第百五話 王妃シルヴィア
「ここが俺の家だ。客用の椅子はねえ。座りたきゃ適当に床に座れ」
込み入った話はここでは出来ないと酒場を出て、僕らはジノさんの家に案内された。ジノさんの家は入り口の扉はしっかりしてたけど壁の漆喰はボロボロで所々剥がれ落ち、窓も枠だけしか残らず開きっ放しという一見して廃墟と見間違いそうな有り様だった。
「お化け出そうだな、ここ」
「エルナータ、しっ!」
家を見回しストレートな感想を口にするエルナータを、慌ててアロアが諌める。けれどジノさんは気にした様子もなく、自分だけ古びた椅子に腰掛けた。
「いつからこの家に?」
「十六年前貴族の位を剥奪されてからずっとだ。親父達他のクルーレ家の連中は他の国に移住したが、俺だけがこの国に留まった」
「……どうしてですか?」
「おいおい、俺の過去を詮索する為にわざわざ探してた訳じゃねえだろう? 御託はいい、さっさと要件を言え」
僕の質問に答える気はないと暗に言うように、ジノさんはシニカルな笑みを浮かべた。同時に告げられた言葉に、サークさんが口を開く。
「ガライド・アウスバッハの紹介で来た。あんたの力が借りたい」
「へえ、あのアウスバッハの麒麟児が俺をご指名とは。一体俺に何をさせてえんだ?」
「城に潜り込み、国王に直接面会したい。中央の内情に詳しいあんたなら、突破口を開けるかもしれないだろう?」
「……陛下に? お前ら何がしたい?」
初めて、ジノさんの眉がぴくりと動いた。そこに僕は、畳み掛けるように言った。
「レムリアとグランドラの戦争を止めたいんです。これ以上、誰も傷付かないように」
「あんた、昔は将軍だったんだろ? もし秘密のルートとか知ってたら教えてくれ!」
ランドも身を乗り出し、真剣な表情で言う。そんな僕らを見回して、ジノさんは……声を上げて笑った。
「くくく……あっはっは! いや、いい冗談を聞かせて貰ったわ。真面目な顔して何を言うかと思えば、お前ら役者でも目指してんのか?」
「冗談なんかじゃありません! 僕らは本気で……!」
「帰んな。こんなおっさん騙くらかしたって、びた一文入りゃしねえよ。そういうのは、もっと金がある奴に言うもんだ」
僕は抗議するけど、ジノさんは頭から僕らの話を信じていないようだった。椅子から立ち上がり、そのまま家の奥に引っ込んでしまおうとする。
「……待て。これを見ても、まだ僕らの言葉を偽りだと断じるか?」
そこにクラウスが、一歩前に進み出る。そして僅かに振り返ったジノさんに、ローブの袖を捲り自分の右肩の星型の痣を見せた。
「……!」
瞬間、ジノさんの動きが止まった。その目は大きく見開かれ、肩が微かに震えている。
「その……痣は……いや、あのお方は産まれてすぐに死んだ筈……だが、まさか……!」
「僕の名はクラウディオ・アルペトラ・グランドラ。先代の王ロディマス・ネーナ・グランドラの遺児にして、現国王エンデュミオン・シルヴィア・グランドラの実の弟だ」
「……ああ……!」
唇をわなわなと震わせたジノさんが、その場に崩れ落ちた。今にも泣き出しそうに潤んだその目は一身に、クラウスの顔に注がれている。
「何て事だ……何と言う事だ……! 言われてみれば、どこか幼い頃の陛下に似ている……生きていた……俺とシルヴィア様のした事は、無駄ではなかった……!」
「……もし知っているならば、当時の話を聞かせてくれないか、僕に。何故我が母アルペトラは先代の子を身籠ったのか、その後何がありアウスバッハ領まで辿り着いたのか……」
気丈に王弟クラウディオとして振る舞いながらも、クラウスが当然の疑問を口にする。ジノさんの態度は、明らかに当時何があったか知っているものだった。
ジノさんは零れそうな涙を腕で拭うと、改めて床に座り直した。そしてぽつりぽつりと、当時の事を語り始めた。
「……俺は二十五の時、老齢だった親父の跡を継ぎ将軍になった。当時の王宮は酷ぇ有り様だった……王は自らに対する甘言しか聞き入れず、貴族達は互いを蹴落とし合う事しか考えない。将軍として国を良くしていこうなんて俺の青い理想は、あっという間に打ち砕かれちまった。そんな俺が、それでも腐らず務めをこなせたのはあのお方……シルヴィア様がいたからだった……」
「シルヴィア様……王様のフルネームからして、今の王様のお母様ですか?」
「そうだ。シルヴィア様は政略結婚でこの国に嫁いでこられたお方だったが聡明でお優しく、王宮の現状にいつも心を痛めておられた……王妃という名の籠の鳥の自分には、何も出来ないと陰で嘆きながら……」
昔を思い出すように遠い目になりながら、ジノさんがアロアの質問に答える。ジノさんにとってシルヴィア王妃は、本当に尊敬に値する人だったのだろう。
「そんなある日の事だ。シルヴィア様と特に仲の良かった侍女のアルペトラが子を身籠った。相手は解っていた……当時の国王だ。国王は女好きで、少しでも気に入った侍女がいればすぐに手を付ける悪癖があった。この事実に、俺とシルヴィア様は青くなった」
「何で? 正妻は自分だし子供もいるんだから、他に子供が出来たって地位は安泰なんじゃ……?」
「普通じゃそう考えるわな。そうじゃねえんだ。国王は無闇に子供を増やして跡目争いを起こさないよう、手を付けた侍女に子供が出来たと解ると秘密裏に始末し続けていたのさ」
「な……! 何だよそれ! 自分で手を出しておいて……!」
衝撃的なジノさんの発言に、ランドが憤慨の言葉を返す。ランドの怒りはもっともだ。自分の身勝手で手を出したのに、それで都合が悪くなったら殺すだなんて……!
「アルペトラはシルヴィア様とは同郷で、シルヴィア様とは本当の姉妹のような間柄だったし俺も仲が良かった。俺達はせめてアルペトラだけでも救いたいと考え、王宮から密かに脱出させたんだ。だがそれが国王にばれ、俺は王妃と不義を働いた事にされ将軍位と貴族位を剥奪されて王宮追放。シルヴィア様も二度と王宮の事に干渉が出来ないよう離宮に幽閉され、息子である陛下とも引き離された……」
「……酷い……」
事の凄惨さに呆然とするアロアの体を、そっと支える。同じ女であるアロアには、当時の国王のこの仕打ちは特に恐ろしいものに思えただろう。
「それでも俺は、アルペトラが生きて子を……男ならクラウディオと名付けると言っていた子をどこかで産んで幸せに暮らせるならそれでいいと思ってた。しかしアウスバッハ領に辿り着いたアルペトラが死に、子も死産だったと聞かされてもうどうでもいいと投げやりになっていた……だが、生きていたんだな……俺がこうなったのも、シルヴィア様が幽閉されたのも……無駄なんかじゃなかった……!」
そこで堪え切れなくなったのか、ジノさんの瞳から涙が落ちた。僕らはその姿を、黙って見つめているしか出来なかった。
この十六年間を、この人はどんな思いで過ごしてきたんだろう。人生を懸けても大切な命を救えなかった虚しさ、後悔、無力さ……僕にはその総てを想像し切る事は出来なかった。
「……ジノ・クルーレ。母を逃がし、そして僕の命を救ってくれた事に感謝の言葉もない。……僕は兄の過ちを正したい。この戦争が無意味なものであると解らせ、国を立て直したい。……協力、してくれるか?」
やがて、踞りジノさんに視線を合わせてクラウスが言った。ジノさんはもう一度涙を乱暴に拭うと、クラウスに跪き返してそれに答えた。
「勿論です、クラウディオ殿下。今陛下に声を届けられるのは、シルヴィア様が必死で救おうとしたあなただけです。陛下を止められるのならばこのジノ・クルーレ、あなたの為に身を粉にしてみせましょう」
顔を上げ、しっかりとクラウスを見返したその銀の瞳には強い意志の光が宿っていた。