第八十八話 狂いし精霊
森の中を、精霊に導かれながら急ぎ足で進む。現れては少し経つと消えてしまう精霊を何度も呼び出しているサークさんの表情には、少しずつ疲労の色が見え始めていた。
本当はサークさんを休ませてあげたいけど、何の目印もないこの深い森を精霊の案内なしに歩くのは自殺行為に近い。更にもう一人の霊魔法使いであるヒューイさんが僕らに非協力的な以上、ここはサークさんに頼る他ないというのが現状だった。
「待って。……ねえ、どこかから子供の泣き声が聞こえない?」
無言のまま足を進めていたアロアが不意に立ち止まり、耳を澄ませる。その言葉に僕らも足を止め耳に神経を集中させると、遠くの方から微かに大声で泣きじゃくるような子供の声が聞こえてきた。
「この声は……リィン!? まさかこの辺りにいるのか!?」
「もしかして、リィンは長老の樹に?」
「馬鹿な! いくら子供でも、長老の樹に近付いてはいけない事はよく知っている筈だ!」
「或いは誰かに長老の樹の元に連れ去られたか……とにかく泣き声がどっちからするか確かめるんだ!」
予想外の事態に動揺するヒューイさんを含めた全員に、サークさんが声をかける。泣き声は木々に反響して広く響いていた為少し場所の特定が難しかったけど、動き回るうちにやがてより大きく、確かな声となって僕らの耳に届くようになった。
「あっちだ。急ぐぞ!」
森を掻き分けていくうち次第に木々の間隔が広くなっていき、やがて大きく開けた場所に出た。そこに広がっていた光景に、僕らは思わず息を飲んだ。
「……!」
それは、とても巨大な樹だった。ここにいる僕ら全員が手を繋いで輪になったとしても、恐らく完全に取り囲む事が出来ないほどの太い幹。
地面から突き出した根は広く辺りを覆い、一つの地形を形成している。見上げた枝一面に生い茂った葉は空を隠し、一帯を影ですっぽりと包んでいた。
そして、そんな樹の幹と根の狭間。まるで始めから巨木の一部分であったかのように、両手両足を幹の中に埋め込まれ囚われているのは……。
「リィン!」
ヒューイさんがそれを見て、悲痛な声を上げる。そこにいたのはエルナータより更に幼い見た目の、エルフの子供だった。
「何故だ! 何故長老の樹がこんな事を……! 長老の樹よ! その子を放してくれ!」
僕らを掻き分け先頭に飛び出し、ヒューイさんが懇願する。巨木はまるでその叫びに反応するようにざわりと枝を揺すらせ……次の瞬間、ヒューイさんを貫こうとするように根がひとりでに動き、襲い掛かってきた!
「危ない!」
ヒューイさんの一番近くにいたサークさんが、咄嗟にヒューイさんの腕を取り自分の方に引き寄せる。すんでのところで鋭く尖った根の槍は宙を裂くに留まり、それでも僅かに当たってしまったのだろう、ヒューイさんの頬に一筋の赤い線が走り血が滴り落ちた。
「そんな……何で……」
「これは、まさか……ダークエレメンタルに変質しているのか!」
「クラウス、ダークエレメンタルって!?」
ざわざわと、風もないのに揺れ続ける不気味な枝を眺めながら僕はクラウスに問い掛ける。クラウスは珍しく、少し焦ったように答えた。
「精霊は神々に作られし、自然の維持を司る存在だが何らかの要因で狂ってしまうと暴走して命あるものを破壊し尽くす魔物へと変わってしまう。それがダークエレメンタルだ。大精霊級がダークエレメンタルになったとなると……被害はこの森だけでは済まんかもしれんぞ!」
「そんな! 元の精霊に戻す方法はないの!?」
「僕の読んだ文献の中には存在しなかった! ダークエレメンタルには最早精霊語での呼び掛けも通じない……倒すしかない!」
「何だと!? 貴様ら……まさか長老の樹を滅すると言うのか!」
放心していたヒューイさんがクラウスの言葉に我に返り、そう食って掛かる。けれどそれに対するクラウスの反応は実に冷淡で、かつ冷静なものだった。
「狂った精霊の手にかかり死にたいのなら勝手にしろ。僕は止めない。だが僕はこんなところで死ぬ訳にはいかない。だから戦う。邪魔をするなら貴様も殺す」
「……っ」
底冷えするようなクラウスの目に、ヒューイさんが言葉を詰まらせる。そんなヒューイさんを余所に、サークさんがクラウスに声をかけた。
「長老の樹を殺るにしても、問題はリィンだ。恐らくこのままあいつを倒せば……」
「ああ、ダークエレメンタルごとあの子供は死ぬ。あの子供を救う鍵は……アロア、貴様だ」
「え? 私……?」
「覚えた筈だ。場の魔力を一時的に無効化する、あの魔法を」
「! ディスペルの魔法……!」
アロアが目を見開き、その魔法の名を口にする。アロアが新しく覚えた、聖魔法の一つ。ターンアンデッドとはまた違う、あらゆる魔法の呪縛を解き放つ魔法……!
「でも、一つだけ問題があるわ。あれはターンアンデッドよりずっと有効範囲が狭いから、ここからじゃリィンを救う事は……」
「なら、道は僕が作る。助け出したリィンを、連れて戻る役目の人間も必要だろ?」
「俺も加わろう。長老の樹の影響でまともに霊魔法が使えない以上、俺に出来るのもそのくらいだ」
「僕はここで貴様達のサポートに入る。それに……あの樹にトドメが刺せるのは、恐らくこの中では僕だけだろう」
「……本当に、長老の樹を倒すつもりか」
ぽつり、静かな声でヒューイさんが呟く。それは僕らを咎めるというよりは……ただ迷っている、そんな感じがした。
「あの樹がある事で、誰かが死んだり傷付いたりするかもしれないなら……戦う事に、躊躇いはありません」
「……」
僕の答えを聞くと、ヒューイさんは僕ら全員の顔を順番に見回した。そして、決意を秘めた目で告げる。
「……最優先されるべきは、集落とリィンの安全。人間共の力に頼らねばならんのは癪だが……手を貸してやる。その代わり、もしリィンの救出に失敗したら許さんぞ!」
「任せて下さい……リィンは必ず助けます!」
アロアの言葉に、全員で頷いてみせる。必ずリィンを助け出し……大きな被害が出る前に長老の樹を止める!
「アロア、僕かサークさんから絶対に離れないで。……行くよ!」
「うん!」
そして僕とサークさんは、後からついてくるアロアを守るように巨木へと向かっていった。




