第百二十三話 傲慢なる海神
体を包んでいた浮遊感が急速に薄まり、体の重みが戻ってくる。崩れたバランスに軽くよろめきながら着地し、目を開けると、視界に飛び込んで来たのはとても幻想的な光景だった。
夜明け頃のように群青色に染まった空に、どこまでも続くかのような色とりどりの花畑。辺りには無数の泡が浮かび、キラキラと虹色に輝いている。
「わっ! この泡、中に人とか景色が映ってるぞ!」
興味深そうに泡を見つめていたエルナータが、突然そう声を上げる。僕も試しに近くの泡を覗き込んでみると、そこには見知らぬ人達が身を寄せ合い眠る姿が映っていた。
「これ……もしかして地上の人達の様子?」
「ここに住む神々は、この泡を通じて地上の様子を観察していたのかもしれんな。眠りに就いている間もずっと」
周囲の泡を軽くつついて強度を確かめながら、クラウスが自分の推理を口にする。泡は見た目よりもずっと頑丈らしく、つつかれてもふわりふわりと移動するだけで割れる事はなかった。
「さて、ここまで来たはいいが……肝心の神々はどこにいるんだ?」
サークさんの言葉に、とりあえず全員で辺りを見回す。けれど四方どちらを見回しても見えるのは花畑ばかりで、人も建物も影すらも見当たらない。
「何にもねえなあ……とりあえず歩き回ってみるっきゃねえか?」
「いや、ここは神々の住まう地。何が待っているのか解らんこの状態で、闇雲に歩き回るのは危険だ」
「とは言っても……目印になりそうなもの……」
僕らはその場に立ち尽くしたまま、これからどう行動すべきかを考え込む。すると不意に、何かに気付いたようにランドが顔を上げた。
「あの辺……何か泡、少なくねえか?」
「え?」
そう言ってランドが指差した方向を、振り返ってみる。言われてみると、確かにその部分だけ少し泡の層が薄い気がした。
「……待てよ、神の力なら精霊を操る事も容易い筈だ。もしかして……」
同じ方向を眺めながら、サークさんが精霊語で白く輝く赤ん坊を呼ぶ。赤ん坊が発光しながらゆっくりと泡の薄い部分に近付いていくと、何もなかった筈のそこに突然天高くそびえ立つ白亜の塔が現れた!
「おおー! いきなり塔が出てきたぞ!」
「やっぱりか。光の精霊の力を利用して、この塔を目には見えなくしてたんだ。だが泡の量までは誤魔化しきれなかったから……お手柄だったな、ランド」
「えっ……い、いやあ、それほどでも」
褒められて満更でもない様子で鼻の頭を掻くランドを微笑ましく見つめた後、改めて現れた塔に視線を向ける。この上にきっと……今も世界を滅ぼす為に、力を蓄えている神々がいる!
「行こう、皆。……最後の戦いへ!」
僕が塔へと一歩を踏み出すと、皆もまたそれに続いた。
力を込めて押すと、塔の入口の扉は簡単に開いた。目の前にはがらんとした空間と、上に続く階段だけがある。
「ランド、辺りに罠がないか注意して見てくれ。他の皆も、どんな細かい事でも見逃すな」
サークさんの指示に従い、辺りを注視しながら階段へと進む。見た目には本当に何もない部屋で、目立つものは床一面に描かれた何かの紋章くらいだ。
「クラウス、この床に描いてあるのって何だか解る?」
「大きすぎて確定とまではいかんが……そうだな。海神ユノキスのシンボルの形によく似ているように思える」
『当然だ。あれはこの、私が創作したシンボルマークを元に作らせたものだからな』
空間の中央付近まで来たところで、急に脳内に冷たさを感じる男の声が響く。身構える僕らの目の前に、白い学者風の服に身を包んだ銀髪の青年が空中に直立するようにして姿を現した。
『初にお目にかかる、裏切り者の息子とその一味。私は海と学問を司る神ユノキス。この世で最も広く深い知識を持つもの』
「出たな……神め!」
『まったく、遂に神聖なるこの地にまで乗り込んでくるなど。いくらアンジェラの助けがあるとはいえ、地上の生き物は厚かましいと言う他にないな』
冷淡な言葉と共に、ユノキス神が僕らに侮蔑の視線を向けてくる。僕らはそれに負けないよう、強くユノキス神を睨み返した。
「世界を、皆の命を守る為……お前達は必ず倒す!」
『威勢の良い事だ。だが貴様達の命はここで終わる。他ならぬ、人間が生み出した技術によってな』
そう言ってユノキス神が指を鳴らすと、床の紋章が光って部屋中を埋め尽くすように小さな人影が現れる。何も映さない瞳を湛えたその顔に、僕らは思わず驚愕した。
「エルナータ!? 皆、エルナータと同じ顔……!」
現れたそれらは皆、エルナータと同じ顔をしていた。違いと言えばエルナータ似の少女達が着ているのはエルナータが初めて会った時に着ていた銀色の奇妙な服で、エルナータが身に付けているのはすっかりボロボロになったノースリーブの白いワンピースであるという事ぐらいだ。
『人間は愚かだが、時に面白いものを作る。その中で特に面白いのがこれだ。妻である神を瀕死に追いやられ発狂した男が、まだ息のあった愛する妻の魂を利用して造り上げた殺戮人形。生憎オリジナルであるその個体は完成はしたものの年老いていた男が稼働前に死を迎えた為、そのまま地中深く封印されるというつまらぬ結末を迎えたが、その完成度は神である私をもってしても素晴らしいと思える出来。だから次の地上攻めには是非使わせて貰おうと、こうして大量生産しておいたのだよ』
「ちょっと待てよ……それって作るのに、神様の魂がいるんだろ。……まさか……!」
何かに気付いた様子のランドに、ユノキス神はふん、と鼻で笑い返す。そして事も無げに、こう言い放った。
『勿論、動力源となる神は改めて造った。私の造ったものだ。好きなように利用して何が悪い?』
「……テメエ……っ!」
ランドが表情に怒りを滲ませ、ダガーを握り締めた手を震わせる。僕も同じ気持ちだ。兵器として利用する為だけに命を生み出すなんて、自分達が愚かと蔑む人間と何が違うって言うんだ……!
「ランド、怒りは解るがこの状況は不味いぞ。奴の言が確かならばこ奴らは皆チビと同様、もしくはそれ以上の戦闘力を持つ事になる。いくらこちらも、アンジェラ神のお陰で力が上がっているとは言え……」
「ここで力を使いすぎれば後に控える神々、特に天空神ウルガルとの戦いは確実に不利になるだろうな。くそっ、戦は数たあよく言ったもんだぜ!」
いつ偽エルナータ達が動き出してもいいようにと背中合わせになり全体の様子を窺いながら、クラウスとサークさんが揃って厳しい表情になる。確かに、この包囲網を突破するのは容易な事じゃない……。
「エルナータ。……」
その時ランドがエルナータに近付き、耳元で何かを囁く。エルナータはそれに真剣な表情で頷いたかと思うと、おもむろに僕の方に駆け寄って来た。
「エルナータ、どうし……」
「リト、舌噛まないように気を付けろ!」
「え?」
言うが早いが、エルナータが突然僕の体に髪を巻き付け持ち上げる。そしてそのまま階段の方に向かって、僕の体を勢い良く放り投げた。
「うわああああああああっ!?」
目の前を高速で景色が流れていき、間もなく体が階段横の壁へと激突する。痛みを堪えながら身を起こし振り返ると、クラウスとサークさんが同様にこちらに向かって吹き飛ばされてくるのが目に入った。
「うわっ!」
慌てて身をかわすと、二人の体もまた壁に衝突して止まる。クラウスが特に強く打ったのか額を押さえながら立ち上がると、遠くからランドの声がした。
「ここは俺とエルナータに任せて、早く上に行け!」
「ランド、何を!?」
「ここで全員フラフラになっちまうよりはこの方がいい! それにあの野郎の顔だけは、この手でぶん殴ってやらなきゃ気が済まねえ!」
「そうだ、リト! それにエルナータ達は、こんなところで絶対に負けない!」
二人が僕らに向ける顔は真剣そのもので、意志は固いようだった。それを見て、僕らもまた覚悟を決めた。
「……解った。すぐに上を片付けて、戻ってくるから!」
「馬ー鹿、俺らがここを片付けてお前らを助けに行く方が先だっつうの!」
『人間らしい、実に傲慢で無謀な試みよ。いいだろう、貴様達が片付くまでこいつらには仲間を追わせないでいてやろう。その方が仲間が死を迎えたという絶望が解りやすくなるからな』
「やれるもんならやってみな。人間のしぶとさって奴を見せてやる!」
ランドとエルナータ、そしてユノキスが向かい合い、睨み合う。僕らは僅かに残るこの場に残りたい思いを振り切り、階段を登る事にした。
「……っ、死ぬなよ、ランド、エルナータ!」
「エルナータじゃない、エルナータ……あっ、クラウス、お前初めて名前……!」
クラウスとエルナータのそんなやり取りを最後に、僕らは階段を急ぎ駆け上っていった。