3回目
「潤」
「にいちゃん」
伸ばされる二対の腕と潤と呼ばれた若者との間を、剣呑な光を宿す二本の刃が断ち隔てる。
「メガン、マルカ」
流れ落ちた脂汗が、若者の目に入った。
痛みに涙があふれそうになる。
「イヤだっ!」
血なまぐさい王宮へと連れてゆかれることは、どうしようもないくらいに恐ろしい。しかも、あの二人と別れるのだ。
この世界で呆然としていた彼を、助けてくれたのがあの二人だ。
そうして、彼をこの状況へと陥れた力を見いだしたのも、また、彼らだった。
この世界に来てまだ一月にも満たない。そんな潤にとって、彼らは頼もしい家族も同然の二人だった。
巻き込んでは駄目だ。
そう思う心の反対が、彼らに縋りつこうとする。
伸ばす手を下ろすべきか。
悩む潤の手を取ったのは、メガンだった。
「俺たちも行く」
震えながら、それでも、メガンは兵士たちを見上げた。
「お前たちが?」
邪魔だと言いたそうなまなざしで、二人を見下ろす兵士に、
「二人も一緒なら、逆らわない」
潤は、そう言ったのだった。
潤はまだ知らない。
自分が何故王宮に連れてゆかれるのか。
王宮でなにが彼を待ち受けているのか。
震える手を、メガンとマルカのやはり震える手が握りしめた。
そんな彼らを感情のこもらない視線が見下ろす。
「行くぞ」
機械的な声が、彼らを促し、三人はようやく慣れようとしていた町外れの治療所を後にしたのだ。
潤を頼りに治療所へと足を運んだ老若男女たちが、絶望に青ざめて、彼らの背中を見送った。その中の幾対かが滾る憎悪を瞳の奥に潜めていることを、兵士たちは歯牙にもかけてはいなかった。
王は同時に神なのだと。
だからこそ、絶対であり、逆らうべき相手ではなかった。
ただひとりの王が統べる世界は、かつては平穏であったのだ。
それがいつ変貌を遂げたのか。
メガンとマルカが生まれた頃には既に、世界は恐怖に支配されていた。
貴族や兵士に逆らうこと、それは王に逆らうのと同じことだった。
それは、即彼らの破滅を意味した。
運が良くて、収監。
悪ければ、拷問の果ての処刑が待っている。
ふたりの両親は、地方の領主に逆らったとして、連れてゆかれた。
ふたりが逃げられたのは、幸いだった……のだろうか。
彼らがどうなったのか。
ふたりはそれを考えないようにしていた。
崖下の迷路のような洞窟で他の似たような境遇のものたちと一緒に、ケモノのような毎日を過ごしていた。
そんなある日、マルカは跳梁する魔物に襲われた。
日が陰る頃から夜が明ける寸前までは、魔物の時間だ。人々は、恐れ、震え、ただ何事もなく夜が過ぎることを祈る。
そんな時間に食べ物を探して洞窟に帰りそびれればどうなるのか。
奇跡的に逃げ延びたマルカだったが、魔の毒は、まだ十才の少年の細いからだを冒していた。
たった一人きりの弟を救いたい。
その一心で森の中薬草を探し求めていたメガンの目の前に、潤はいた。
同い年くらいだろうか。
ただ立ち尽くしている。
見たこともない、しかし綺麗な身なりをしていた。
襲って金でも奪うか、物乞いよろしく哀れを誘うか。
悩んだのは少しの間のことだった。
「危ないっ」
咄嗟に潤の腕を掴んでいた。
しかし、どこからか突然現れた魔物の毒の爪は、潤の肩を抉っていた。
流れる血に気をとられている暇などない。
「なに惚けてるっ」
「死にたいのかっ」
潤を引きずるように逃げていた。
サルを縦に伸ばしたような魔物は、サルに似ている割には動きが俊敏ではない。だからこそ、彼らは逃げられたのだ。
逃げ帰った洞窟で、メガンは見た。
抉られたはずの潤の肩の傷が綺麗に治っているのを。
潤自身はそれに気づいていないようだったが、メガンは躊躇しなかった。
マルカを助けたかったからだ。
洞窟の奥に潤を引っぱり、草を寄せ集めただけの寝床に座らせる。そうして、マルカの傷に潤の手を当てさせた。
それから後は、奇跡だった。
潤が触れるだけで、マルカの傷はまたたくまに治ってしまったのだ。
それを見ていた洞窟暮らしの者たちが潤に手を伸ばす。
メガンのように負傷していないものの方が、少なかったのだ。
すがる手の主たちをすべて癒した潤の噂は、瞬く間に都から遠く離れたこの森から村へ町と広まっていった。
その速度は、まるで、なにかに操られるかのようだった。
癒しの手を持つ潤に、町の有力者が治療所を与えるからそこでひとを癒してほしい。そう言ってくるまで、どれほどもかかりはしなかったのだ。
メガンはためらった。
潤にはもうひとつ秘密があったからだ。
それは、彼が偶然知ることになった、潤のからだの不思議だった。
決して最初から、潤はそうではなかったらしい。
マルカたちの傷や病を治してから、しばらくの間床についた潤の世話をしていたメガンは、それに気がついた。
汗ばんだからだを清めていたあの時、潤の下半身の不思議に気づくことになったのだ。
それは、同時に潤も自身の変化に気づいた瞬間だった。
自分のからだの変化に気づいたあの時の彼の恐慌に、メガンはただ激しく震える潤を抱きしめることしかできなかった。
「オレ、こんなじゃなかった。オレ、男だった。女じゃなかったんだっ」
男であると同時に女でもある。そんなものが存在するなど、メガンは知らなかった。自分が知らないだけかもしれないが、それでも、これまで、彼は聞いたこともなかった。もちろん、見たこともなかった。
からだを拭っていた時に見てしまった、不思議をかたどる下半身が、目に焼き付いていた。
信じてくれと縋りついてきた潤に、メガンは、うなづいた。
うなづくよりなかった。
そうして、それは、メガンと潤、ふたりの秘密になった。
町になどいたら、知られはしないだろうか。
いや、それは、どこにいても同じだろう。
秘密などなにからバレるか、知れたものではない。
メガンは首を振った。
守ってやる。
オレが、お前を。
潤は決して、女のような外見をしているわけではない。
一目見て誰もが少年だと看做すに違いない。
彼が主張するように、ずっと男だったのだろう。
ちょっとした仕草もなにもかも、男のものだ。
決して美形ではない。
鳶色の髪と瞳の、凡庸な顔立ちの少年だ。
けれど。
メガンは思い返す。
あの時感じた、潤から立ちのぼった彼の体臭を。
うっとりするほど甘い匂いだった。
あの瞬間、メガンはそうと知らず、潤に囚われたのだ。
男だけど間違いなく女でもある、そんな潤を、いつまでもこんな環境の悪い洞窟暮らしなどさせていていいはずはない。
色々な恐ろしいことはどこにでもある。ならば、少しでも住みやすいところにいたい。食事にも困らなくなるだろう、寒さに震えることもなくなる。だから、
「承知しなよ。オレとマルカも手伝うから」
そう、勧めたのだ。
勧めなければ良かった。
メガンは兵士たちについて歩きながら、後悔せずにいられなかった。