡単に信じるようなら、そもそも始めから僕達が子供を拐ったと決めつける真似はしないだろう」
「こっそり集落に戻り、人質を解放してそのまま逃げ出すか? リィンはヒューイが連れ帰れば問題はないし、どのみちあの頭の固い族長が人間の争いに力を貸すなんて俺も始めから思ってなかった」
クラウスとサークさんにヒューイさんを含めた三人が、そう思案しだす。……確かにそれなら、無事にこの森は出れるかもしれない。
けれどそれで、本当にいいんだろうか。本当にエルフ達とは、解り合う事は出来ないんだろうか――。
「……族長さん達に、正直に全部話してみませんか?」
気付けば、僕はそう言っていた。皆、特にサークさんが、何を言い出すんだという目で僕を見る。
「リト、何を言ってるのか解ってるのか? あのエルフ達は、いつだって自分が正しいと信じて疑ってない。そんな奴らに長老の樹を倒したなんて言ってみろ、自分の命を危険に晒すようなもんだぞ!」
「それでももしかしたら、エリスさんやヒューイさんのように解ってくれる人だって現れるかもしれない。例え全員に解って貰えなくても……その可能性を、僕は潰したくないんです」
「私からもお願いします。全部どうしようもないなんて、やる前から諦めたくない。エルフは神様を信じないかもしれないけど、元はと言えば人間もエルフも同じ神様に作られた命。絶対に解り合えないなんて事は、ないと思います」
「……お前達……」
祈るような思いで自分の気持ちをぶつける僕とアロアに、ヒューイさんが泣きそうな顔になる。クラウスとサークさんは渋い顔をしたままだったけど、やがて一つ、大きな溜息を吐いた。
「……もしも向こうが襲ってきたら、すぐに戦える覚悟だけはしておけ。全力で抵抗すれば、怪我は免れなくても集落から逃げる事は出来る筈だ」
「もしそうなったら、俺と姉さんもお前達が逃げられるように手を貸そう。……命の恩人を、自分の心を守る為とは言えずっと蔑み続けていた俺だ。あの人への直接の償いにはならないが、せめてお前達には……」
「ヒューイさん……ありがとう。でも僕は信じてみる。……大切な仲間のサークさんの、産まれた土地に住む人達を」
サークさんとヒューイさんの二人に笑いかけ、僕は告げる。……危険な賭けには違いない。それでも僕は、賭けようと思った。この地上に住む、同じ生き物として時間をかければ解り合えるという可能性に。
ただ一人クラウスだけが何も言わないのは、こうなった僕らが存外頑固だと解っているからだろう。その沈黙がありがたかったし、同時に好きにやらせてくれるこの友達に報いたいと思った。
だって……サークさんに完全に故郷と断絶して欲しくない気持ちが一番強いのは、きっと一番サークさんの側にいたクラウスだから。
「戻りましょう。日が落ちてしまう前に!」
僕は皆をそう促し、巨木の骸に背を向け歩き出した。
精霊達の活気が戻った事もあり、行きよりも大分早いペースで集落には戻る事が出来た。集落に入った僕らはまずエルフ達に取り囲まれ、そのまま中央で待っていたエルフの族長とランド達三人の元へと連行された。
「リィン!」
「パパ! ママ!」
リィンの両親が名を呼ぶと、リィンは両親に駆け寄り強く抱き着いた。二人はリィンを抱き上げると僕らから遠ざかるように、急いでその場を後にする。
「ふむ。大人しくリィンを返す気になったようだな。賢明な判断だ。約束通り人質は解放しよう。人質と共に、早々にこの集落から立ち去れ」
「族長様、違います。リィンを拐ったのはこの者達ではありません」
「……何だと?」
一方的に話を終わらせようとするエルフの族長だったけど、ヒューイさんの言葉を聞いて顔が険しくなる。そんなエルフの族長の迫力に飲まれないよう、僕は真っ直ぐにその目を見つめながら言った。
「リィンを拐ったのは、族長さんもお聞きになっただろうグランドラという国の手の者の仕業です。グランドラはリィンを拐っただけでなく、この森を統べる長老の樹に宿る大精霊を狂わせ森ごとこの集落を滅ぼそうとしていました」
「長老の樹だと!?」
僕の発した単語に、周囲のエルフたちが一気にざわめき出す。エルフの族長は、顔色を変えないまま僕らに問いかけた。
「それが真実ならば、お前達は長老の樹をどうした?」
「……倒しました。宿っていた精霊ごと」
その一言に一瞬、辺りが水を打ったように静まり返る。直後に轟いたのは、割れんばかりの僕らへの罵声だった。
「何て事を! ああ、人間め……何て事を!」
「長老の樹が狂うなんてそんな事があるものか! 人間共、よくもそんな出鱈目を!」
「族長様、攻撃のご指示を! こんな奴ら、生かしておいても利になどなりません!」
サークさん達、そしてランド達もが、溢れ出す殺気に咄嗟に迎撃態勢を取る。そんな中僕とアロアだけは、ただじっとエルフの族長の次の言葉を待ち続けた。
「……静まるのだ、皆の者」
やがてエルフの族長が手を高々と上げ、それによって場の喧騒が沈静化していく。エルフの族長は僕らの顔を順番に見ると、重々しく口を開いた。
「森の精霊達が乱れていた事、そしてそれが少し前に治まった事は儂も気付いていた。お前達の言葉が真実ならば、それはこの森の大精霊が狂いそして倒された証拠に他なるまい。だが狂ったとは言え大精霊の意思は自然の意思。それが滅びよと我らに言うならば、大人しく滅びるが我らが運命であったのだろう。故に礼は言わぬ。しかし例え運命に反するものだったとしても、結果的に我が同胞を救ったお前達を責めもせぬ。とは言え……この件に関しては、誰かが落とし前をつけねばならぬな。……サーク、今日この時をもってお前をこの集落から追放する。今後一切、この集落に足を踏み入れる事を禁ずる」
「そんな! 族長様、それだけは!」
告げられたサークさんへの処分に、ヒューイさんがすがるようにエルフの族長を見る。エルフの族長はそんなヒューイさんを黙って一瞥しただけで、くるりと僕らに背を向けた。
「皆に告ぐ。この者達が森を出るまで、危害を加える事は儂が許さぬ。我らは人に力は貸さぬ。そして無用な殺生もせぬ。この地を人間の汚れた血で染めたくなくば、このままこの者達を行かせるが最善。解るな? 我が同胞達よ」
その言葉に周囲は俄かにざわついたけれど、反論の声が上がる事はなかった。エルフ達の胸に今どんな感情が去来しているのか、僕には図り知る事は出来ない。
「……行こう、皆。ここで出来る事は、もう何もない」
サークさんが顔を俯かせ、早足で集落の外へと歩き出す。それをクラウスがすぐに追い、エルフ達に思い切り舌を出したエルナータと軽く舌打ちをしたランドがそれぞれ続いた。
「ごめんなさい……こんな事になって……本当に、ごめんなさい……」
そして、顔を覆って泣くエリスさんと呆然と僕らを見つめるのヒューイさんに後ろ髪引かれながらも僕とアロアもその場を後にした。
振り向かないまま、無言で森を歩き続けるサークさん。僕らはそんなサークさんに、何も声がかけられずにいた。
……僕の我が儘は何も生まず、それどころかサークさんが完全に故郷から追われる結果となってしまった。自分が巻き起こしたこの状況に、胸が締め付けられそうになる。
やがて、サークさんが突然足を止めた。釣られて足を止める僕らの目の前で、サークさんは勢い良く自分の頬を叩いて顔を上げた。
「……うっし。うじうじするのはここまでだ。俺達の任務はまだ終わっちゃいない。気を引き締めていかないとな」
「サーク……貴様は本当にそれでいいのか?」
心配を隠し切れない表情で、傍らのクラウスが問いかける。サークさんはそんなクラウスの帽子を奪うと、吹っ切れた笑顔で露になった頭をくしゃくしゃと撫でた。
「わっ! な、何を……」
「んな顔すんじゃねえよ、らしくねえぞ? ……これで良かったんだよ。どうせ捨てたも同然だった故郷だ。それに今回の件で、完全に未練もなくなった。俺の生きる世界は、お前やリト達がいる人間の世界。それがハッキリしたんだ、寧ろ清々した」
「し、しかし……」
「……いいんだよ。人間の世界にいる限り、やる事なんて尽きねえしな。具体的にはお前の世話だろ? お前の世話に、あとお前の世話」
「どれだけ僕の世話を焼く気だ!? いい加減その子供扱いを止めろ!」
思わず声を荒げたクラウスに、サークさんが楽しそうに笑ってみせた。それを見て思う。サークさんは本当に僕らよりずっと大人で、どうしようもない事をどうしようもないと受け入れるのも早いのだと。
僕が同じ立場なら、きっとこんなすぐには笑えない。けれどそれは薄情なのではなく、強いという事なんだと思う。
それは時に悲しい強さでもあるけれど……僕らが側にいる事でサークさんがまた笑えるようになるなら、それがサークさんの力になっているという事なんだってそう信じたい。心から、そう思った。
「お兄ちゃーん!」
と、突然背後から幼い声が聞こえた。振り返った僕らの目に映ったのは、息を切らせてこちらに駆けてくるリィンの姿だった。
「リィン! どうしてここへ!?」
「お兄ちゃん達がもう行っちゃうって聞いたから、精霊さんの力を借りて抜け出してきたんだ! あのね、僕は人間の事大好きだから!」
問いかけた僕に、真っ直ぐな瞳でリィンは言った。恐れも侮蔑もない、純粋な瞳。
「サークお兄ちゃんって、エリスお姉ちゃんのお友達なんだよね? 僕エリスお姉ちゃんからいつも人間の話聞いてたんだ! それからサークお兄ちゃんの話も!」
「俺の……?」
「僕、大きくなったら頑張って集落を人間にも遊びに来て貰えるようにするから! そしたらまた人間のお兄ちゃん達と帰って来てね! その時は人間の世界のお話も沢山してね! 約束だよ!」
真っ直ぐで、無邪気な瞳がサークさんを射抜く。サークさんは少しだけ泣きそうに顔を綻ばせて、それから。
「……ああ、次に帰って来たら沢山土産話をしてやる。約束だ」
そう言って、差し出されたリィンの手を強く握り返した。




