二
役員寮は、学院の門から最も遠い位置にある。
理由は、役員寮が学院設立以前の建物だからだ。近代的な学院の建物の中で、異質な石造りの建物で、洋館と呼ぶより要塞と呼ぶ方が見た目から合っている。それが、大小二つある。もう一つの建物は、図書館として使われている。
どちらの建物も一階に窓はなく、出入口の扉は分厚い鋼鉄製。二階と三階には、窓はあるがシャッターの代わりにあるのは、これまた鋼鉄製の防壁だった。
学院設立の時、どちらもリフォームされたらしい。確かに、内装は一般寮に近いし、設備は一般寮よりも充実している。それでも、独特の雰囲気に慣れるまで時間を要したのは言うまでもなかった。
飯田が屋上から見張ると話していたが、それも微妙なのだ。それらしき空間があるのは、俺も知っている。ただ、そこに繋がる階段も梯子もない。それこそ、脚立でも持って来なければ、登れない位置に入口がある。きっと、飯田のことだから、実際に登ったことがあるのかもしれない。それでなくとも、どうにかするつもりで言ったのだろう。
閉じられた重い扉を開き、外へ出るとムッとした蒸し暑い空気が寮内に流れ込んでくる。思わず顔を
顰めたが、気を取り直して役員寮を飛び出した。
いくらも走らない内に、玉のような汗が噴き出してくる。
「っ……。遠いっての」
走りながら悪態を吐き、彰の携帯に電話を掛けることを思いついて、シャツのポケットから携帯を取り出す。しかし、画面を見て足が止まった。アンテナが一本も立っていない。それどころか……。
「は? 圏外?」
文字通り圏外になっている。確か、電波塔は、学院の敷地内にある。だが、セキュリティの問題から電波塔の管理は電話会社に一任することになったと聞いた。だから、万が一、管理棟のセキュリティが侵されたとしても、連絡手段はあるのだと信じ切っていた。
「いや、偶々、圏外になってるだけ・・・だよな? 荒田の話じゃ、さっきまで使えてたんだし」
もしかしたら工事があって、電波が途切れているだけかもしれない。そう思う一方で、これは必然だと理性が訴えている。もしも本当に必然だったなら、恐ろしいことになる。
学院の内部からは、救助を求めることが出来ないということだ。
「いやいや、そんなことがあるはずない。それに、いざとなれば衛星電話という手段もある」
災害時用に、役員寮で管理している衛星電話。それならば、連絡が取れる。そう自分自身に言い聞かせて、再び足を動かした。
こんな時は、広い敷地が恨めしい。学院内は、各々が独立するようにフェンスで区切られ、互いの敷地に無暗に侵入できないようになっている。隣接する中等部の寮に用事がある場合も、態々遠回りをしなければならない。思った以上に不便だ。
フェンスがないのは、学院に在籍する全ての人間が利用する施設。カフェと購買部、そして今向かっている管理棟だけだ。
唯一、救いだったのは、高等部の校舎と寮を遮るフェンスの出入口が、役員寮寄りだったことぐらいだろう。
運動場まで来ると、フェンスを挟んで駐車場が見える。目的地の管理棟は、その先だ。管理棟へは、駐車場の中を走っていくのが一番早いルートだ。
それにしても……。
「静かすぎる」
何時もなら、カフェから音楽が聞こえたり、大学部の学生が購買部で商品を探していたり、談話をしていたりするのに、今日に限って誰も居ない。いくらお盆の時期でも、誰も居ないということは今までなかった。そして、最大の違和感は――――。
「蝉が、居ない?」
耳障りな音を奏でる蝉が居ない。否、居るのかもしれないが、音がしない。それに、鳥の囀る声も。不気味な静寂に眩暈を感じた。俺は、夢の所為もあって、こういうオカルト的要素がある状況が大の苦手になっていた。
「う……。お、落ち着け。ただの偶然だ。そうに決まっている」
自分自身に言い聞かせるよう、呟く。
「カフェや購買部に誰も居ないのは、門が閉まっていることに気づいて避難したからに違いない。蝉や鳥が居ないのは、異常気象の所為だ。今朝だって、あんなに蒸し暑かったじゃないか。そうだ。その所為だ」
自分でも無理やりすぎることは、理解している。それでも、そうでもしなければ、怖さのあまりに発狂してしまいそうだった。
額から頬に流れ落ちてくる汗を腕で拭い、深呼吸をする。少しは、落ち着いてきた。
「……とにかく、今は、彰を探さないと」
運動場を抜けてしまえば、後は駐車場だけしかない。近道と呼べる程でもないが、道通りに走っていくより早く着くだろう。
気持ちを切り替えて、再び走り出そうとした時――――。
カタン……ギイィ……キィ……カシャン……
「っ!」
いきなり近くで聞こえた音に、身体が跳ね上がった。反射的に音の立つ方向を見て、咄嗟に口元を両手で覆う。そうでもしなければ、悲鳴を上げていただろう。
国旗掲揚台に、人が――――。荒田が居なくなったと報告していた岡野先生や松崎先生、警備員が吊り下げられ、風も無いのに揺れていた。
三人とも、身体の至る所に引き裂かれたような傷があり、服が血で染まっている。岡野先生は、腸が地面まで垂れ下がり、右腕も根元から無い。松崎先生は、腸自体が抜き取られたように無い。空洞が出来ていた。警備員は、頭があらぬ方向を向いていて……。
カタカタと歯の鳴る音で、我に返った。身体はガクガクと震え、力が入らない。なんとか足を踏み出し、その場から離れる為だけに必死に走った。
頭の中は混乱しきっていて、何処をどう走ったのかすら覚えていない。気が付けば、特別教室棟のトイレに駆け込んでいた。
「オエッ……」
胃の中の物を全て吐き出しても、吐き気は治まらない。涙と鼻水、嘔吐物で顔もシャツも汚れた。でも、そんなこと、どうでもよかった。
「っ‼ 何なんだっ。なんで、なんで、こんなことって……。こんなの、嘘だ。全部、嘘に決まってる!」
洗面台に突っ伏して、叫ぶ。非現実的なことばかり続いて、まるで今朝の夢が続いているような気さえ、してくる。
眩暈も、吐き気も、身体の震えも治まるどころか、益々、酷くなっていく。
「ふ……ははっ、あははははははっ。…………マジで勘弁してくれよぉ」
これが現実だと解っている。
それでも、現実から逃れたかった。逃げられるなら、本気で逃げ出したかった。