序章
部屋の中央に、一組の男女。
二人が身に纏う白衣は、鮮血に染められている。かなり重傷だ。
「美咲、これ以上……逃げられないだろう。せめて――」
言いかけて、止めた。美咲と呼んだ女性の体が、グラリと傾いたからだ。男は、慌てて彼女――美咲の腰に腕を回して抱き寄せた。
「っ!」
急な動きに男の脇腹から血が溢れ出し、痛みで顔が歪む。美咲も出血多量の所為か、顔色が非常に悪い。
「和、彦……さ……。お……願い。あの子の……培養……機の、そば……に」
途絶えながらの美咲の言葉に、和彦は無言で頷き歩き出した。二人の行く先には、円柱型の水槽がある。美咲が培養機と呼んだのは、その水槽のことだ。
培養機へ辿り着くと、和彦は美咲を床に座らせ、コンピュータへ向かった。その視線は、真っ直ぐ培養機へ向けられている。
美咲は、痛む体を引き摺る様に動かし、培養機へ近寄った。
「ま……もる、わ。なん……と、しても……あ……なた……だけ、は……」
慈しむように培養機の硝子を撫で、その中央に浮かぶ物体へ視線を向けた。しかし、美咲の目は、もう殆ど見えていないのか、物体を見るというより宙を彷徨っている。その後ろで作業を続けていた和彦が顔を上げた。どうやら、作業がほぼ完了したらしい。
「美咲、緊急保護プログラムが起動する。離れろ」
「…………」
名前を呼んでも、返事がない。和彦の顔色が益々悪くなり、美咲に駆け寄った。
「美咲? 美咲っ!」
「……まだ……、死んで、ない……わ」
その言葉に、和彦が安堵の吐息を漏らす。立たせることを諦め、僅かに場所を移動させる。これ以上は、和彦自身も動けそうになかった。コンピュータから取り外し持ってきた起動スイッチを美咲に差し出し、手に握らせると二人で起動スイッチのボタンを押した。
『第一研究室でバイオハザード発生。緊急保護システムを起動。第一研究室を隔離後、研究所は完全閉鎖。繰り返します。第一研究室で――――』
建物内部に警報音と放送が鳴り響いている。その音と共に、培養機が姿を変貌させ始めた。培養機全体を鋼鉄のカバーが覆い隠し、その床が円形に口を開いていく。そして、開き切った床の内部へ徐々に培養機が沈み始める。
「これ……で…………」
「ああ、助かる。いや、瞳子さんが必ず助けてくれる」
「良かっ…………」
床へ沈んでいく。――否、収納されていくというべきか。美咲は、和彦の言葉に安心して、微笑みを浮かべたまま逝った。その亡骸を抱きしめる和彦も微笑みを浮かべている。和彦の目に悲しみの色は無い。
「美咲、愛しているよ」
和彦は、まだ温もりのある美咲の頬に口づけを落とし、研究室の入り口を見つめた。
「……今、傍に逝く」
培養機が床へ完全に収納された瞬間。乱暴に開かれたドアの音と、無数の銃声が室内に響き、和彦の体と美咲の亡骸を数多の銃弾が貫く。
――――騒音が静まった室内に遺されたのは、無数の弾痕と、血の海に倒れ、原型を留められないほど破壊された二人の亡骸だけだった。
「……やめっ……やめろおぉぉぉぉっ。……ハァハァ……ハァハァハァ……」
叫び声と同時にベッドから跳ね起きて、辺りを見回す。カーテンの隙間から朝日が差し込み、薄暗い部屋を照らしている。何の変哲もない自室が目に入り、安堵するとそのままベッドへ倒れ込んだ。
「っ……。また、か」
強張っていた身体から力を抜き、目を閉じる。両手で頬に触れれば、双眼から涙が零れ落ちていた。
「一体、何なんだよ?」
子供の頃から見ている、得体のしれない夢。
それに出てくる人物に心当たりがあるはずもなく、研究所なんて物も知らない。まるで睡眠中に、リアルな映像を無理やり鑑賞させられているような感覚だ。そんな非科学的なことが出来る筈がないことは、解っている。だが、毎回、同じ場面から始まり、同じ場面で終わる夢は、俺を散々苦しめ、苛ませるには十分すぎるものだった。