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02


 どうやら異世界へ渡ってしまったらしい。


 現実逃避も兼ねて服を着たまま温泉に浸かれば、じんわりとした温かさが心にしみた。正確に言えば服は肌に張り付いて気持ち悪いのだけれど、脱ぐ気にはなれない。そもそも気がついたら着衣で温泉に浸かっていたのだ。今更どうしろと。それにしても水中ダイブした覚えはないのに一体どういうことだろう。


 ぼーっと視線を遠くへやると、一羽の鴉と目があった。金属なんて身に付けてたっけとぼんやり考えていると、そのままUターンして飛び去った。随分大きな鴉だなぁ。目が三つあったんだけど異世界の鴉はそれが普通なのかしら。でも第三の目も視神経交差に関わってくるとしたら、メカニズムはどうなってるんだろう。異世界すごいな。


 突然見知らぬ場所にいたら、普通誘拐を連想するだろう。けれど私が即座に此処を異世界と認めたのには理由がある。


 何故なら私は昇天した。


 言い方が悪かった。死んではいない。でも文字通り昇天した。


 天に昇ったのである。


 あれは何分前なのか、腕時計が正しければ二十分程前だが、残業終わりで終電を使い、駅から徒歩で家まで向かっていた私は突然浮遊感を覚えた。前触れなどない、突然である。

 何が何やらさっぱりな内に、私の体は緩やかとかふんわりといった優しさとは無縁の超速でひたすらぐんぐん高度を上げた。人間ミサイルにでもなった気持ちだった。二度と経験したくない。

 雲を突き抜け息苦しさを覚え、とうとう酸欠で気絶した私は次に起きた時に温泉に浸かっていたのである。超常現象にも程がある。

 明らかに人知を超えた領域だ。たとえ誘拐だったとしても犯人は宇宙人に違いない。なんにしろ此処は異世界である。


『此処は異世界です。温泉で暖まりマッサージチェアでリラックスしてからこの道を真っ直ぐ進んで下さい』


 ご丁寧にこんな立て看板があるのだから。



***


 助言通りまったり温泉に浸かりマッサージチェアに座ったことまでは覚えている。残念なことに記憶はそこで途絶えた。平たく言うと寝落ちした。恥ずかしい。

 残業終わりでフラフラだったからだろう。心地よい振動に抗えず、夢も見ずに深く眠っていたようだ。朝は肌寒さに目が覚めた。濡れたままだったんだから当たり前である。自分の馬鹿さに泣きたくなった。

 寒さに震えて身を縮こませていると、マッサージチェアの下に籠があるのを発見した。中にはバスタオルと浴衣が入っている。疑問に思うまもなく着替えた。だって寒かったんだもの。

 それこそ温泉街でよくある白と藍のストライプの浴衣に黒いハイヒールは恐ろしく似合わなかったが、文句を言っても仕方ない。下駄や草履があっても履き慣れてないからこの砂利道では危険である。ヒールも危ないけれど。流石にスニーカーまで求めるのは甘え過ぎだ。誰に甘えているのかはさっぱりだが。


『此処は異世界です。温泉で暖まりマッサージチェアでリラックスしてからこの道を真っ直ぐ進んで下さい』


 昨日と変わらず看板は温泉の傍に立っている。茶色の木に墨で書いたような日本語の文句の上に英語、中国語、韓国語でも書かれている。誰を対象に書いたのか、それ以前にこの世界に日本語があるのか、睡眠不足でフラフラだった昨日(今朝)は思い付かなかった疑問が次から次に浮かんでくるが、私はこの怪しさ満点の看板に従う他道はない。昨晩の昇天事件で私の中の何かも突き抜けてしまったようだ。正直今なら何でも受け入れられる気がする。


 看板の矢印は、一本道を示している。辺りの木々が高すぎて先が見えないのが、かなり不安を煽るが、進むしか道はないだろう。


 もう一度辺りを見渡し、バスタオルが入れてあった籠にスーツとバッグを入れて、ゆっくりと、小道に向けて足を踏み出した。









 ヘンゼルとグレーテルみたいだ。


 目の前の家を見ながら、昔読んだ童話を思い出す。

 チョコレートの屋根にウエハースの壁。屋根の上にマカロンが詰んであるのは煙突だろうか。あれじゃ煙突の役割は果たせないだろうに。

 しかも何というか、お菓子の家と言えば響きはいいが、正直造りが荒いと言うか雑と言うか。屋根だって板チョコだし、ウエハースもシュガーコーティングで可愛く縁取りされたりとかは全くなく、味気ないものである。というか色味がマカロンしかない。童話の挿し絵にこの家が描かれても、心はときめかないだろう。


 そんな心ときめかないお菓子の家の横には、例の看板が立っていた。これまでの一本道にも所々立っていた看板である。今までは『あと三分の二』『あと半分』『もうちょい! ファイト!』という言葉だったが、これには『目的地』と書いてある。誰の目的地だ。


 流されるままにたどり着いた身からすれば、目的地も何もあったものではないが、道はここで途切れているので前に進むしかないだろう。ヘンゼルとグレーテルの如く人を食べるお婆さんが出てこないのを祈るしかない。

 覚悟を決めて、板チョコのドアを叩いてみる。屋根と同じ板チョコだ。使い回し感が半端ない。

 コンコンコンと三回叩いて待っていると、程なくして家の中から声が返ってきた。


「合い言葉は?」


 ……合い言葉?

 思わず自分の中での合い言葉の定義を確認する。この場に相応しかった。頭を抱えた。

 合い言葉なんて知らない。看板に書いてないかと裏も覗き込んでみたが無駄だった。よく考えれば当たり前だ。合い言葉をわざわざオープンに書くわけがない。

 戸惑うこちらに構うことなく、家から再び声がする。


「この家を見たとき、あなたは初めに何を感じましたか」


 何を感じたか。それが合い言葉なのだろうか。でも、そんなの人それぞれ、答えは様々だと思うのだが。

 でも、それが合い言葉なら、私が思ったことは――、


「心ときめかないお菓子の家」


 とても長い沈黙が降りた。何故か、今度はむこうが戸惑っているような空気を感じる。

 そのまま、沈黙は続き――。


「あ、初めに思ったのは、ヘンゼルとグレーテルみたいだな、でした」


 訂正を入れた私の言葉に、無言でドアが開かれた。







 ドアを開いたのは、私よりいくつか年下の綺麗な女性。

 とりあえず、人食い婆ではなさそうだ。


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