わだいがない 21
水島さんの友人、薄島さんの場合
今日も私の友人は、昔好きだった人のたまに気まぐれに更新されるインターネットを見つめて、微笑んでいる。彼女は自分がストーカーかなとつぶやく。それには、三歩手前だとはっきり言ってやった。
ひどいと、口をすぼめたが、私はそれに舌を出して対抗した。
私はそんな彼女の後姿を見ながら、出会った時を思い出した。彼女が先輩にあこがれていたとき、私は同じ部活の先生に恋をした。自分の倍以上の大人だ。ただ彼女と違ったのは、先生が自分の想いに応えてくれたことだ。
「妻がいる。それでもいいなら。」
あのとき、私はそれでもよかった。結局、友人たちに自分と先生のことは言えなかった。なんといえばいいのか、わからなかったのだ。私、先生と不倫の関係になったの。
それから三年。誰にもわからないように、誰にも知られないように、何度も笑って、何度も泣いて、高校を卒業しても先生とは会っていた。いつか自分だけのものになるのではないかと、夢を見て。
友人は、告白する前にあこがれの先輩から嫌われた、と泣いて泣いて。それでも、あきらめる努力をした。部活を辞めて、髪を変え、普段の行動を変えて、彼を忘れようと努力をした。
けれども、私にはできなかった。先生に妻がいても、自分などただの使い捨てだったとしても、どうしてもあきらめきれなかったのだ。自分の世界が狭いだけだろうかと、大学に行っても、先生はあきらめられず、何度もズルズルと呼び出されては会っていた。
大学に入って、一年たって、「薄島さんが好きだ。つきあってくれないか?」
大学で同じサークルの、一つ上の先輩に突然告白されたときは、目を丸くした。それでも、私は言った。
「すみません、私。好きな人がいるのでお付き合いはできません。」
本当は言いたかった。付き合っている人がいるんです、と。しかし、それは無理なことだ。
「そうか。ごめん、僕の気持ちだけで告白してしまって。でも、明日から急に来ないとか、やめてくれよ?君の落語はうまいんだ。」
振られたにもかかわらず、先輩は優しい口調で言った。彼は出会った時から、優しい人だった。老けた顔のせいか、最初は四年かと思いきや、自分と一つしか違わないことにびっくりしたものだ。
「ありがとうございます。」
私はとりあえず、微笑んだ。だが、きっと翌日からはよそよそしくなってしまうのではないかと、その時は考えていた。私は、素敵な、自分を笑わせてくれるような楽しい先輩を失ったのだと、本当に思っていた。
彼は、まったくなにも変わらなかった。いや、変わらない努力をしてくれていた。まるで告白などなかったように。今日も楽しく、私は笑っていた。おそらくサークルの中の誰もが気が付かないでいたのではないだろうか。私は、ほっとしていた。彼はきっと私をあきらめたのだろう、と。
「まだ好きなだけ?」
一人で部室にいるときに、急にぽつりと先輩は聞いた。
「なんの話ですか?」
「半年くらい前、僕が告白したら、君が言っただろう。ほかに好きな人がいますって。全然彼氏の話を聞かないけど、告白とかしないの?」
「しないですね。」
「どうして?」
「どうしてって相手に他に好きな人がいるからです。」
「好きな人から奪いたいとか、思わないの?彼女になりたいとか、結婚したいとか思わない?」
結婚?その単語を聞いて、なぜか急に胃のあたりが冷たくなった。私は先生に離婚してくれ、とも自分と結婚してくれ、とも言わなかった。
彼の奥さんがどんな人なのか、気にならないはずがなかった。こっそり財布の中の写真を見つけて、写真を引き千切りたい気持ちを抑えながら、そっと写真を戻したこともある。
「思いません。」
私はやっとの思いでそれだけ言った。
「そうか。」
彼はそれだけいうと、部室から出て行った。
だが、その時。急に彼の言葉が心に沁み込んできた。
結婚?そんなものはできるはずがない。彼と結婚したいのか?もちろん、彼と子供たちと一緒に住んで、幸せな家庭をいつかは……。
そこまで考えて、頭が痛くなった。
結婚?いまどき結婚などしなくても誰も責めないだろう、せいぜい親が泣くくらいだ。だが、私が小学生のころに離婚をして、父親はほかの女のもとへ行き、母親は仕事を優先して、子供の私にはなにも関心がなかった。高校の授業参観にも、三者面談にも、進路相談にも来ず、ただ、大学は行けとお金を出してくれた。私は、幸せ者だ。結婚くらいできなくても、なんだというのか。
結婚?まだ大学生だしそんなことまで考えなくてもいいんじゃないか。大学を出てすぐに結婚なんてそんな時代でもないはずだ。子供でもできない限り。
結婚?まずは就職をして、一人でも生活できるようになってから……それから。それから?その先に、なにがあるのだろう……。
携帯が鳴った。メールだ。先生からのそっけない一言。会える?
会えば、軽い食事とホテルだ。そしてそのまま先生は家に帰っていく。先生の学校生活の話もなく、家族の話もなく、私を抱くだけ。それから次のメールまでなんの連絡も来ないのだ。話題がない。
また頭が痛くなった。私は、その時初めて、先生からの誘いを断った。
それから三日くらい過ぎたころだろうか。先輩が、映画にいこうと声をかけてくれた。一緒に行くはずの友人が風邪で寝込んだ、と。楽しかった。
また三日くらいたって先輩が、自分の妹の誕生日に買うアクセサリーをみるのにつきあってくれと、声をかけてくれた。一人で女性ものを見に行くのは恥ずかしい、と。
これはまるでデートのようだと思いつつも、楽しかった。そして、思った。いままで、昼間に好きな人の隣を歩いたことなど何年もなかった、と。
毎日、サークルで顔を合わせ、帰り道は途中まで毎日一緒だ。先輩はでかけた翌日も何事もなかったようにそこにいた。笑顔もいつもと変わらず、そこにあった。
携帯が震えた。友人の水島からだ。私は彼女からのメールにちょっと眉をしかめた。
『この間、見たぞー!!いつの間に彼氏ができたのよ!アクセサリー、見てたでしょ。だぁーれ?デートの相手は!』
私は返事を返す。
『サークルの先輩だけど、デートじゃないよ。』
『違うの?でも、薄ちゃん、ニコニコして幸せそうだったよ。』
彼女からのそのメールを読んだ瞬間、私の頭はまた痛くなった。
幸せ?私は、先生といて、幸せなんだろうか?友人のメールには答えないことにした。
三日後。先生からメールが来た。会える?
なにもいつもと変わらないメールの内容。だが、その日。私は、先輩にまた映画に誘われていた。私は、携帯を見つめていた。
「どうしたの?」
顔を上げると先輩がいる。
「すみません。先輩、今日の映画なんですが、急用ができてしまって。」
「ああ、そう、わかったよ。」
「すいません。」
私はそういうと、さっさと部屋を出て行った。どうして、好きな先生からのお誘いに後ろめたくなるのだろう……。寂しそうな先輩の顔がちょっと浮かんでいた。
暗めのレストラン。待ち合わせ場所に行くとひさしぶりに、先生がいた。なにも変わらない。素敵だ。出会ったころと同じように。スーツ姿でサラリーマンと同じようだ。
「こんばんわ。」
私は微笑みかけた。
「やぁ。じゃ、行こうか。」
先生は、そのまま歩き出した。付いてくるものと信じている背中だった。
その時。なにかが消えた。それが恋だったのか、愛だったのか、執着だったのかさえもわからない。私は言った。
「いいえ。私は行きません。」
彼は、目を丸くして振り返った。
「どうして?」
「どうしてもです。さようなら、先生。もう会いません。」
私は、くるっと後ろを向くと振り返らずにそのままタクシーに乗り込み「最寄駅まで」、と告げた。携帯が鳴る。先生からだ。私は、電源を切った。
翌日には、携帯を変えた。先輩には、昨日の急な断りを謝って、ついでに携帯を変えたからと、電話番号とメールアドレスと教えた。
先生と別れたから、すぐに先輩とつきあう。そんな気持ちにはなれないと思っていた。だが、先輩が就職活動を始めてなかなか会えなくなると寂しくなった。先生といたときは、仕事が優先だから、と思っていた。
先輩がほかの女の子と話していると、なぜか眉が上がる。私以外の誰かと映画に行ったり、買い物をしたりするのだろうか。やきもちだ。先生といたときは、奥さんだけがやきもちの相手だった。
先輩が就職活動の合間を縫って、マフラーを選んでくれないかと誘ってくれたとき、私は決めた。
「私、先輩が好きです。」
おそらく、彼は私が告白されたときと同じ顔をしているに違いない、と私は思った。ぽかんと口を開け、目を丸くしている。だが、次の台詞は違った。
「僕も……です。」
私はにっこりと笑った。もう何年もこんな風に笑っていなかった気がする。そんなことを考えていた。
先輩とも別れる時が来るかもしれない。それでも、その時までは小さなことも、大きなことも彼と話すために話題を作ろう、そんなことを心に思った。