第百十一話 蹂躙の炎
「陛下、馬の準備が完了しました! いつでも出られます!」
「ご苦労だった。……お前達、全員馬には乗れるな? 乗れない者がいればこちらで供を付けるが」
「馬ならバッチリだぞ! 沢山練習したからな!」
駆け込んできた兵士の報告に、エンデュミオン王がこちらを振り返る。それに対しエルナータが、元気一杯に答えた。
「そうか。……これを渡しておこう。我が使者である事を示す、グランドラ王家の紋章が刻まれた銀時計だ。国境に着いたら警備兵達に見せるといい」
「恩に着る。エンプティが余計な手を回していなければいいんだが」
差し出された銀時計を、サークさんが受け取る。ふと見ると、エンデュミオン王の目はじっとクラウスに注がれていた。
「……クラウディオ」
「クラウスです。クラウディオ・アルペトラ・グランドラの役目は終わりました。後はあるべき姿に、アウスバッハ家嫡男である本来の自分に戻るだけ」
「お前がそうしたいのならば、それで良い。ここまで散々醜態を晒した私だ、今更兄と思ってくれなどとは言えん。だが……いつかでいい、聞かせてくれないか。お前がどのように産まれ、育ってきたのかを」
エンデュミオン王に対し無表情を装っていたクラウスの顔が、僅かに動いた。そしてそのままエンデュミオン王に背を向け、顔を見せないようにして言った。
「考えておきます。……兄上」
「……クラウディオ……」
その言葉に、エンデュミオン王が破顔する。それを温かな気持ちで見届けた後、僕らも外に出るべく扉の方を振り返った。
「お前達に、天空神ウルガルの導きがあらん事を。自らの過ちの精算を人任せにしか出来んのは情けない限りだが、今はお前達に総てを託すしかない……頼んだぞ!」
「はい……エンプティは、僕らの手で必ず止めてみせます!」
エンデュミオン王にそう返し別れを告げ、僕らは外に用意された馬の元へと急いだ。
闇の中を、六頭の馬が駆けていく。いつも月明かりと星明かりに満ちた夜空は今は厚い雲に覆われ、先頭のサークさんが呼び出した火の精霊が灯す明かりだけが僕らの道標になっていた。
「くっそ、眠ぃ……けど、今は寝てらんねえ……!」
ここまでの疲労が蓄積されているのか、軽く目を擦りながらランドがぼやく。僕も体が重くなってきているけど、今は休んでなんかいられなかった。
……さっきからずっと、心が騒ぐ。エンデュミオン王からエンプティの目的を聞かされてから、ずっとだ。
世界の危機という規模の大きすぎる話に気圧されたのかと最初は思ったけど、そうじゃない。胸の中から、止めどなく沸き上がる焦燥感。
こうなる事を、僕は知っていた。そんなような気がしてならないのだ。
僕は最初から、この状況を止める為に戦っていたのではないのか。レムリアに眠る何かを、無意識のうちに守ろうとしていたのではないのか。
そう思ってしまう程に、聞かされたエンプティの目的は僕の中ですとんと腑に落ちた。責任逃れの為の出鱈目だと、そう思っても不思議ではない話なのに。
事実僕以外の皆は、エンデュミオン王のその話には半信半疑といった様子だった。それでもエンプティを放って置けないのは事実なので、レムリアに戻る事自体は皆異存はなかった訳だけど。
「皆……お願い、どうか無事でいて……!」
呟かれたアロアの祈りと同じ事を僕は思いながら、全力で走り続ける馬に総てを託すしかなかった。
一昼夜馬を走らせ続けてやっと国境に到着し、そこで限界を迎えた馬を少し休ませてからまた出発する。エンプティの手は国境には回っていなかったようで、国境の警備兵達はグランドラの銀時計を見せるとすんなりと門を開けてくれた。
馬を休ませた時に僅かな食事と眠りを摂っただけの体は万全には程遠かったけど、戦えないほどじゃない。それにフェンデルにいるマッサーさんやレジーナさん達の事を思えば、のんびりと休める筈もなかった。
途中に見える無惨に破壊された町の残骸に、心が痛む。この破壊を防ぐ方法はなかったのかと、後悔が胸に重くのし掛かる。
けれど、ただ後悔するだけなら後で幾らでも出来る。今はとにかく、やるべき事をやらなければならない……!
空はずっと厚い雲に覆われたままで、青空も太陽の光もその向こう側に隠れ姿を現さない。それはまるで不吉の前兆のようで、冷たさを増した空気と共に嫌な感覚を僕らに運んできた。
やがて世界が闇に覆われ、夜が来る。サークさんが再び前方を照らそうと、火口箱に火を点け火の精霊を召喚しようとした時だ。
「前の方、何か明るい! 何か燃えてるみたいだ!」
サークさんの隣を走っていたエルナータが、突然前を指差し叫んだ。その声に前方に目を凝らすと、確かに何か大きなものが燃えているような赤みを帯びた光が遠くに見える。あの色は、アウスバッハ領を逃れる時に幌の隙間から見たものと同じ……。
「一歩遅かったか……! いや、まだだ! 城内に入るまでは諦めるな!」
同じ事を思ったのだろう、クラウスが声を張り上げ僕らを鼓舞する。そうだ。諦めてしまえば、本当に総てが終わってしまう……!
馬が灯りに近付くにつれ、その全貌が見えてくる。燃えていた。高い城壁の向こうを、赤々とした炎が蹂躙していた。
その更に奥にある城までは、火の手は届いていないようだった。けれど……見慣れた筈のフェンデルの姿は、もうそこにはなかった。
「このまま西門を抜ける! グランドラ兵達に捕まるなよ!」
サークさんの号令に従い、粉々に破壊された門扉の残骸を踏み越える。街の中に入ると、そこはまさに地獄絵図だった。
建ち並ぶ建物は炎に焼かれ、中には半分が焼け落ちたものもある。辺りは血と灰の臭いで充満し、道には血溜まりの中に沈む物言わぬ兵士達の骸が無数に転がっている……。
「うっ……」
あまりに凄惨な光景を目の当たりにして、アロアが青い顔で口元を押さえる。僕も馬を走らせる事に集中していなければ、今頃立ち止まり吐いていたかもしれない。
「うわっ!」
その時空気を切り裂く音がして、一本の矢がランドの乗っていた馬に突き刺さった。その痛みに馬が激しく暴れ、ランドが馬の背から振り落とされる。
「ランド!」
慌てて馬の足を止め、その背から飛び降りランドの元へ向かう。すると道の脇から、無数の矢が僕らの方に向かって飛来してきた。
「遮れ、盾よ!」
僕はすぐに盾を出し、ランドを隠すように前に立つ。矢の雨は総て盾に防がれ、僕らに突き刺さる事はなかった。
「いてて……た、助かったぜ、リト……」
「ヴオオオオオオオオオッ!!」
続けて狂ったような叫び声が聞こえ、僕は盾の横から顔を出す。前方からはグランドラ軍の鎧を着た兵達が数名、武器を振りかざしこちらに向かってきていた。
「うわっ、来た!」
「煌めけ、剣よ!」
背後のランドと共にすぐに戦闘態勢に入るけど、微かな違和感が僕を支配した。……何かおかしい。峡谷で戦ったグランドラ兵達とは何かが違う……。
「……えっ!?」
近付いてきた兵士達の顔が炎に照らされた時、僕は違和感の正体に気付いた。まるで以前見た、悪魔パヴァーに操られたデュマの町の住民達のように正気を失った顔をした兵士達の目には――。
――黒目が、全く存在しなかった。