第百二十一話 リトとレクス
――僕は、神の子と人間の間に産まれた。
僕の産まれた頃、世界は人間と魔物が争い合うその真っ只中にあった。昨日顔を合わせた人と今日死に別れる、そんな日常の中で僕は成長していった。
僕が初めて武器を手にしたのは、六歳の時。それは殺傷力の低い木製の剣でしかなかったけど、その頃から僕は既に父さんと共に魔物と戦うのだと決めていた。
父さん――風のように颯爽と現れ手強い魔物達を次々と倒し、今では英雄とまで呼ばれるようになった僕の父、リト。
同じく戦士だった母さんが魔物に殺されてからは男手一つで僕を育ててくれた、僕の自慢の父親――。
僕が剣を取り始めると、父さんやその仲間達が暇を見つけては戦いの指導をしてくれるようになった。指導は剣だけに限らず、どんな武器を使っても問題なく戦えるようにと様々な武器を使った戦い方をみっちりと仕込まれた。
今思うと、子供には過ぎた鍛練だったかもしれない。それでも、僕は嬉しかった。
まだ幼い僕を、一人の戦士として認めてくれた父さんや皆の気持ちが。そんな皆の為に、強くなろうと努力出来た事が。
いつか皆と共に戦場に立てる日を夢見ながら、僕の鍛練の日々は続いていった。
初めて戦場に立つ許可が出たのは、十歳の時だった。僕はまだ手に少し重い鉄製の長剣を背中に下げると、父さんと共に魔物の一群に襲撃を受けたという町に向かった。
町は酷い有り様だった。建物は無惨に破壊され、道には魔物に食い殺されたのか人体や内臓の一部だけが点々と転がり……。
それを見て僕は恐怖よりもまず、強い憤りを感じた。人々が平和にくらしていただろう町を、こんなに無惨な姿に変えたまだ見ぬ魔物が許せなかった。
『急いで魔物達を探しましょう、父さん! これ以上、魔物達の好きにさせてはいけません!』
僕はすぐさまそう進言したけど、父さんは首を縦には振らなかった。他の仲間達も、一様に難しい顔をしていた。
『どうしたんですか!? 早く魔物をっ……!』
『怒りに冷静さを欠いてはいけない、レクス。……このわざとらしい食べ残しの跡、恐らく敵は我々を自分達の有利な場所に誘い込もうとしている。そこにみすみす飛び込めば、出さなくていい犠牲をみすみす出す結果になりかねない』
『そんな! 怖気付いたのですか!? 僕らの力なら、それぐらい何とでもなる筈です!』
『勿論魔物達は叩く。だが正面から向かうのは避けるべきだと言っている。まずは斥候を出し、敵の配置を確認してから……』
『そんな悠長な事をしている間に、まだ生きているかもしれない人達が犠牲になったらどうするんです!? ……いいです、僕一人でも行きます!』
『レクス!』
そう言って、僕は一人町中へと飛び出していった。今ならこの行動が、どんなに無謀なものだったか解る。けれどこの時の僕は完全に幼い正義感で頭が一杯になって、魔物を一刻も早く殲滅する事以外考えられなくなっていたんだ。
魔物の食べ残しを辿るように走ると、やがて町の中央広場に辿り着いた。真ん中に位置する噴水の中には人々の死体がプカプカと浮かんでいて、池の色を真っ赤に染め上げていた。
『魔物め! 出てこいっ!』
背中から剣を抜き放ち、僕はそう叫びながら周囲を見回した。すると建物の屋根の上で、何かが蠢いた気がした。
『降りてこい! 正々堂々と勝負しろ!』
その方向に向かってもう一度叫ぶと、突然僕の足元に矢が突き刺さった。その音に慌てて僕が振り返ると……いつの間にか辺りの屋根の上一杯に沢山の蜥蜴頭の人型の魔物が陣取り、こちらに向かって弓を構えていた。
父さんの言う通りだった、そう後悔した時には既に遅く。身を守る術を持たない僕の身に、一斉に矢の雨が降り注いだ。
『遮れ、盾よ!』
その時、誰かが僕に覆い被さり矢を防ぐ盾となった。恐る恐る振り返った僕が見たものは、大きな盾を上にかざし矢の雨を防ぐ父さんの姿だった。
『大将とレクスを死なせるな! 『我が内に眠る力よ、氷塊に変わりて敵を撃て』!』
『屋根の上のリザードマンをとにかく先に撃ち落とすんだ! シールドを絶やすなよ!』
直後に広場に入り込んできた戦士達が、屋根の上の魔物達と死闘を繰り広げ始めた。僕もその列に加わろうとするも、僕を固く抱き締める父さんの腕がそれを許さない。
結局僕は、屋根の上の魔物達が全滅するまで父さんに守られているしかなかった。
戦いはこちらの勝利で終わったものの、上から攻撃され続けるという不利な状況もありこちらの方にも怪我人や死者が少なからず出た。怪我人はすぐに治療を受けられたけど死んだ者はどうにもならず、遺体はそのまま故郷まで運ばれる事になった。
僕は恐ろしかった。魔物が、戦いがじゃない。自分の軽率な行動がこれほどの被害を生んだ、その事実が恐ろしかった。
『レクス』
父さんに名を呼ばれ、僕は飛び上がりそうなほど震え上がった。きっと今日の事を酷く叱られる、もしかしたら役立たずと捨てられるかもしれない――そんな事を考え、もうどうしたらいいか解らなくなった。
僕は目を固く閉じ、父さんの次の言葉を待った。そんな僕を、父さんは――強く強く、腕の中に抱き締めた。
『……私は、指揮官失格だ』
僕を抱いたまま、父さんが呟いた。気が付けば、その腕は微かに震えていた。
『お前が飛び出していった時、全体の被害を考えるならばあそこでお前を見捨てるのが正解だった。しかしそれはどうしても出来なかった……私は自分の息子可愛さに、私を信頼してくれる仲間達をみすみす危険に晒したのだ』
その言葉にショックはなかった。それよりも、ただただ悲しかった。大好きな父さんが、自分のせいで苦しむ事になってしまった事が。
『それでも、なお、少なくない犠牲を出しながらもお前がこうして無事に生きている事にホッとしている。犠牲を出した辛さよりも、お前が無事である喜びの方が勝っている……。私には、覚悟が足りなかった。お前が命を失うかもしれないという、その覚悟が。私は、私には……人の命を預かる資格などない……』
『とう、さ……ふぇ……』
一気に、涙が溢れてきた。悔しかった。自分の未熟さがさっきまで生きていた人を殺し、父さんまで傷付ける事になった事実が悔しくて、僕は泣いた。
強くならなければならない。心も体も。もう二度と、誰も悲しまなくて済むように。
心の中の弱さを総て追い出すように、僕は父さんの腕の中で泣き続けた。
『とても綺麗です、父さん』
魔物との戦いにも、何とか慣れてきた頃。僕は父さんに連れられ、美しい花畑にやって来ていた。
『ああ、これも総て大いなる大地の恵みのお陰。私達人間は、この恵みなしには生きられない』
花畑を見つめながらそう語る父さんの横顔はとても穏やかで、僕はそれを見るだけでも何だか嬉しかった。このところ魔物達との戦いは激しさを増す一方で、こうして穏やかな時間を過ごせる機会も少なくなってきていた。
『この大地を……人々の営みを守る為、我々は戦い続けなければならない。解るな、レクス』
『はい、勿論です。父さん』
こちらを振り返り微笑みを浮かべる父さんに、僕もまた笑顔を返す。優しく僕の頭を撫でる父さんの手の温もりに目を細めていると、後ろから僕らを呼ぶ聞き慣れた声がした。
『ここにいたのですか、リト、レクス』
『あ! アンジェラ様!』
その人の姿を認めると、僕は駆け寄っていってそのまま抱き付いた。母さんを早くに亡くした僕にとって、アンジェラ様は神様でありながらまるで母親のような存在だった。
『元気そうですね、レクス』
『はい! この間は西の大陸まで遠征して、魔物達と戦ったんですよ! このままもっともっと強くなって、もっともっと多くの人達を救えるようになりたいです!』
『……そう。頑張っているのですね』
僕の報告を聞いたアンジェラ様は少し悲しそうな顔をしたけど、あの頃の僕にはその理由は解らなかった。今にして思えば、アンジェラ様は辛かったのだ。僕のような幼い子供までが、戦いに出なければならない現実が。
『アンジェラ様こそ、調子は如何ですか。近頃はドラゴンのような強力な魔物こそ現れませんが、魔物の数そのものは前より増したように思います』
『ウルガル達も焦っているのでしょう。恐らくあちらには、もう弱い魔物を多く造り出すだけの力しか残されていません。この猛攻を凌ぐ事さえ出来れば、ウルガル達は力を使い果たし長き眠りに就かざるを得なくなるでしょう』
側で聞いていた僕には二人の話は何となくでしか解らなかったけど、この戦いの終わりが近付いてきているのだという事は感じ取れた。世界が滅びるか、魔物が滅びるか――今こそがその正念場なのだ。
『……そうなれば、アンジェラ様も』
『はい。神の力は人の身に余るもの。私も地中深く眠りに就き、再び本当に私の力が必要になるまで人々から離れましょう』
『……アンジェラ様と、もう会えなくなるのですか?』
けれど告げられた次の言葉に僕は不安になって、アンジェラ様の服の裾を掴む。アンジェラ様はそんな僕の頭を優しく撫で、微笑みを浮かべながら答えた。
『例え直接会う事はなくなっても、私はいつもレクスを見ていますよ。あなたの事は、私の実の子と同じように大切に思っていますから』
『本当ですか? 約束ですよ! 僕もいつも、アンジェラ様の事を想っています!』
『うふふ、元気なお返事。その純粋さを、どうか失わないで下さいね。いつまでも……』
アンジェラ様が笑い、父さんが笑い、そして僕が笑う。それは本当に、本当に幸せな時間だった。
僕が十六になったその年、漸く魔物は鎮静化した。アンジェラ様以外の他の神々を崇拝していた信徒達は粘り強く抵抗していたけど、それが治まるのももう時間の問題だった。
そんなある日、僕は突然父さんに呼び出され部屋を訪れた。そこで告げられたのは、驚愕の内容だった。
『レクス。……実はお前に、千年後の未来に行って貰いたい』
『千年後……!? い、一体どういう事ですか!?』
『アンジェラ様が眠りに就かれる前、私に教えて下さった。蒼き月にいる神々が力を取り戻すまで、およそ千年。そしてその千年後こそ、蒼き月へと通じる道の封印が解ける時なのだと。蒼き月に直接乗り込み神々を完全に滅ぼすには、この時を置いて他にない。しかしもし千年後に唯一蒼き月への道を開く事の出来るアンジェラ様が逆に神々に滅ぼされれば、今度こそ世界の滅びは避けられなくなる……だからアンジェラ様は最後に残したのだ。自分を守る、そして神々と戦う戦士を送り込む為、千年後の未来へと直接転移する事が出来る転送陣を』
驚く僕に、父さんは真剣な表情でそう告げた。けれど僕はすぐに父さんの言う事を飲み込む事が出来ず、ただ目を白黒させるばかりだった。
『私が自ら、未来に赴く事も考えた。だが魔物という共通の敵を失った今、誰かが人々を取り纏めていかなければ新たな争いは避けられぬものになるだろう。私は本当の世界の平和を、ここまで生き残った仲間達と作っていかなければならない。……それに、私ももう随分と年を取った。後は衰えるばかりの力で大事な戦いに臨むよりは、お前の若い力に総てを託そうと思ったのだ』
『しっ、しかし……僕の腕前はまだ、父さんには遠く及びません!』
『確かに、お前にはまだまだ未熟な面も多い。だがこの大事を託せるのは、お前を置いて他にないと思っている。腕前だけの問題ではない。私とアンジェラ様の意志を最も強く受け継いでいるお前ならば、きっと神々の力に屈する事はないと私は信じている』
そんな僕を深く覗き込むように、父さんがじっと僕の目を見つめた。その僕と同じ色の透き通るような蒼い瞳を見つめていると、不思議と心が落ち着いてくるような気がした。
父さんがこんな僕をここまで買ってくれているのならば、命を懸けてでもそれに応えるしかない。そんな覚悟が、だんだん僕の心を満たしていった。
『――解りました。必ずアンジェラ様を救って神々を討ち、永久に人々が魔物に脅かされる事のない平和な世界を作ってみせます!』
決意と共に僕がそう告げると、父さんは小さく微笑みゆっくりと頷いた。そして僕に、見覚えのある銀色の腕輪を差し出した。
『これは……父さんの『神殺し』ではないですか!』
『レクス、最後にこれをお前に託す。もしも時が来たら、こう唱えろ。大丈夫、私の息子であるお前ならば扱える筈だ。いいか、忘れるなよ。『我が声に応え、総てを消し去れ、光よ』』
『我が声に応え、総てを消し去れ、光よ……』
『それで『神殺し』は真の姿に戻り、神をも殺す刃となる。これを付ける言葉と外す言葉も教えておこう。総てが終わった後、この『神殺し』をどうするかはお前次第だ』
僕は手を伸ばし、父さんの手から『神殺し』を受け取った。『神殺し』は温かくも冷たくもなく、金属製に見えるのに酷く軽い不思議な腕輪だった。
『……すまない。まだ若いお前に、このような過酷な使命を強いて』
不意に父さんの顔が、辛そうに歪んだ。僕はそんな父さんに、目一杯明るく笑ってみせた。
『いえ、逆に光栄です。父さんがそれだけ、僕を認めて下さったという事ですから。例え父さんと二度と会えなくなっても、この誇りを僕は決して忘れません』
『……! レクス……戦う事ばかりで親らしい事を殆どしてやれなかった私を、どうか許してくれ……!』
この日父さんは、初めて僕の前で涙を流した。僕は父さんの涙を止めたかったけど、どうしていいか解らなくて結局オロオロするしか出来なかった。
父さんと、そして僕が生まれ育ったこの時代との別れが、すぐ側まで迫ってきていた。
出発の日。僕は父さんに連れられ、アンジェラ様の神殿の地下へとやってきていた。
そこに在ったのは複数の神官達の姿と巨大な転送陣。これを使い、いよいよ未来に飛ぶのだと思うと緊張で口の中に唾が溜まってきた。
『準備はいいな、レクス』
『はい、いつでも行けます』
右腕の『神殺し』に軽く触れながら、僕は父さんに頷き返した。そして転送陣へと、一歩を踏み出そうとした瞬間。
――ズゥン!
突然強い振動が、地下室全体を揺るがした。何事かと辺りがざわめき出す中、地上から神官が降りてきてこう告げた。
『大変ですリト様! ウルガル教徒が攻撃を仕掛けてきました!』
『何!? よりにもよってこのタイミングで……!』
『僕も共に戦います、父さん!』
僕はすぐに父さんにすがったけど、父さんは厳しい顔で首を横に振った。そして僕の肩を掴み、真剣な声で言う。
『駄目だ、お前の務めを忘れたか。この転送を中断してしまえば、総てが無駄になる!』
『ですが!』
なおも追い縋ろうとする僕の体を、父さんが強く突き飛ばした。気が付けば僕の体は、転送陣の中心にあった。
転送陣から光が放たれ、視界を白く覆っていく。転送陣の外に向けて手を伸ばした僕が最後に見たのは……父さんの、優しい笑顔だった。
『アンジェラ様を救え。それはお前にしか出来ない事だ。頼んだぞ!』
『待って下さい、お願いです、父さん!』
――そして僕の意識は、完全に暗転する。