第五十八話 湖畔に住む魔物
幸いにして落ちてくる雷に撃たれる事はなく、やがて前方に向かい側に森を有する小さめの湖と、その手前の畔に建ち並ぶ建物群が見えてきた。あれが目的地のマヌアの集落だろう、と視界を遮る雨をずぶ濡れの手で拭いながら僕は思った。
集落が近付くにつれ疎らだった草の面積は増えて草原となり、辺りの緑が濃くなってくる。次第に形がはっきりとしてくる集落の中には家畜を飼っているらしきスペースも見え、この地の実りの豊かさが見て取れた。
「まだ雨は止みそうにないな。一番近くの家でいい、可能なら雨宿りをさせて貰おう」
サークさんの言葉に頷き、外套なんて最早意味がないほど水を吸った服や靴の重みに耐えながら最後の力を振り絞る。やっと集落の入口にある家の一つに辿り着いた時には、僕らは全員完全に濡れ鼠になっていた。
「すみません。どなたかいらっしゃいますか?」
玄関の扉を軽く叩き、サークさんが家の中に声をかける。少し空いて、家の中からこちらに近付く小さな足音が聞こえた。
「……あんたら、何者だい? この集落のもんじゃないね」
「旅の者です。途中で雨に降られ、雨宿りさせて貰えないかと参りました」
「……魔物じゃあ、ないんだね?」
「魔物?」
不思議そうに問い返したサークさんのその声が、逆に向こうの警戒を解いたようだった。暫くしてから「入りな」という声と共に扉が開き、僕らは雨から逃げるように急いで家の中に雪崩れ込んだ。
「だー……やっと屋根のあるところに来られたあ……」
「エルナータ、暫く水浴びは懲り懲りだぞ……」
全身から水滴を垂らしながら、その場に崩れ落ちるランドとエルナータ。家の人らしいおばさんは、そんな僕らに乾いたタオルを一枚ずつ差し出してくれた。
「すぐに入れてやれなくてすまないね。ちょっとこっちも警戒してたもんでね」
「いえ、助かりました。……魔物というのは?」
タオルで頭と顔を拭きながらサークさんが聞くと、おばさんは途端に顔に渋面を広げた。そしてぽつりぽつりと、その魔物について話してくれた。
「……初めは、この辺りを開拓してたあたしの父さん達が森の中でその影を見るだけだったんだ。幸いその時は魔物は湖のこっちの方までは渡って来なくてね、あたし達は森に深入りさえしなければ安全だと必要以上に森に入らないようにしながらこの土地で暮らしていたんだ。けど……」
「最近になって……魔物が森から出てくるようになった?」
僕の言葉に、おばさんは深く頷いた。それから未だ雷の鳴り響く窓の外に、視線を移しながら言う。
「家畜がね、次々と変な死に方をするようになったんだ。大した外傷もないのに、血が一滴も残っていなくてね。寝ずの番も立てたんだけど、そういう時は決まって何も現れない。だからこっちもどうしようもなくてね」
「魔物の姿は解っているのか?」
「あたしは見た事がないけど、父さんの話じゃ体長三メートルはある巨人だったとか何とか。そんなのに、もし襲われでもしたら……」
クラウスの質問にぶるりと体を震わせるおばさんだけど、僕は今の話に少しだけ違和感を感じていた。それだけ大きな魔物が、家畜の血を吸い取るだけなんていう襲い方を果たしてするだろうか?
そう思ったのは、僕だけではなかったらしい。エルナータ以外の全員が、どこか納得がいかないような表情を浮かべていた。
「人間の被害者は、まだ出ていないんですか?」
新たに重ねられたサークさんの質問を聞いた途端、おばさんの顔が酷く曇った。まさか……。
「……三日前の事だよ。族長の娘のラナって子が、業を煮やして森に魔物退治に出かけちまったのさ。ラナは男顔負けの弓の名手だ。ラナならもしかしてって皆思ったけど……それっきり、ラナは帰って来なかった……」
場が静まり返り、ごくりと自分の息を飲む音が聞こえる。……人間にまで被害が及んでいるんじゃ、もう悠長な事なんて言っていられないんじゃないだろうか。
「今集落の男達が、族長の家で話し合いをしてるよ。ラナを探しに行くべきか、こっちから魔物に打って出るべきか。でもラナですら敵わなかった相手だ。村の男達が束になっても敵うかどうか……」
僕らは自然と、互いの顔を見合わせていた。そして皆の思いを代表するように、サークさんがこう口を開いた。
「俺達を、族長の家に案内して下さい」
案内された族長の家は、家の外からでも解るくらいピリピリしたムードに包まれていた。おばさんが中の人に話をつけてくれ、僕らは緊張に満たされた家の中に入る事になった。
集落の人達の遠慮のない視線に居心地の悪さを感じる中、その中心にいる壮年の男の人が口を開く。それは渋みのある、低い声だった。
「……族長のラムゼイだ。今は見ての通り取り込み中だ、話は手短に頼む」
「娘さんが、帰って来ないそうですね」
「ああ。だからそれをどうするか、皆で話し合っている」
サークさんの言葉に、淡々とラムゼイさんが答える。けれどその眉間の皺が微かに深くなったのを、僕らは見逃さなかった。
僕らとラムゼイさん達の視線が静かにぶつかる。相手の鋭い視線に気圧されないようにしながら、サークさんが口を開いた。
「俺達で良ければ、娘さんの無事を確かめに行きますが」
「……何だと?」
辺りが、俄かにざわつき出す。それに畳み掛けるように、サークさんが更に言葉を紡ぐ。
「それだけじゃない。湖の向こうに住む魔物、それも出来るならば退治したいと考えています」
「魔物を!?」
今度こそ、辺りに大きなざわめきが起こった。ただ一人、ラムゼイさんだけが少なくとも表向きは冷静に僕らを見つめ続ける。
「……見返りは? まさかただでそれをやるとは言うまい? この集落は見ての通り、目ぼしい産業など何もない。金はそれほど出せんぞ」
「求めるのは金ではありません。隣国レムリアとの、同盟の締結」
「レムリアと同盟だと……?」
そこでサークさんが、荷物袋から王の書状と使者の証の銀時計を取り出す。厳重に守られていたのか、書状はあれだけの雨を浴びたのに全く濡れていなかった。
差し出された書状と銀時計に、ラムゼイさんがじっくりと目を通す。その様子を、僕らはただ見守るしか出来なかった。
「……レムリアとグランドラの間で戦争が始まった事は、この集落にも噂が届いている。だが儂らが力を貸したとて、とても大局をひっくり返す役には立つまい」
「この集落だけならば。しかし、このノーブルランドに存在する集落の総てがグランドラに牙を向いたとしたら?」
「確かに、それならばグランドラに対抗する芽も出よう。しかし困難な道だぞ」
「それでもやらねばなりません。レムリアを侵略から救う為に」
「ふむ……」
ラムゼイさんは顎を撫で、暫く考え込む素振りを見せた。僕らは静かに、ラムゼイさんの次の言葉を待つ。
「……話は解った。だが、そちらは見たところ若造ばかり。このまま素直にそちらに魔物退治を託すには不安もある。本当に言うだけの実力はあるんだろうな?」
「何だと? ならば今この場で実力を証明して……」
「クラウス。……お前は下がってろ」
そのラムゼイさんの言葉に前に出かけたクラウスを、サークさんが有無を言わせ声で制する。クラウスがその迫力に動きを止めたのを確認して、サークさんはおもむろに額に巻かれていたバンダナを外した。
現れたのは、額を横断するように斜めに付けられた深い傷痕。けれどそれはサークさんの端正な顔立ちを損なわせる事なく、逆に一種の凄みすら感じさせる。
「額に傷を持つエルフの剣士……まさか、あの『竜斬り』か!」
「……リューギリ?」
突然変わった辺りの雰囲気に困惑の表情を浮かべるエルナータに、僕は返す言葉を持ち合わせてはいなかった。




