第六十三話 涙の別離
地面に落ちたヴァンパイアバットがどれも動き出す事がないのを確認すると、僕らはオーガーの治療に当たっていたアロアの元に集まった。ヒーリングは既に終わったらしくオーガーはもう光に包まれてはいなかったけど、アロアとラナさん、特にラナさんは酷く暗い顔をしていた。
「……何とか傷は塞がったけど……失った血の量が多すぎるの。最高位の聖魔法のリザレクションなら何とか出来たかもしれないけど、今の私の力じゃとても使いこなす事は……」
「そんな……それじゃあこのオーガーは、もう……」
無力さを噛み締めるように俯いたアロアの言葉に、僕の心にも重たいものが広がっていく。と、倒れたオーガーの顔の傍らに座っていたラナさんが涙声で叫んだ。
「あたしのせいだ! あたしが不用意にあの蝙蝠共の塒に迷い込んだりしたから! 真っ先に駆け付けてきたこいつは、あたしの事を庇って!」
そんなラナさんに対し、誰も何も言葉をかける事は出来なかった。どんな慰めも今は無力だと、その場にいた全員が解っていた。
不意に、閉じていたオーガーの目がうっすらと開く。それを見たラナさんが、身を乗り出し必死にオーガーに語りかける。
「死ぬな! あたしはまだ、お前に何も返せてないんだ! だから死ぬな、お願いだ!」
「……」
オーガーは虚ろな目をしたまま、ラナさんに何も言葉を返さない。その代わりにラナさんに近い方の手を懸命に持ち上げると、泣きじゃくるラナさんを宥めるようにその頭を優しく撫でた。
「……っ! 何で……お前は、どこまで……!」
「……もしも」
その様子を見ながら、アロアが口を開く。その眼差しは優しく、深い慈愛に満ちていた。
「もしも魔物にも、心が芽生える事があるなら……このオーガーはきっと、ラナさんを愛していたんだと思う」
「……こいつが? ……あたしを?」
ラナさんの涙に濡れた目が、オーガーの顔を見る。表情のなかった筈のオーガーの顔に笑みが浮かんでいるように見えたのは、果たして僕の目の錯覚だったのだろうか。
「だから命を懸けてでも、ラナさんを守ったんだと思う。大好きな相手に、傷付いて欲しくないから……」
「……お前……」
オーガーのラナさんを撫でる手の動きが、次第に鈍くなっていく。それでもオーガーはまるでアロアの考えを肯定するように、ラナさんを撫でる事を止めなかった。
「もう……もう、いい。大丈夫だ。ありがとう」
止まる事のないオーガーの手を、ラナさんはそっと押し止めた。それからその手を強く握り、涙を流したまま精一杯の笑顔を浮かべる。
「いっぱい助けてくれてありがとう。いっぱいいっぱい、愛してくれてありがとう。あたしも、お前の事が大好きだ。だからもう……安心して眠ってくれ……」
声を振り絞り綴られたラナさんの言葉に、オーガーは満足そうに目を細めると。そのまま目を閉じ、そして、二度と瞳を開く事はなかった。
「……終わったな」
どれくらい、動かなくなったオーガーを見つめていただろう。サークさんがおもむろに立ち上がり、オーガーの亡骸に近付いていった。
ラナさんとは反対側の顔の傍らに、サークさんがしゃがみ込む。そして、荷物袋の中から肉切り用の大振りなナイフを取り出した。
「!? お前、何をする気だ!」
「こいつの角を切る。こいつが死んだっていう証にな」
「サークさん!?」
ラナさんだけでなく、僕も驚いてサークさんを見る。どうして、安らかな眠りに就いたばかりのオーガーを傷付けるような事を……!?
「……ただ魔物が死んだと報告するだけでは、集落の住民達の不安は完全には払拭されない。俺達が報酬目当てに、嘘を吐いている可能性があるからだ。だから、確かに魔物が死んだという証拠を見せる必要がある。本当なら、首を丸ごと切り落として見せるのが一番効果があるんだが……」
「そんな事は、あたしが絶対にさせない!」
「だろうな。それに、俺もなるべくならそれはしたくない。だから角を切って、首の代わりにするんだ」
「サークさん……その、他の方法はないんすか? だってこいつ、人間に危害を加えるような事何にもしてねえじゃねえっすか……」
戸惑ったように、ランドがそう意見を口にする。けれどサークさんは、厳しい表情を崩さずに首を大きく横に振った。
「この森に住んでいた魔物は人を襲わない、優しい魔物だった。そう言って信じる人間がどれだけいると思う? ランド、お前も俺と同じでさっきまでこのオーガーを疑っていた口だろう。……そういう事だ。人は自分の目で見ていないものを、いや実際に見てもそれが自分の価値観と異なるなら見たものですら容易に信じる事は出来ない。……集落の住民達を納得させるには、森の魔物が確かに死んだとハッキリさせるしかないんだ」
その言葉に、誰も意見を返す事は出来なかった。サークさんは何も間違った事は言っていない。けれど、心はそれに納得出来ない。
だから、何も言えない。相反する気持ちをどうにかする方法を、誰も持ってはいないから。
サークさんは僕らが沈黙したのを見ると、淡々と作業を開始した。それを止めようとする者はもう、誰もいなかった。
ナイフの刃が角の付け根を、少しずつ削り取っていく。その様子を僕は、やりきれない思いでただ見守っていた。
夜になる前に森を出て、日の落ちる頃集落に戻った僕らを住民達は喜んで出迎えてくれた。特にラナさんの無事な姿は、父親のラムゼイさんを始めとした集落の皆を酷く喜ばせた。
「『竜斬り』殿、本当に世話になった。集落を脅かしていた魔物を二匹も退治して頂いただけでなく、娘まで無事に連れ帰ってきて下さるとは。幾ら感謝してもし足りないぐらいだ」
「俺は大した事はしていませんよ。運が良かった、ただそれだけです」
深々と頭を下げるラムゼイさんに、サークさんが苦笑を返す。持ち帰ったオーガーの角とヴァンパイアバットのクイーンの死体はサークさんの言った通り集落の住民達を大いに沸かせ、その顔に安堵を広げる事に貢献したのだった。
「約束通り、マヌアはレムリアの為にこの力を尽くそう。それと、是非これを持っていってくれ」
そう言って、ラムゼイさんが何かの装飾品を取り出す。それは、青い羽と色鮮やかな石で作られた短めの首飾りだった。
「それは?」
「これはマヌアがあなた達を全面的に信頼したという証。他の集落を説得するのに、きっと役に立つ事だろう」
「ありがとうございます。受け取らせて頂きます」
「それから、明日の朝までに馬を三頭用意させよう。ノーブルランドは広い。徒歩での旅では、十分な戦力が集まる前にレムリアが陥落してしまう恐れがある」
「何から何まで痛み入ります。喜んで、使わせて頂きます」
「あなた方がもたらしてくれたものを思えば、これでもまだ足りんくらいだ。旅の成功を祈っている」
もう一度ラムゼイさんが深々と頭を下げ、僕らも頭を下げ返す。……まだ気持ちは少しスッキリとしなかったけど、それで立ち止まっている時間は僕らにはないんだ。
「お前達、今回は世話になった。色々と失礼な態度も取ってしまったが、今では深く感謝している」
ラムゼイさんの横で、笑顔を見せたラナさんが言う。今一番辛いのはラナさんの筈なのに、こうして集落の皆の前ではしっかりと切り替えが出来るのは流石長と呼ばれる人の娘なだけはあると思った。
「今回の事は、あたしは一生忘れない。そしていつか子を産んだ時は、その子にも語り継ごうと思う」
ラナさんが、真っ直ぐに僕らを見つめる。けれどその瞳は、ここではないどこかを見ているようでもあった。
「立場の異なる者同士でも、解り合う事は出来る。越えられない垣根など、存在しないのだという事を」
僕らはその言葉に、顔を見合わせ微笑んだ。僕らだけが知っていた。ラナさんの言葉の、本当の意味を。
人と心ある魔物とが、共に生きる事が出来る世界。そんな世界を、もしも作る事が出来たなら。
それは今は、遠い遠い夢。今の人間は、魔物とどころか人間同士ですら争いを起こす生き物だ。
それでも。そんな未来がいつか来る事を、僕は願わずにはいられなかった。
「さあ、今宵は宴だ。思う存分に飲み、食べ、騒ぐといい」
ラムゼイさんの言葉に小さく頷き、僕らは喜び合う人々の輪の中に加わったのだった。




