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作者: 仲江

 「絵っていうものはさ、人を選ぶんだよね。誰が一番自分に相応しいか、誰が一番自分を自分らしく描いてくれるか、選んでいる。そして絵描きは選ばれるの。出会うのね、絵に。そのためには選ばれる事をしなきゃあいけない。努力しなくちゃあいけない人は努力しなくちゃあね。画力を上げたり観察力を身に付けたり心を鍛えなくっちゃ。」

 そう語りながら彼女は、自分の背よりも大きなキャンバスに黄色の油絵の具をガシガシと殴る様に塗り込んでいる。まだ下塗りの段階で、白い地肌が覗いている。

 それには下書きというものが一切なされていない。真っ白に、ランダムで塗りたくられた黄色があるだけだ。なので彼女が描く事を止めるまでその正体は分からない。まあ、ほとんどが抽象画のため、いつまで経っても分からず仕舞いな作品が多いのだが。

 画力はそこらの画家と変わらないだろう。デッサンを見る限りそう感じる。

 彼女は十冊以上のスケッチブックを所有しており、それ等は全て使い切られていない。適当なページが開かれ放置されていたり、二、三冊積み上げられていたりする。

 彼女が描こうとした時に、一番手元にあるそれを手に取り描く。クロッキーの様に勢い良く描かれているものから、細胞を描いているのではないかと思う程の繊細なデッサンもあった。

 私は芸術の事など詳しくないし、自身触れた事など滅多にないのだから良く分からないが、おそらく描かれる対象の雰囲気が表されているのだろう。彼女はここにあるもの、ここから見える風景しか描かないが、例えば薬の小ビンからは薬臭さまで漂ってきそうだし、荒々しく描かれた窓から見える木々は、この前の風が強い日に描いたのだろう。

 一息吐くと、新しくチューブから絵の具をたっぷり絞り出し、ペインティングオイルと練り合わせた。それを筆に取り、体全体を使って筆を掻き立てる。

 また、言葉を続けた。

「選ばれたからってさ、安心しちゃあいけないの。だって絵に完成なんて言葉はないんだからさ。それでまた新しい絵と出会うために何かをしないとね。……分かるかな?」

最後、彼女は必ずそう言って私に振り向く。まるで独り言の様にも思えるその語りは、どうやらきちんと私に語りかけているのだと分かる。その度にどこか安心する。

 私は彼女の問いかけに肩をすくめ、分からない、という意思表示をした。

 残念ながら平々凡々に、生とは何だろうとか、人間と他の動物の違いは何だろうとか、何故人は人を傷付けるのだろうとか、当たり前な人間が当たり前に思う様な事しか考えてこなかった私には、彼女の深い考えは理解しがたいのだ。

 そんな私を見て怒るでも呆れるでもなく、眉を垂らして軽く笑い、少し淋し気な表情を見せた。そうするとまたキャンバスに向き直り筆を動かす。

 彼女はアルコ。

これはおそらく名前だ。歩子と書くのだろうか。

 初めて出会った時、アルコ、と第一声を漏らした。なので私は彼女を示す時にこの単語を用いている。

 矛盾だが、アルコと出会った時の事はあまり覚えていない。第一声というのも、アルコが発した言葉の中で覚えている、最も古い記憶の単語だ。

 いつの間にか私の家にいたのだ。いや、もしかしたらこの住家はアルコのものかもしれない。

 私達は十階建てマンションの最上階に住んでいる。広い、陽の当たる良い部屋だ。デザイン性も高く、何かの雑誌でも紹介されていた。

 なんとなくアルコより私の方が長くここにいる気がするので、私がいるところにアルコが後からやって来たのだろう。

 私は別に記憶を喪失してはいない。覚えていないだけで、頭を強く打ったなんて記憶もないし、そんな事を人づてに聞いた事もない。大人が幼少時代を思い出せない様に、自然と記憶が老朽化しているだけだ。

 そう、自然に。

 アルコは自然と同化していた。

そこにいるのはとても自然で、当然なのだ。だから例え、突然ここへ現れて絵を描いていたのが今日だとしても、違和感はないだろう。きっとその時は実際にそうだった。突然現れて絵を描いていた。昨日アルコなんていなかった、と言われても、そういえばそうだ、と頷いて紅茶をすすっていたに違いない。

 アルコは常に絵を描いている。そして常に絵を描いていない。

 今の様にもくもくと絵を描き寝食もせずに手を動かしている時と、全く描かずにただひたすらぼうっとしている時とがある。その他には食事をしたり風呂に入ったり寝ていたり、最低限な行動しかしない。

 いや、最低限を下回る時もたまにある。先程寝食もせず、と記したが、本当に全く、しないのだ。絵が一段落するまで三日三晩向き合っている。呼吸をしているかすらも定かではない。流石に死ぬ事はアルコも嫌なのか、寸前には思い出した様に生きるための行為をする。

 しかし私に語りかける事はいつでも忘れなかった。確かにもくもくと絵を描き続けているため、始終語るわけではなく集中して無言になるの時もあるのだが、私の存在を忘れた事はない様に思う。

 アルコは外に出ない。住家の中で行った事のない場所はないだろうが、行動範囲はそれだけである。外に出たいとも言わないし、私もたまには出かけたらどうだとも言わない。

 私はアルコを眺めながら、飲み干してしまい空になったカップに再び紅茶を注いだ。休日は平日よりも遅い朝を過ごし、午後からアルコの絵を眺める。描いていれば描かれているアルコの絵とアルコを、描いていなければすでに素晴らしい作品に育てられたアルコの絵と、ぼうっとしているアルコを。本日は前者だ。

 私の事も少し説明すると、自分で言うのも何だがかなりのエリートである。だからやはりこの立派でつるつるした住家は私のものだとほぼ確信出来る。だってアルコはただ絵を描いているだけなのだから。

 だが、油絵セットはアルコの物だ。たまにこれがなくなったと言って、慣れない画材屋に買いに行かせられる時もある(もちろん、私の資金で)。今描き込まれているキャンバスを頼まれた時は流石に大変で、車に詰め込むとかなりの不格好だった。アルコが私の家へいつの間にかいたというのなら、油絵セットはその時に持ち込んだのだろう。

 アルコは見た目にこだわりがない様だ。

私が気を利かせて、年頃の娘が着る様な服を貢いでやるというのに、結局スウェット地かふわふわした心地の服しか着ない。まあ、どんな服も直ぐに絵の具まみれとなってしまうのだが。髪もボサボサで、前髪をアップにして後ろに一つひっつめる。眉毛も整えられてはなく、太いが薄いのでそれはまあ大した事はない。

 アルコと私の関係は、この世にある言葉では表せない。同居人といえば同居人であるし、知り合いといえば知り合いだ。しかし友人ではないし、家族ではもちろんない。私が作った食事を食べるし、アルコの画材を調達するのも私だ。だから世話係の様でもあるが、誰に頼まれたわけでもないし、世話は好きでも嫌いでもない。

 そんな私とアルコのあやふやな関係があやふやに壊れた原因は、やはりあやふやだった。

 私はエリートだ。二、三年前には海外でも仕事をしていた。

 となるとアルコが現れたのは二、三年内という事になるのだろうか。いや、もうこれは考えても無駄だという事は私が良く知っているから、止しておく。

 大企業の将来を担う新気鋭とも言われ、それはその通りになり、社長直々、将来の社長の座は任せたとも言われた。今まで期待を裏切った事なんてない。失敗なんて馬鹿のする事だ。考えれば上手く行くか行かないかなんて分かるだろう。後先をじっくり考える。動くのはそれからで、失敗をするのはそれをしない輩だ。

 だがしかし、私は失敗を、した。

 部下の選択を間違えたのだ。部下の責任は上司の責任。とんでもない事を仕出かした話を聞いて、私は人生初めて宙に浮かぶ感覚を体験した。体中がぐるぐると掻き回され、頭が真っ白になる事も初めてだった。

 アルコの様子もおかしかった。どこかがおかしかったのだ。

 彼女は私に語りかけなくなった。あの黄色く下塗りをした絵を描き始めて三日程経ってからだ。

 「私、絵になりたいのね。それで飾られて色んな人に見られるの。それでそれで、私は私を見て行く人を見て行くの。どうしたらそれが出来るかなあって考えたら、絵の棺桶を作れば良いんだって気が付いたのね。私の骨を砕いて絵の具に練り込んで、それで描くの。でもね、それだと私、自分で描けないのさ。」

そう語ったのを最後に、アルコは一切口を開かなくなった。前以上にただもくもくと筆を動かすだけで、私に語りかける事すらしなくなった。息をしているかさえ分からないアルコも、それだけは忘れなかったのに……しなくなったのだ。

 私は失敗をしたその日、もう今日は帰って良いと告げられた。処分は何なのだろうか。いや、クビが飛んでもおかしくない。それ程の大事が起きたのだ。

 家に帰ると、ドスリと椅子に腰かけた。しかしアルコはキャンバスに向かったまま振り向きもしない。今までなら音を立てずとも無邪気な笑顔を作り、おかえりと振り向いたのに。

 アルコが構っているのは、人間の皮膚が描かれているキャンバスだ。以前それには骨が描かれ、乾いたその上に筋肉、臓器が描き込まれていただけだった。更に今日乾いたその上に皮膚を描き重ねたのだろう。

 「私、絵で人間造れちゃうと思うのね。骨描いて、その上に心臓とか筋肉描いて、皮膚描いたら人間出来ちゃうと思うの。ぽこって動き出すと思うのさ。」

前にそう言っていた事を覚えている。

 アルコが語った言葉を、私は一つとして忘れていない。それは斬新な考えであったからでもあるし、発せられた内容は二度とアルコから語られないため、必死に脳髄へと刻み込んでいた。

 そして骨が描き出された辺りから私の存在はなくなった。

 何故か最高に気分が悪かった。抑えられずに拳を机に打ち付けると、ビクリとアルコの細い肩が跳ね上がり、やっと気が付いた様に私の方を向く。

 あろう事か、私の口はアルコに出て行け、と暴言じみた言葉を吐き出した。

絵を描く事がそんなに大事なら、私なんていらないだろう。私だってアルコなんていらない。出て行け。私か、絵か、どちらかにしろ。私を選ぶなら金輪際絵を描くな、語るな、関わるな。それが嫌ならここから消えろ。私の前に二度と姿を見せるな。

 そう言って怒鳴り付けた。するとアルコは眉を下げ、唇を震わせ、目には涙を溜めた。だが私の興奮はおさまらない。

「嫌だ。」

と、アルコは首を大きく何度も振り、その度に顔は歪みを増した。

駄目だ、決めろ。どちらかにしろ。

容赦なく言い放つ。

 暫く、嫌だ駄目だの言い合いをしていると、向こうが折れた。

「分かった……。」

か細く濡れた声だった。だが暫く待ってみても答えを出さないため、無言でそれを催促すると、視線を合わせて来た。

「明日じゃあ駄目かな?明日までに答えを出すよ。」

相変わらずの表情でそう懇願するアルコを私は許し、とりあえず言い争いは終了した。

 私は寝室に向かい、睡眠を取ろうとしたが興奮しているために寝付けない。だがしかし怒りとはまた違う興奮だ。じわじわと黒く冷めたものが足元から攻めて来る。叫び出してしまいそうだ。それをごまかす様にひたすらゴロゴロと寝返りをうってみるが、消えてくれない。寝付けないまま空が明るみ、また一日が始まった。

 昨日言い争いをした部屋に戻るとアルコがいた。ぺたんと座り込み、描き途中の絵を見上げている。手にはパレットと先端の擦り減った筆が握られている。

 それを見た途端、私はアルコに掴みかかった。その様子を見るからに、いつも通り寝食もせずに描き続けていたからだ。それが答えなら何故まだここにいる。その矛盾に私は怒りに任せてアルコを前後に振った。

出て行け!

そう怒鳴って玄関まで引きずりだし、裸足のまま外に放り出す。

 するとまた昨日と同じ表情を浮かべ、震えた声を絞り出した。

「……絶対に選ばなきゃあ、駄目なの?どうしても、駄目?」

何を今更。昨日あれだけ駄目と言って、アルコは折れたはずだ。今日までに答えを出す、と。

 口には出さず、それを冷たい目線で訴えると、怯えた様に一歩後退りした。何かがアルコの中でプツン、と切れたのが、一度大きく跳ね上がった体と見開かれた目で分かった。

 突然アルコは吠える様に叫び出し、屈み込んでパニックを起こし、髪を掻き回した。それが少しおさまると、荒い呼吸のまま虚ろな目で私を見上げ、その目から口から鼻から流れ出るものを垂らしたまま拭おうともしない。

 圧倒され私が押し黙っていると、フラフラ立ち上がり、更に玄関から離れる様に後退る。

 何度かアルコを呼ぶが、私の声はあまりに細く頼りない。返事はおろか反応すらしない。アルコの荒い息遣いの方がハッキリと鼓膜を震わせている。

 廊下を挟んで向こう側には壁があり、それに辿り着いてトン、とぶつかった。傍目、当たっただけにも関わらず、今のアルコには強い衝撃だったらしく大きく体を揺らした。

 ここの壁は低い。デザインを重視したためだろうか。

 「嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ……。」

アルコはひたすら一定間隔にそう繰り返した。まるで呪文の様で、頭がおかしくなりそうだ。

 もう一度アルコを呼んでみると、まだ中々震えた声に自分で情けなくなってしまう。

 「死にたく、ない……。」

かすれた声で囁く様にそう言った。まるで地獄から持って来たその響きにゾクリとする。

 アルコは自分の腰程までしかない壁をまたいだ。その向こうは十階分の宙がある。

 ゆっくりとした動きだった。それなのにどうして私は止めないのだろう。妙に冷静に問いかける。足が、動かないからだ。

 ドサリ、と鈍い音がする。

 一瞬何が起きたか理解出来なかった。体が震え上がり、足がすくむ。仕事で経験した、宙に浮く心地も真っ白になる気持ちも比ではない。

 私はその場にへたり込んだ。ふと、視線を感じる。そちらをゆっくりと振り向く。

 そこにはまだ描き途中の、皮膚の上に顔のパーツだけが置かれた絵があった。昨日から徹夜で描き足したのだろう。

 ……アルコの画力の高さを恨んだ。

 明らかにそれは、アルコの目線から見た私、だったのだ……。

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