第六十四話 記憶の価値
集落を挙げての盛大な宴が終わり、夜も更けた頃。僕は何だか眠る事が出来ずに、用意された寝床の中でじっと遠い天井を見つめていた。
今日は本当に、色々な事があった。思い返すと、まだ胸の奥が苦しくなる。
(……少し、外でも歩いて来よう)
ざわめく気持ちを少しでも落ち着かせる為に、僕はランドや家の人達を起こさないよう気を付けながら白い月の輝く外へと出ていった。
さっきまでの宴の喧騒が嘘のように、外は静まり返っていた。涼しげな風が辺りを通り抜ける音だけが、そよそよと耳に響いてくる。
特に行く宛もなく、ゆっくりと歩き始める。足元の草を踏み締める自分の足音が、やけに大きく聞こえる気がした。
やがて家の立ち並ぶ地域を抜け、湖の畔へと辿り着く。そこには先客となる、湖の縁に腰を下ろした小さな人影があった。
「……エルナータ?」
「ん? リト?」
湖を見つめていたエルナータが、くるりと振り返る。絹のような銀色の髪に月の光が反射して、湖の水に素足を浸したエルナータの姿を酷く幻想的に見せていた。
「どうしたの? 眠れないの?」
「こんなおっきい水溜まりは海に行って以来だから、もっと近くで見てみたかったんだ。ゆうべは早く寝なくちゃいけなかったからな」
初めて会った時から変わらない銀色の半目で、エルナータがにっこりと笑みを浮かべる。僕はエルナータに近付くと、その隣に腰掛けた。
「初めての旅はどう?」
「楽しいぞ。一杯知らなかったものが見れるし、一杯知らなかった人に出会える。毎日ワクワクしっ放しだ。街も色んなものがあって楽しかったけど、旅はそれ以上だな」
無邪気に瞳を輝かせ、エルナータが答える。そんなエルナータに、僕は前から気になっていた事を聞いてみる事にした。
「……エルナータは、自分の記憶がない事で不安になったりしないの?」
「ん?」
エルナータが、きょとんとして僕を見る。それから小さく唸って何かを考えた後、逆に僕に問い返してきた。
「リトは、不安なのか?」
「……そう、だね。どこで産まれてどんな風に育ってきたのか、記憶を失う前の自分はどんな人間だったのか……考えれば考えるほど、何も解らない事が不安になる」
正直に、自分の心情を吐露する。思えばこういう話を、初めて誰かとした気がした。
他の皆に言えば、きっと気を遣わせてしまうから。だから僕と似たような境遇にあるエルナータの意見には、ずっと前から興味があった。
「ランドの故郷に行った時。ほんの少しだけ、記憶を思い出したんだ。自分があの村に行った事があったかどうか、聞こうと思えば聞けたのに……いざ自分の事が解るかもしれないと思ったら、急に怖くなったんだ。自分じゃない自分を、知ってしまうという事が。だから何も聞けないまま、村を後にした」
エルナータは普段の騒がしさが嘘のように、静かに僕の話に耳を傾けている。その沈黙を心地好く思いながら、僕は言葉を続ける。
「自分の事が知りたい、ただその一心で旅立ちを決意した筈なのに……今は、怖いんだ。もし記憶を失う前の自分が、人を人とも思わないような非道な人間だったらと思うと……」
「なら、思い出さなくていいんじゃないか?」
「え?」
返ってきた、あまりにもあっけらかんとしたその一言に思わず目が丸くなる。そんな僕の反応なんてお構いなしに、エルナータは更に言った。
「エルナータは昔の記憶がなくて、困った事なんてないぞ。リトもアロアもランドもサークも皆優しいし、クラウスは……まだちょっと気に入らないけど、皆エルナータが知らない事はちゃんと教えてくれる」
そう口にするエルナータの瞳は、とても澄んでいて。本当に、不安なんて何もないみたいだった。
「記憶なんてなくたって、リトはリトだしエルナータはエルナータだ。自分が昔どうだったかなんて興味ない。エルナータが大事なのは、皆といる今だからだ」
「大事なのは、今……」
「リトは違うのか? 皆の事より、昔の記憶の方が大事か?」
エルナータに問われて、少しだけ考える。けれど、答えは驚くほどすぐに出た。
「……そうだね。僕も、昔の事より皆といる今の方が大事だ」
「そうだろう? なら怖い事なんて何もないぞ!」
「うん。昔がどうだったって、僕は僕だ」
胸に蟠っていたものが、溶けていくのが解る。昔の自分を知る事に対する不安が完全になくなった訳じゃないけど、前よりは前向きに、知らない自分を受け入れられるような気がした。
「ありがとう、エルナータ。今日エルナータとこうして話せて良かったよ」
「ああ! また何か悩む事があったら、エルナータがいつでも聞くぞ!」
得意気に胸を張りながら、エルナータが笑う。それに笑みを返し、僕は湖に映り込んだ揺らめく月を見つめた。
翌朝、目を覚まし集まった僕らの前に集落の人が馬を三頭引き連れてやってきた。どれも体が引き締まった、脚の速そうな馬だ。
「残っている馬の中から厳選しました。雷程度じゃ驚いて逃げたりしない、肝の据わった馬ばかりです」
「ありがとうございます。……念の為聞くが、この中で馬に乗った事がある奴はどれだけいる?」
「ある訳ないっすよ。馬なんて基本金持ちの乗り物だし」
「私も。村には馬はいなかったから」
「エルナータもないぞ」
「ええと……僕も……」
一人一人僕らが答えると、サークさんにとっては予想の範囲内だったようで一つだけ小さく息を吐いた。そして、皆の顔を見回すとこう口にした。
「……出発前に少しだけ馬の練習をしよう。三頭のうち二頭は俺とクラウスで手綱を引くから、最後の一頭の手綱を誰が引くかを練習の様子を見て決める」
「え? クラウス馬に乗れるのか?」
サークさんの言葉に、エルナータが意外そうな顔でクラウスを見た。クラウスはエルナータをじろりと睨み付けながら、不機嫌そうに言葉を返す。
「僕が乗れたら悪いか? これでも一通りの教養は、幼い頃から身に付けている」
「むー……エルナータも乗れるようになる! クラウスにだけは負けたくない!」
鼻息荒く、早速エルナータが馬に飛び乗ろうとする。けれど元々の身長の低さも災いして、なかなか上手く上に乗れないようだった。
「ほらリト、見ているだけでなく貴様も乗ってみろ。どうしても乗り方が解らなければ、後で特別にレクチャーしてやる」
悪戦苦闘するエルナータを眺めていると、クラウスがそう声をかけてくる。僕は内心不安で一杯になりながらも、鐙に足をかけ思い切って馬に飛び乗った。
ふわりと一瞬宙に浮く感じがした後、柔らかすぎず固すぎない温かい感触が僕の腰を迎える。普通に立っているよりずっと高い目線に、僕は、自分が見事馬に乗れたと悟ったのだった。
「何だ、上手いではないか。もしかすると記憶をなくす前に乗馬経験があって、体がそれを覚えていたのやもしれんな」
「そ、そうなのかな……?」
「よーし、リトに負けてられないね。私もやってみる!」
感心したように頷くクラウスと、対抗心とやる気をたぎらせるアロア。そんな二人を見ながら、僕はかつて同じ目線で世界を見たかもしれない過去に思いを馳せた。
暫く皆で順番に馬を乗り回し、結局一番上手く乗れたのが僕だったという事で最後の一頭は僕が手綱を引く事になった。エルナータは最後まで上手く乗れなかった事に不満そうにしていたけど、サークさんが暇を見て乗馬を教えると提案した事でとりあえずは落ち着いた。
それぞれの馬にはサークさんがエルナータ、クラウスがランド、そして僕がアロアを背中に乗せる事になった。ずっとアロアと密着する事になるのは少し恥ずかしかったけど、そう言っていられる状況でもなかったので僕はなるべく後ろを意識しないよう努める事にした。
そして僕らを乗せた三頭の馬は、次の目的地を目指してマヌアの集落を出発した――。




