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コウガ列伝 ~十年目の約束~  作者: 霧生大王
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第二章

第二章


 旅鴉のレオルガは一か所に長く留まらぬ風のような男であったが、今回の村に逗留してからもう二週間が過ぎようとしていた。日差しがぎらつき、暑くなり始める季節のことだ。

 広い草原に埋もれるように、もしくは丘陵地帯に埋もれるようにひっそりと存在しているこの村は、気候が温暖で住み良く、脂ののった上質な肉が狩猟され、加えて色の映えた鮮度の良い野菜が多様に栽培され、おまけにレオルガ好みの辛口な地酒を醸造してもいたが、何より村の長と気が合ったことが彼の羽をしばし休ませる決め手となったようである。

 この長、もうすぐ齢五十を迎えようとしていたが、良く日に焼けた体は筋骨隆々として、皺の多い顔に覇気を煥発させ、目からは鋭い眼光を放ち、勢いのある白い眉と髪は未だ衰えず天を衝くように溌剌と上を向いている。性格も豪胆そのもので、英雄然とした気概に春風のような爽やかさを兼ね備えていた。彼の狩猟民族の誇りと戦士の魂魄がレオルガの拳道家としての理念と相通ずるところがあったのだろう。この二人、毎夜のように酒を酌み交わし朝まで語り合うほどであった。

 かくして、レオルガに引き連れられて旅をしていたコウガも自ずとこの村への逗留を余儀なくされる運びとなったわけである。

 コウガはまだ十歳にも満たない多感で好奇心の強い年頃であり、その人見知りしない性格ゆえに、師が二週間も通い詰めている族長の家にいた、族長の一人娘であるメルとすっかり顔見知りとなっていた。

 狭い村の中で同年代の友人に巡り会えなかったメルにとっても、コウガという存在は貴重な友人であったようである。

 そんなある日、コウガとメルは村から少し離れた小高い丘の上で木陰で涼みながら地べたに座り、前日に村の中で執り行われた結婚式について話をしていた。

「花嫁姿、素敵だったわね……」

 メルは目を細め、うっとりととろけた声を出した。だが、コウガは実に興味なさげに地面の草を毟りながら気のない返事をした。

「ねえねえコウガ、最後に新郎が新婦に渡した首飾り見た?」

「え、うん」

「あの首飾りについてた宝石ね。本当はガノンストーンっていうらしいんだけど、この村では婚約石って呼ばれてるの」

「婚約石?」

「うん。大きな都市や国では結婚式で指輪を交換するんでしょ? でもこの村では男の人が女の人に婚約石を見せてプロポーズをして、結婚することになったらその石を首飾りに嵌めて結婚する日に渡すのよ」

「ん。なんか、回りくどいやり方だねえ。どうもわからん……」

 じじむさく腕組みするコウガに、メルは溜息をついた。男子というのはロマンチシズムの欠片も持ち合わせない生き物だと聞いていたが、はたしてこれほどのものであったのか。メルはよくわからない正義感に燃えて、講釈を垂れるように説明を始めた。

「いい? この村では強い戦士から求婚されることは女性の誇りなの。で、婚約石っていうのはこの村から少し行った所にある鉱山の洞窟で採れるの」

「ふむふむ……」

 強い戦士という単語に反応した単純なコウガは、続くメルの話にさらに引き込まれた。

「その洞窟には恐ろしい魔物が出るらしいんだけど、戦士は愛する女性のために魔物を退治しながら婚約石を持って帰ってくるのよ。婚約石が大きいほど大きな愛を証明するの」

 メルはロマンにうっとりと浸り、コウガは浪漫にドキドキした。

「ああ……。話したらどうしても欲しくなって来ちゃった。ねえ、今から行かない?」

「え。ええっ! その洞窟に? でも魔物が出るんでしょ? それに、村の人が鉱山に行っちゃいけないって言ってなかったっけ」

「大丈夫よ。だって私、こっそり聞いたことがあるもん。恐ろしい魔物が出るのは洞窟の奥の方で、ガノンストーンはそんな深いところまでいかなくても手に入るって」

「でもなあ……」

 二の足を踏むコウガに、メルは癇癪を起こして見せた。

「いいわよ! じゃあ私一人で行く! コウガは立派な拳道家を目指してるって言ってたのに。コウガの嘘つき!」

「ぐ。それを言われるとなぁ……わかったよ、一緒に行くよ」

 コウガを籠絡したメルは、意気揚々と丘を下り、幾重にもうねっている丘陵地帯へと向かった。この辺りは背の高い草に加えて樹木が密にひしめいており、草原というよりは森林の様相を呈していたが、メルは女性の勘を働かせてどんどん進んでいき、二人は程なくして森の奥に隠されたような大きな洞穴に辿り着いた。

 メルは意気込んで中に入ったが、想像以上にじめじめとして光の届かない洞窟内部に、背筋に寒いものを感じた。

「く、暗いわね……」

「なんだ。やっぱりやめる?」

「やめないわよ!」

 一層肩を張ってずんずんと中に入っていくメルは、どれくらい歩いただろうか、ごつごつした暗い岩場の先に明かりが差し込んでいるのを見ていそいそと駆け出した。

 光の中に飛び込むように道を抜けるとそこは大きく開けた所になっていて、遙か天井の方から日光が差し込んで床一面に広がる鉱物の結晶群がきらきらと宝石のように輝いていた。暗い洞窟内から別世界に飛ばされたかのような美しさだ。

「うわあ……」

 言葉を失って感動するメルの後ろからついてきたコウガは素直に感嘆の声を漏らした。

「ねえ、婚約石? ガノンストーンっていうの、ここにあるかな?」

 その言葉に本来の目的を思い出したメルは、もう一度周囲を注意深く見渡す。

「婚約石は緑色の石なのよ。でもここは……あ、あっちかも!」

 周囲は一面蒼い結晶石が敷き詰められていたが、注意してみると、壁や床の岩肌から所々覗いている鉱床は、洞窟の奥に行くにつれて次第に緑がかっている。

 元気に駆けだしたメルの後をコウガも走って着いていく。

 だが、その先に何か異様なものが見えた気がして、眉を潜めた。

 よくよく目を凝らした後に、コウガは目を見開いた。

「うっ」

 それは熊の死骸だった。

 血溜まりの中でうつぶせに倒れている肉塊は辛うじて原型がわかるものの、体中の所々が無作為に食いちぎられていて、無惨にも脳やはらわたが飛び出していた。

「あ、ああ……」

 コウガよりも先を走っていたメルは恐怖に顔を引きつらせ、一歩、二歩、辿々しく後ずさっていくが、腰を抜かしたようにその場にぺたんと尻もちをついた。

「見ちゃだめだ……」

 コウガはメルの視界を遮るように正面から覆い被さり、弱々しく震える背中をさすった。メルはまだ年端もぬかぬ子供なのだ。凄惨な光景に体がすくみ上がるのも無理はない。しかしながら、コウガは彼女と同じ年齢でありながら、恐ろしくクリアに思考を巡らせていた。

(まずい……血が新しかったぞ……)

 熊の死体の、そのあまりに無惨な姿に気を取られがちだが、よく見ればその周りに広がっている血は全く乾いていないようだった。

 それはつまり……

「メル! ここからすぐに――」

 ――言葉の最後の方はメルには届かなかった。

 突如として地響きのような咆吼が鼓膜を破らんばかりに洞窟内に鳴り響き、コウガの声をけたたましく掻き消したのだ。

 慄然と背後を振り返ったコウガは、ごくりと固唾を飲み込んだ。

 熊の死体が転がっている。さらにその向こう側には、洞窟の深部へとつながる道が続いている。その、ずっと、ずっと奥。地獄の底に繋がっているような大きな暗がりの中から、黒光りする鱗状の外殻を幾つも一直線に並べた巨大なムカデが姿を現した。

 ギチギチと耳障りな音を鳴らしながら地を這ってきた大ムカデは、コウガ達の姿を認めると体の中程から背中を反らせて上体を起こし、L字状に伸び上がった。

「こいつが熊を……」

 コウガは最悪な敵と出会ってしまったことを確信した。ムカデの双眸が怪しく、赤く輝いていたのだ。赤い目は魔物の証。尋常ならざる凶暴性で無差別に人間を襲う化け物だ。

「ひ……」

 か細く消え入りそうな悲鳴を漏らすメル。

 コウガは震える彼女の手を取ると、一目散に駆けだした。

「逃げるぞ!」

 一般的に人間が熊などの大型獣を素手で倒すのは限りなく不可能に近い。コウガはレオルガからそう教わっている。ましてや動物とは一線を画す戦闘能力と獰猛さを持つ魔物に対して、武器を持たず徒手空拳で戦いを挑むなど自殺行為以外の何物でもない。

 剣道や魔道などといった他の武道と比べて、素手で戦う拳道や蹴道が格下とされてきた所以はまさにそこにあった。

 魔物と戦ったことのないコウガは彼我実力差など想像すら出来なかったが、ここで戦いを仕掛けるほどの無鉄砲さは持ち合わせていなかった。ただひたすら逃げることだけを考える。

 だが、コウガは首だけで後ろを振り返り、口を引きつらせた。

「お、追いつかれる!」

 魔物は獲物を逃すまいと、天地を無視して壁面や天井に無数の足を這わせてコウガ達を猛然と追ってきた。あっという間にコウガとメルの後ろまで追いつくと、天井に張りついた状態から地面を走る二人に飛びかかった。

「メル! 逃げろ!」

 メルを前に押し出すように突き飛ばすと、飛びかかってきた大ムカデの背甲をコウガは下から蹴り上げた。

 蹴られた魔物は天井から落ちたが、空中で体を半回転させて器用に着地すると、全く弱った様子を見せずに上体を反らして起こし、屹立する壁のようになってコウガに再び迫り来る。

 腰を抜かしたまま動けないメルを見て、コウガは歯を食いしばった。

 食い止めるしかない。

 短く気を吐いたコウガは果敢に立ち向かうべく駆け出したが、魔物はその一直線に長い体を大きくスウィングさせてコウガの体を横に薙いだ。

 思い切り壁に叩きつけられるコウガ。体がバラバラになったような衝撃に悲鳴も上げられず身悶えする。

 さらに魔物は自らの体を槍と変え、頭からコウガに突っ込んだ。

「が……」

 その場に仰向けに倒れたコウガがぴくりともしないのを見て、メルは絶叫した。

「コウガが……死んじゃった……。コウガを返せえ! ばかぁ!」

 泣きじゃくりながら叫んだメルに反応した魔物は、ぞぞぞと足を這わせて体の向きを変えると、メルの方へ不気味に体をくねらせながら迫る。

「ひ、あ、ああ……」

 あまりのおぞましさに全身の毛が逆立つほどの恐怖を覚える。

 体を起こした魔物はメルを睥睨するように頭部だけをぐいっと前に押し出すと、いざ襲いかからんと体を振った。

 だが、その体躯が強い衝撃を受け、派手に砂埃を上げながら横に倒れた。

「メル……俺を勝手に殺さないでよ」

 にやりと笑うコウガを見て、しかし、メルはいっそう口を引きつらせた。

 コウガの顔は、左半分が朱に染まっていた。頭部のどこかを派手に切ったらしく、顎の下からぽたぽたと血が滴り落ちている。

「ち……タフだなあ」

 コウガは、自分の跳躍回し蹴りで頭を地に叩きつけられた魔物がさほどダメージもなさそうに、少し興奮したように起き上がったのを見て、舌打ちをした。

「メル、これが最後の一撃だ。これでダメだったら、勇気を振り絞って逃げてくれよ」

 コウガは腰を落とし、大きく息を吸った。

 丹田に力を込め、軸足を中心に円弧を描くように、拳だけではなく体全体を相手に突き入れるようにして――打つ。

「おおああ! 破碌掌!」

 ずん、と鈍い音を立てて魔物のどてっ腹に突き入れた掌底は激しい衝撃を生み、コウガの掌から大気が波紋のように爆発的に広がった。

 レオルガ流拳道三段――破碌掌。コウガが今使える最も強力な技だ。

(倒れろ……っ!)

 精も根も使い果たしたコウガはその場にがっくりと膝を折り、神に嘆願した。

 コウガの最大の大技を喰らった大ムカデは――

 怒声とも嬌声ともわからぬ風切り音を喉で奮わせて……ますます猛り狂った。

 コウガの決死の一撃がまるで通用しなかったのだ。

「く……メル……に、逃げろ……」

「やだ、やだよぉ、コウガ……」

 メルの足ががくがくと震えている。逃げることも出来ずに恐怖に口を歪めるメルの前で、大ムカデはのそのそと近づき、低い体勢のまま一気に体を突進させた。

 紙風船のように軽々しく叩き払われたメルは馬に撥ねられたように地面を転がり、したたかに背中を打ち付けて短く呻いた。

 さらに魔物はメルにとどめを刺そうと起き上がって彼女に近づくと、無数の足を掲げた。

 先端が鋭利な刃物のように尖った足を串刺しにされたら即死だろう。

 メルの目が霞む。抵抗する力が出ず、死の運命を受け入れようとする。

 だが、彼女の前にまたも立ちはだかる影があった。

「ぐ。メ、ル……」

 メルの前に飛び出したコウガは鬼の形相で仁王立ちに立った。

 策など無かった。血にまみれた顔は瞳孔が開きかけ、鬼気迫った表情であったが、体全体から醸し出された気迫が、無言のまま身を挺してメルの盾になる意志を饒舌に語っていた。

「コウガ。だめ……」

 上体を振り下ろし、無数の足を尖らせてコウガに覆い被さる魔物。

 だが、その刺突はコウガに届くことはなかった。

 魔物は突然――攻城砲の弾丸さながらに勢いよく吹き飛んで、洞窟の壁に大穴を穿つほどに叩きつけられた後に、ぐしゃりとその場にくずおれたのだ。

 ぽかんと口を間抜けに開いたコウガは、自分の目の前に着地した影を見てようやく状況を理解した。

「せ、先生……」

「お前は面倒ばかりかけるな」

 コウガの後上方から疾風のように飛来したレオルガが、魔物に強烈な飛び蹴りを突き入れていたのだ。師に助けられたコウガは安堵したが、同時に、己の不甲斐なさが込み上げて、謝罪の言葉が自ずから口を衝く。

「すみません。僕がちゃんと破碌掌をマスターしていれば……」

「いや。型は完璧だった。まあ、お前の小さい体では威力はまだあんなもんだろう」

「え。先生……まさかずっと見てたの?」

 レオルガはたっぷりと嫌味を含んた笑みを浮かべた。

「まともに戦えないようなら、見捨てるつもりだった」

「ひどいや……先生……。はは……」

 張り詰めていた緊張の糸が切れたのだろう。乾いた笑いが小さく消え入ったかと思えば、コウガはもう気を失っていた。その隣で、メルも既に意識が落ちている。

「ふうむ。そろそろ心肺のトレーニングもさせるか……。青……いや、赤の呼吸から……」

 ぶつぶつと独りごちながらコウガとメルをを両肩に担ぎ上げたレオルガは、村に戻らんと外に足を向けたがすぐに足を止め、眉根に皺を寄せながら洞窟の内側を振り返った。


 ギアオオオオオ!


 大気を割るような咆吼が洞窟内に反響する。

 見れば、レオルガが黙らせたはずの魔物が起き上がり、ひどく興奮した様子で鳴いていた。

 無数の足を不気味にくねらせて、ギチギチと不快な音を鳴らす口からは粘性の高い唾液をしとどに垂れ流している。どうやら相当頭に来ているようだ。

「そうか。もう少しきっちりウチのガキと遊んでくれた礼をしてやらんとな」

 レオルガは猛り狂う魔物とは対照的に実に涼しげに相手を見上げた。

 それが気にくわなかったのか、大ムカデは一際甲高く大気を震わせると、そそり立つ壁のように上体を起こして猛進した。圧倒的な質量を持った黒い塊は重戦車の突貫よろしくちっぽけな人間の体を轢き殺さんと迫る。

 その巨躯がレオルガをあっという間に飲み込み――

 ずしいん、と轟音がこだました。巨人が大地を踏み割ったような振動に洞窟全体が震える。

「能なしが」

 大ムカデは見えない壁にぶつかったかのようにレオルガの眼前で後方に弾かれていた。

 彼の前蹴りがおぞましき化け物を迎撃し、あまつさえ押し退けたのだ。

 続けざま、もはや人外の域にある小さな巨人は短く息を吐き、肩に二人の子供を抱えたまま高々と跳躍した。

「煌輝凰烈脚!」

 右足を高々と振り上げて、それを一気に袈裟斬りに蹴り降ろす。

 大宙を駆ける流星のごとき峻烈な踵落としは、薄氷を踏み砕くごとくばきばきと音を立てながらいとも容易く魔物の外殻装甲を叩き割った。


 ア、ア、アアアァァ――


 断末魔の雄叫びを上げた異形の体には深い溝が一直線に刻まれて、その溝の端ではちろちろと火の手が上がっていた。蹴りの摩擦で散った火花が体表の油に引火したらしい。

 頭部から腹までを遍く蹂躙された魔物は悶えるように全ての足をしばらく動かし続けていたが、ついには事切れて前のめりに倒れた。

 暴君のように屹立していたその巨躯が、盛大な音を立てて地にひれ伏す。

 一撃で化け物を荼毘に付したレオルガは洞窟の出口へと踵を返すと――

「ガキのお守りもなかなかどうして、スリリングなものだ」

 大した感慨もなくそう独りごちた。


 コウガ達が助かったのは、彼等が村を出る姿を目撃した村人がそれを族長に報告したおかげであった。その場に居合わせたレオルガが現場へと駆けつけ、二人を救った――それが後からコウガが知った、ことの顛末である。

 族長は再三レオルガに礼を言うと、村に戻る道中で目を覚ましていたメルの首根っこをふんづかまえて自分の家へと引き摺り戻した。

 小さな村で起こった小さな事件はその日の晩にはすっかりほとぼりも冷め、村はまた何事もなかったかのようにいつものルーチンワークに戻っていく。

 ずっと眠り続けていたコウガが目を覚ましたのは、ちょうどそんな頃だった。

 火の粉を舞い上げてぱちぱちと焚き火が爆ぜる音を夢うつつに聞いていたコウガは、薄ぼんやりと靄がかったような意識の中でそぞろに目を開けた。

「先生……?」

 コウガが第一声に――自分の場所を確認するでもなく、五体満足を案ずるでもなく――その名を呼んだのは、彼がレオルガに厚く信頼を寄せていることの表れであったろう。

「ああ」

 いつもと変わらぬつっけんどんな返答に師の存在を確認すると、コウガはむくりと起き上がり、きょろきょろと辺りを見回した。

 布で囲まれた円錐状の空間。暖を取るために火がくべられた焚き火。片隅には自分たちの荷物。ここが族長から間借りした村のテントの中であることに思い当たる。

「なんだぁ……。村まで運んでくれたのかあ」

「なんだ。やっぱり捨て置いた方が良かったか」

「あははは……」

 コウガはぽりぽりと頬を掻いて苦笑したが、レオルガに助けられたことを思い返し、ぐっと唇を噛んだ。

 レオルガがいなければ、自分もメルも助からなかっただろう。

 来る日も来る日もレオルガの元で血の滲む研鑽を重ねてきたコウガには少なからず強さへの自負があった。だが、蓋を開ければ結局それは幻想に過ぎなかったのだ。そして、自分だけが命を落とすならまだしも、メルを死なせてしまうところだった。

 これはコウガにとってかなりこたえた。

 己の非力さが腹立たしく、自分のふがいなさに心を締め付けられる思いがする。

 焚き火の前であぐらをかいていたレオルガは弟子の懊悩を汲み取ったように、彼に背を向けたままぼそりと呟いた。

「お前は年齢的にまだ体が出来ていないだけだ。今日あったことは覚えておくべきだが――まあ、気に病むことはない」

 その言葉が気休めの嘘ではないことを、コウガは直ちに理解できた。

 レオルガのコウガに対する教育は決して過保護ではなくむしろ冷徹に突き放すような方針に基づいていたが、その中で嘘をつくことは一切なかったからだ。

 だからこそ、それが一層悔しくて、コウガは込み上げてくるものを必死に押し殺した。

「……外の空気、吸ってきます」

 居ても立ってもいられずにテントを出たコウガを迎えたのは満天の星空だった。

 清んだ夜気が綺羅星の瞬きを受けて村を仄明るく抱いている。

 だが、コウガに天然の芸術に心を酔わせる余裕などあるはずもなく、鬱屈とした気分でのろのろと村の外へ出た。

 丘を上ってきたコウガは、その上まで来るとはっと息を呑んだ。

「メル……!」

 まだこんなに気分が打ちのめされる前、今日の昼下がりにここで二人で楽しく話をしていたことが思い出される。その時と全く同じ位置にメルが座っていたのだ。

 コウガは言葉に詰まったまま立ち尽くした。

 父親にこっぴどく叱られて散々泣きはらしたのか、メルの目は赤く腫れていた。

 じわり。メルの瞳に徐々に涙が溜まっていく。

「怖かった……こわかったよぉ……えぐ……。でぼ……コウガが生ぎぃ……生ぎててぇ、ひぐ、良がったあぁ……う……うわああああん」

 大泣きして駆け寄ってきたメルはコウガに抱きついた。彼女があまりに気に憚らず泣くのでコウガもつられて涙が溢れそうになった。

 コウガは深く後悔した。自分は余所者ではあるが、あの洞窟に行ってはいけないことは聞いていたのだ。それなのに、どうして彼女を止めなかったのだろう。

 何も考えていなかったから? メルの前でいい格好をしたかったから? 何が起きても自分の力で切り抜けられると思っていたから?

 コウガは青っちろい自分を蹴り飛ばしたい衝動にかられた。

「ごめん、メル、ごめんよぉ……う、う……」


 一生分を泣きはらしたように涙を枯渇させたコウガは丘の上で仰向けになって寝ころんでいた。絨毯のように敷き詰められた芝生が火照った体にひんやりと気持ちいい。

 隣で同じように横になっているメルがぼそりと呟く。

「私、おじいちゃんやおばあちゃんやママみたいに、この村で一生を過ごすんだろうな。パパだってきっとそう」

「……嫌なのか?」

「ううん。嫌じゃないけど、でも、外の世界も見てみたい。コウガと会ってから、色んな所を旅をするのも素敵だなって、そう思ったの」

「ふうん……」

 生返事をしたコウガはしばし考えていたが、少し大きめの声で言った。

「それだったら、一緒に旅に出ない?」

「え?」

 突飛な申し出にメルは体を起こした。くすりと笑い、首を横に振る。

「無理だよ。だって、外の世界には怖いことだっていっぱいあるんでしょ? 私みたいに弱い人間は、きっと生きていけないし――」

「じゃあ俺、強くなるから!」

 がばっと起き上がり、コウガはメルの顔を直視した。

 真剣に見つめられ、メルは少し頬を赤らめた。

「俺がメルを守れるくらい――ううん、誰よりも強くなる! メルをここから連れ出しに戻ってくる。そしたら、一緒に旅に出よう」

「コウガ……」

 はにかみながらコウガはポケットに手を突っ込んだ。中をごそごそとまさぐり、ぐっと握り拳を引き抜くと、メルの前にそれを突き出す。

「ほら。これ、欲しかったんだろ」

「それ、ガノンストーン!」

 指を開いたコウガの手の上には、小さいながらも半透明の緑色に結晶化した石があった。

 魔物と戦う前にこっそりくすねておいたものだ。

「メル。約束するよ」

「うん……約束だよ。私、ずっと待ってるから!」

 永遠の愛と絆を誓う石は、俯いたメルの目から滴り落ちた雫と満天の星空に浮かぶ真円の月光を浴びて微かに煌めいた。

 コウガとレオルガがこの村を去ったのは、その次の日のことだった。


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