十
飯田の作った食事は、食欲のない俺でも箸が進むほど美味しい。話を聞けば、父子家庭で家事全般は、飯田の仕事だったらしい。
「ありがとう。美味しいよ」
「いえいえ。谷崎生徒会会長殿のお口に合うようで良かったです」
笑顔は普通なのに、呼び方は変わらないのか。
「……澪でいい」
「はい?」
「名前の呼び方。その谷崎生徒会会長殿って、止めて欲しいんだ。だから、澪でいい」
「じゃあ、俺は彰だな」
俺の隣で話を聞いていた彰が、ニッと笑って、飯田を見る。
「会長や部長を呼び捨てにしろと? 今までと同じでいいじゃありませんか」
困惑した眼差しを俺たちへ向けている。
「ついでに、敬語も要らない」
「敬語は、無理です。昔から、この話し方だったので、僕は敬語しか話せません」
昔からって……。
「飯田は、友達にも敬語を使うのか?」
「ええ。これが、普通です」
「確かに、飯田が砕けた言葉遣いしてんのは、見たことがねえな。誰にでも敬語だ」
「そうなのか。……なら、無理強いはしない。ただ、飯田と仲良くなりたいと思っただけなんだ。ごめん。今の話、忘れていい」
友達とも敬語で話すなら、余程仲良くならない限り、名前も苗字でしか呼ばないのかもしれない。せめて、役職だけでも外してもらえないかと考えたが、気不味くて口を噤んだ。
「…………ああ、もう。なんだか、僕がいじめているみたいじゃありませんか。分かりましたよ、分かりました。降参です! 後から、前に戻せとか言わないで下さいよ。それから、僕のことも名前で呼んでください。僕にだけ、澪と呼ばせるのは不公平ですからね。それから、態度も……彰に対する時と同じにしてください。差別されているようで、寂しかったんですからね!」
頭をコクコクと振って頷けば、飯田……、否。史哉が、呆れたように、溜息を吐いた。
「先生方や先輩方に恐れられている澪が、こんな性格だとは思いもしませんでした」
うん? 誰が、誰に恐れられてるって?
気になって彰に視線をやれば、失笑している。
「どういう意味?」
「言葉のままですよ。世の中の全てが敵だと言わんばかりの鋭い視線。眉目秀麗・頭脳明晰・品行方正ともなれば、誰でも近寄り難くなります」
そんな風に思われているとは、全く知らなかった。
入学した当時に色々あった所為で、臆病になり、人と話すのも苦手になった。その所為で、気心知れない相手の前では、口調が堅くなる癖がついた。勉強だって、国民の血税で出来ているのだから励まなければならないと思っただけだと説明すれば、尚更、嘆息されてしまった。
「臆病なだけの人間が成徳学院のトップとして君臨できるはずがないでしょうに。誰ですか、こんな純粋培養したのは」
「純粋に見えてるだけだ。実際は腹黒いし、俺より凶暴な面もある」
「彰より凶暴って、どれだけ凶暴なんですか」
「怒らせてみろ。簡単に判るぞ? ただし、澪の沸点は微妙だから、余程のことをしなきゃ見れないがな」
好き勝手言っている二人は、放っておけばいい。
そう判断した俺は、食事を優先させた。この頃、あの夢を頻繁に見ていて、食欲が極端に落ちていたし、食べられる時に食べておかないと。
あ、このポテトサラダ美味しい。今度、作り方を教えてもらおう。
食べ始めると、どれもこれも美味しくて、あっという間に出された料理を完食することが出来た。
「御馳走様でした」
二人は、相変わらず俺のことで盛り上がっている。
史哉には、今まで散々嫌味を言われてきたが、耳に入ってくる言葉を聞いていると呆れる程、俺をよく観察している。どうりで、嫌味がやけに的確だった。仕方なく「食器を返しに行ってくる」と呟けば、ちゃんと聞こえていたらしく、二人とも俺を見た。
「置いとけ。後で、一緒に返しといてやる」
「少しは動かないと、いざという時に動けなくなる」
ムッとなって、反論すれば「それもそうだな」と快く送り出してくれた。
自室を出ると廊下は薄暗く、蒸し暑い。
それに、なんとなく鉄錆の様な臭いと、何ともいえない変な臭いがした。
「……血の、臭い?」
夕方、部屋に帰ってくる時は、こんな臭いはしなかった。
音を立てないように静かに進むと、微かに水音のような音が聞こえてくる。
――――ぴちゃ。
――――びちゃり。
勿論、寮の廊下に水場は無い。だから、そんな音が立つ筈がないのだ。
恐る恐る、音に向かって歩き続けると、水音とは別に、グチャグチャと何かをかき混ぜる様な音が聞こえ始め……ここに至って、漸く何が起こっているのか気づき、走り出した。
「っ!」
音の根源。階段の踊り場に辿り着くと、床、壁、天井が赤く、血の色に染まっていた。その中央に蠢く影がある。ここからは、顔は見えないが、すぐに一般男子生徒だと分かった。
そして……そいつが、馬乗りになっている者を見て、言葉を失う。
「……あ……らた?」
首を噛み千切られて、絶命している荒田がいた。その間にも、男子生徒は荒田の赤く染まった腹部に手を突っ込み、腸を掴むと口に入れていく。
彰の言った通り、生きる屍が、荒田を喰っていた。
「きさまぁぁっ!」
手に持っていた食器を投げつけると、やっと俺の存在に気付いた男子生徒が顔を上げる。男子生徒の顔もシャツも荒田の血で真っ赤に染め上げられ、白濁した眼だけが、異様に白く見えた。
壁に取り付けられた消火器に手を伸ばし、早歩きで向かってくる男子生徒の頭へ振り下ろす。骨が砕ける嫌な音と感触が手に伝わり、男子生徒の体が廊下に倒れた。
動かなくなった男子生徒を見下ろしていると、先の方からグチュリと音が聞こえた。視線を上げると、さっきまで腸を喰われていた荒田が、立ち上がろうとしている。
「……あ、荒田」
嘘だろ……。誰か、嘘だと言ってくれ!
あらぬ方向を向いた眼は、淀んでいて、何も映していない。それでも、荒田は確実に俺の居る方向へ、歩いてくる。
「止めろ。……来るな。殺したくないんだっ」
呼びかけても、止まらない。荒田まで、生きる屍になったのかよ? そんな、嘘だろ? 誰か、頼むから嘘だと言ってくれよ。
『たとえ、仲間だった生徒でも、戸惑うな』
荒田の腕が肩に触れる直前、脳裏に彰の言葉が浮かび、俺は手に持っていた消火器で、荒田を突き飛ばした。その勢いで、荒田はひっくり返り起き上がれなくなっている。
「……っ。なんで……なんで、こんなことになってるんだよっ」
血溜りの中で蠢く荒田は、這いずりながら腕を伸ばしてくる。俺を喰らうために。
「っ……そんなに、喰いたいの?」
「あが……あぐぁ……」
まるで返事をするかのように、荒田が唸り声を上げる。そして、とうとう俺の足を掴める場所まで、戻ってきた。
「っ。ごめん」
言うや否や、荒田の頭に、止めを刺すように、消火器を振り下ろす。それっきり、荒田は動かなくなった。
「ごめん……ごめん、荒田。お前を殺したのは、生きたいと思った俺のエゴだ。だから、恨んで……。俺、荒田を死なせた分まで生きるから。だから、ごめん」
自分でも言ってることが、無茶苦茶だと思った。だけど、他に何を言えばいいのか、分からなかったんだ。――――ただ、考えたのは、荒田をこんな姿に変えた奴を見つけ出して、殺してやるということ。それだけだった。
半袖のシャツを着た男子生徒の腕には、噛み傷がくっきりと残されている。
会議室で会った時は、無かった傷。この男子生徒を生きる屍にした奴が、必ず寮の中に居る。
「……赦さない。殺す……殺してやる」
俺は、階下へと続く血痕を追って歩き出した。
血痕は、一階に設けた一般生徒用の部屋で終わっていた。ドアノブを捻り、少しだけ開けると、血の臭いと腐臭が漂ってくる。そして、奴らが食事をする嫌な音。
「…………」
もう、戸惑いは無かった。グイッとドアを開けて中に踏み込むと、二人の女子生徒が床に倒れていて、その片方の腸を喰らう奴の姿が目に入った。
「貴様が原因か……斉藤」
俺の声が聞こえなかったのか、引き千切って取り出した心臓を貪るように喰っている。唯でさえ、厚化粧で醜い姿だったが、これは最早、醜悪と呼べるだろう。部屋を見回せば、男子生徒の私物がある。その中に、第二鑑賞ホールの鍵があった。
「あの男……取り巻きの一人だったのか」
大方、斉藤に第二鑑賞ホールから出して欲しいと乞われ、言われるままに鍵を盗んで斉藤を連れ出し、斉藤の餌にされかけて、逃げたのだろう。
「貴様の所為で……」
ギリッと、奥歯が音を立てる。
苛立ちを押さえきれず、消火器で壁を殴れば、漸く、斉藤が手を止めて、俺を見た。
「ぅ……あがぁ……」
低い唸り声を上げ、立ち上がろうとする斉藤の足を蹴って転がす。そして、その右足を踏みつけた。その足に力を籠め、消火器を斉藤の膝へ振り下ろすと、骨の砕ける音が鳴った。
「……一本目」
生きる屍になった斉藤に、痛覚がないことぐらい解っている。それでも苛立ちが、治まりそうにない。
「……二本目」
右足の次は、左足の膝。
「……三本目」
左足の次は、右腕の肘。
「……四本目」
右腕の次は、左腕の肘。全ての手足を足で踏みつけて消火器で潰していく。折れて在りえない方向を向く手足をバタバタと動かし続ける姿が滑稽に見えた。
「俺は、貴様が大嫌いだったよ、斉藤」
勉強もせず、取り巻き連中に囲まれ、何かあれば嘘泣きで誤魔化し、他人の所為にする。
他の役員が立案、計画した企画を平気で横取りして、さも自分がやりましたと言わんばかりの顔をする。そんな貴様が、心底、嫌いだった。
「あの世で、荒田たちに詫びろ」
自分でも冷めた声だと思った。だけど、後悔はしていない。どうしても、許せなかった。止めを刺す為に、部屋にあった金属バットを手に取る。男子生徒の持ち物なのか、山田と名前が書かれていた。
「取り巻きの私物で殺してやるんだ。有り難く思え」
それだけ言って、斉藤の頭蓋に振り下ろす。脳天から振り下ろした所為で、顔がグシャリと潰れ、割れた頭蓋から、血液が流れ出る。噴出してこないのは、死んでるからなんだろうか?
場違いなことを考えながら、その様子を見つめていると、先程まで斉藤が御馳走にしていた二人の女子生徒が、動き始めた。
きっと、今の俺は正気じゃないんだろう。いつもなら、卒倒して倒れてるか、青くなって震えてるか……。ああ、これがキレるって状態なのか。
斉藤から心臓を食べられた女子生徒の腹部から、腸が飛び出して、ズルズルと床へ垂れ下がっていく。もう一人の女子も、似たような状態だったが、その様を見ても何も感じない。否、何も思えなかった。
「……邪魔だから」
ポツリと口に出して、金属バットを振る。軽く振ったつもりが、案外力が入っていたらしく、女子生徒の頭が千切れて壁に当たった。
頭のない身体は、そのままの状態で突っ立っている。それを蹴れば、もう一人の女子も巻き込んで倒れた。身体的に小柄だった、その女子生徒は、首無し死体の下から抜け出せずに、もがいている。先に千切れた頭を潰して、ジタバタと暴れていた女子の頭蓋を殴り、動きを止めた。金属バットが耐え切れず、中程から折れ曲がってしまった。存外、脆いらしい。まあ、本来の用途から外れた使い方をしてるのだから、当たり前かもしれない。
全てを済ませて、自分に目を向ければ、両手が血に塗れ、シャツが赤黒く染まっている。荒田を喰い殺した男子生徒と、さして変わらない格好になっていた。
「……気持ち悪い」
でも、今更だよな。はははと乾いた笑いが零れる。
「静かだな……」
嘘のようなリアル。これが、現実。俺、五人も手に掛けた。死んでる人間を殺しても、殺人罪で捕まるのかな?
そんなことを考えながら、斉藤たちの死体を見つめていると、廊下が騒がしくなった。
誰かが、荒田たちの死体を見つけたのかもしれない。
折れ曲がった金属バットを手から放すと、カランと乾いた音を立てて、床に転がる。
「澪!」
二つ重なって聞こえた声に、入口の方へと振り返れば、部屋の惨状に絶句している彰と史哉が居た。彼らの姿を見て安堵してしまったのか、それとも身体が限界に達したのか……。足元が覚束なくなり、その場に座り込んだ。
「澪! 怪我はっ。噛まれ――」
「てないし、怪我もしてない。ただ、ちょっと疲れただけ」
そう……。凄く、疲れたんだ。指一本動かすのも、億劫な程に疲れた。
「とにかく、身体に付着した血液をシャワーで洗い流しましょう。急いでください。このままじゃ、澪まで感染してしまいます!」
史哉は、彰に俺を抱えさせて部屋のシャワールームへ彰ごと押し込んだ。
「澪は動けそうにないので、彰がシャワーを浴びさせてください。僕は、二人の着替えを持ってきますから。あ、後、頭や顔は清潔なタオルで血液をしっかり拭き取ってからシャワーを掛けてください。血液が口や目、鼻から体内に入らないように注意しながらですよ」
てきぱきと指示を出して、部屋を飛び出していく。
「……澪。おい、澪! しっかりしろ!」
「大きな声、出さなくても……聞こえてる。っていうか……煩い」
意識はあるけど、身体が言うことを利かないだけ。
「こら、寝るな! シャツが脱がせられねえだろうが! ああっ、くそったれ。シャツ、破くからなっ。後で文句言うんじゃねぇぞ!」
脱がせられないとか、そんな言い方、しないで……欲しい。また……誤解、され…………。
俺の意識があったのは、ここまでだった。