第九十九話 銀嶺の主
時折襲い掛かる野生の獣達を退けながら、僕らは少しずつカルッカ山脈を登っていった。日が落ちる頃になったら無理をしないで動かず、雪の浅い所にテントを建て休み明日に備えた。
そうして迎えたカルッカ山脈三日目。僕らを、一つの試練が襲った。
「不味いな……凄い吹雪だ」
厚い雲に覆われた暗い空を見上げたサークさんが、固い表情で口を開く。朝出発した時は落ち着いていた天気は山頂が近付くにつれて荒れ始め、今では少し先も見えない程の猛吹雪になってしまっていた。
「これ……やばくねえか? どっちに進んでるのか、これじゃ解んねえよ」
辺りを繰り返し見回しながら、ランドが言う。僕らが歩いてきたという痕跡を唯一残す足跡も、後ろの方はもう半分消えかかっている有り様だった。
「迂闊には動けん、さりとてここで立ち往生していても死を待つばかりだ。……サーク、精霊から道を聞き出せないか?」
「やってみるか。雪の精霊を呼び出すには確か……」
クラウスの提案に、サークさんが精霊語を唱え真っ白な髪と服の小さな子供を呼び出す。子供――雪の精霊はこの吹雪で興奮しているのか、動き回りたくてウズウズしているかのような仕草を見せている。
「この山の山頂までの道は解るか。解るならそこに案内してくれ」
雪の精霊はサークさんの言葉にこくこくと頷き、宙に浮いたまま僕らを先導し始めた。その動きは活発そのもので時に見えない程遠くへすっ飛んでいく事もあったけど、すぐに帰ってくる辺りサークさんに忠実に従ってくれてはいるようだ。
「こんなに精霊が活発だなんて、天気のせいもあるけどこの地にも大精霊がいるのかしら」
「可能性はあるな。人が立ち入らない土地ほど、大精霊もまた生まれやすいと聞いた事がある」
そんな雪の精霊の様子を見ていたアロアがぽつりと呟き、クラウスが同意を返す。大精霊という単語にラヌーンの集落の大精霊の事が思い出されて、贖罪にちくりと胸が痛んだ。
「なあサーク、精霊に頼んでこの雪止ませられないのか?」
「それは流石に無理だな。これだけの吹雪だ、暴れ回ってる精霊は百や二百じゃ効かない。その数の精霊を全部制御して操るなんて、もし出来るとしたら神様ぐらいだよ」
エルナータの素朴な疑問にサークさんが苦笑を返し、飛び回る雪の精霊を極力制御しようと努める。自然というものは本当に脅威なのだと、僕は改めて悟った。
「……? どうした?」
と、サークさんが不意に足を止め雪の精霊に声をかける。その声に雪の精霊を見ると、さっきまでご機嫌で飛び回っていた筈の雪の精霊がいつの間にか動きを止め、ぶるぶると震えていた。
何があったのか、そう聞こうとする前に雪の精霊が縮こまるように姿を消す。雪の精霊の消えた空間を呆然と眺めていると、風の音に混じって遠くで何かが羽ばたくような音が聞こえてきた。
「何だ? この音……」
皆にも羽ばたきの音は聞こえるらしく、ランドの声を皮切りにバラバラに辺りに目を凝らし始める。そうしている間にも羽ばたきはこちらに近付き、やがて辺り一帯がより暗く染まる。
「待て……この影は……これは、まさか……!」
上を見上げた、サークさんの顔色が変わる。そして……それは、僕らの前に姿を現した。
それは、とても大きい体をしていた。吹雪の中、ギリギリ見える頭が僕らを見下ろす。
体中をびっしりと覆う鱗は銀色。僅かに鱗に覆われていない腹は大きく脈打ち、それが雪の彫刻などではない事を嫌が応にでも僕らに理解させる。
その顔は蜥蜴に似ていたけれど、頭から伸びる芸術的にも思える四本の長い角は明らかに蜥蜴のものではない。それは僕らの行く手を阻むように、ゆっくりと目の前へと舞い降りた。
「……ドラゴン……しかも、あの時より大きい……!」
その姿を見た時から、漠然とした予感はあった。けれどサークさんのその一言で、予感は確信へと変わった。
――ドラゴン。この山に住むと言い伝えられている、そしてサークさんがかつて倒したという伝説の魔物が今、目の前にいる――!
ドラゴンは、まるで僕らを観察するかのようにじっと見つめてくる。僕らはそれに縛られたように、指一本動かす事は出来ない。
「……逃げろ……」
震える声で、サークさんがやっと口を開いた。いつもの余裕はそこにはない。声から感じられたものは焦りと恐怖、それだけだった。
「逃げろ……今の俺達の実力で敵う筈がない。せめて俺が囮になる、その間にっ……!」
『その必要はない、若きエルフよ』
「!?」
サークさんが声を振り絞ったその時、突然頭の中に僕らのうち誰のものでもない声が響いた。その低く響く、威厳すら感じさせる声に僕らは戸惑い、どうしていいか解らなくなる。
『そう構えるな。そなたらさえ何もしなければ別に取って喰おうとは思わぬ。この山に冬を訪れさせる準備をしていたところ、妙に山が騒がしくなったのでこうして出向いて来たまでよ』
「もしかして……この声……ドラゴンが?」
僕が思わず考えを声に出すと、ドラゴンがそれを肯定するように目を細めた。そんなドラゴンに、クラウスが信じられないといった目を向ける。
「馬鹿な……人と言葉を交わす事が出来る魔物だと? そんなもの、聞いた事が……」
『我はかつて人の子と共に戦う神と出会い、その神の力により人の言葉を得た。そしてこの山に入ってきたもの以外に人とは関わらぬという盟約の元、ここで長き時を過ごしておる』
ドラゴンはクラウスの言葉に気を悪くした様子もなく、淡々とそう告げた。人の子と共にある神……それってもしかして……。
「あの……その神様は、もしかしてアンジェラ様っていうんじゃありませんか……?」
恐る恐る、アロアがドラゴンにそう問い掛ける。けれどドラゴンの口から返ってきたのは、期待した答えではなかった。
『我は名前というものに興味はない。よって我に言葉を与えた神の名も知らぬ。その神は一人の人の子と共に他の人の子を導いていた。我の知る事はそれだけよ』
「そ、そうですか……」
「んー……よく解んないけど、お前は悪い奴じゃないのか?」
今度は恐れを知らないように、エルナータが真っ直ぐにドラゴンを見て言う。ドラゴンはエルナータを暫く興味深そうにまじまじと見た後、こう答えた。
『ふむ、そなた、純粋な人ではないな。神の力を僅かに感じるが……まあ良い。娘よ。善悪を決めるは我ではない。ましてやそなたら人でも、神ですらない。善悪はただ、時代の総意によってのみ決まるもの』
「むー……お前言ってる事が難しすぎて解らないぞ! もっとエルナータにも解るよう喋れ!」
エルナータはその答えに理解が追い付かなかったようで、ぷうと頬を膨らませる。それでもドラゴンが、エルナータの問いにそれ以上の答えを返す事はなかった。
……善悪は、時代の総意が作る……今正しいと思われてる事も、いつか正しくなくなる日が来る。そういう事を、ドラゴンは言っているのだろうか……?
「その……まだ狐に摘ままれたような気分だが……本当にあんたに俺達を襲う気はないんだな?」
『左様、若きエルフよ。そなたから同族の血が匂ってくるので少し警戒はしたが、我はただ降りかかる火の粉を払うのみよ。……それにしてもそなたら、この山に何をしに来た? 我に挑みに来たのでなければ、冬も近いこのような時期に人がこの山に用があるとは思えんが』
かつてドラゴンと戦ったサークさんが未だ警戒した視線を向けるも、ドラゴンはそれを意にも介さない様子でそう返す。けれどそう続けられた言葉に、僕は自然と声を上げていた。
「あの! ここを通して下さい。僕らは急いでこの山を越えなきゃいけないんです!」
『何の為に?』
「大切な人達を守る為。そして、これ以上戦争を拡大させない為に!」
「そ、そうだ! 俺らを信じてくれてる人達の為にも、俺らは行かなきゃいけないんだ!」
ランドもまた、僕に続いて声を上げる。そんな僕らを見回して、ドラゴンは大きく目を細めた。
『……成る程。その言葉はどうやら本心のようだ。人とさしたる関わりを持たなくなってもう千年か。危険を侵してまで自分以外のものの為、この山を越えようとは実に面白い。いいだろう。ついでだ。我が背に乗れ』
そう言って、ドラゴンが僕らに背を向け身を屈める。俄かには信じがたいその光景に、ランドが慌てた声を上げた。
「え、えええええ!? 乗れんの!? ドラゴンに!? え、マジで!?」
『構わん。あまりそなたらにこの山にいられると獣も精霊も落ち着かず、我も安心して冬支度が出来んのだ。早く山を鎮めたい我と早く山を越えたいそなたら。利害は一致しておると思うが?』
「あ、ありがとうございます。本当に……」
『その代わり、下界で我の存在をあまり触れ回ってくれるなよ。我はなるべく静かに暮らしたいのだ。今回出向いたのは特別だ』
「解りました。約束します!」
ドラゴンに口々にお礼を言い、皆で背に乗り込む。冷たいかと思った鱗に覆われた体は、意外なほど温かく温もりに満ちていた。
『飛ばすぞ。振り落とされるなよ!』
そう言ってドラゴンは僕らを乗せて浮き上がり、吹雪に逆らうように飛び始めた。