18回目
黒みがちの赤い月が大きく空を支配する。
遅くなった。
久しぶりの城の外は、いつも以上の不穏な空気に包まれているようだった。
不快な空気にざわつく下町の店を覗きながら、消化の良さそうな食べ物を探した。
柔らかくて甘い果物がいいかと考えると、下町よりも、上手のほうの果物を専門に扱っている店の方が良さそうに思えた。考え直してメガンは上手の街に移動する。そこにも、下町の不穏な雰囲気は伝播しているようだった。
ほんの少しだけ、城の空気から逃れたかったのだ。
潤とマルカを置いて。
罪悪感が疼いた。
潤の苦痛は痛いくらいに判る。
身近に接していればこそだ。
けれど……それだけに、辛くてたまらなくなる。
潤の苦しみが伝わって来て、それを救うことができない自分の不甲斐なさに、気が狂いそうになる。
だからこそ、ほんの少しだけ、気分を変えたかったのだ。
逃げたかったのだ。
卑怯にも。
だから、城に戻るのをじりじりと送らせた。
それには、城下町をとりまいている不穏な空気の原因を突き止めるのがちょうど良かった。
犯人は、わからない。
けれど、その凶行は、実際に犯されているのだ。
腹の大きな女が殺される。
連続殺人だった。
裂かれた腹はぐちゃぐちゃに掻き乱され、そこに存在したはずの遠からず世に生まれでる予定だった胎児が奪われていた。
今では、妊婦は家の奥にこもって、よほどのことがない限り外には出ないのだそうである。
なんてことだ。
メガンはそう思った。
もしも潤が城下町にいたら、狙われていたに違いない。
幸いなことに、潤は城下町とは無縁の所にいる。
他の妊婦たちには申し訳ないが、安堵の溜め息を吐かずにはいられなかった。
黒くて赤い月だ。
潤は、空を見上げた。
もう少しすれば、今夜もまた、王の来訪があるのだろう。
会いたくない。
顔なんか見たくない。
顔を見た途端、あの声が自分の名を呼ぶのだ。
潤……と。
代わって………と。
自分にはその声に抗う術などありはしない。
押し込められる意識の片隅から、ただ自分が操られるのを意識するしかないのだ。
嫌らしく乱れる自分に耐えられなくて、意識を閉ざそうとどれだけ考えただろう。しかし、それこそが声の主の思惑なのだと思えば、それもできなかった。
どれほど変えられようと、このからだは、自分のものなのだ。
誰にも渡しはしない。
それだけが、潤に残された意地だった。
ふと、寒いと思った。
上着をと周囲を見渡して、潤は部屋にひとりきりだと知った。
「メガン? マルカ?」
メガンは……と、思い出す。
メガンは、確か、ものを食べられなくなった自分のために、消化の良いものを買いに行ってくれたはずだった。
忘れていた自分に、嫌気がさす。
あんなにも親身になってくれるメガンのことを忘れていた自分が、白状に思えてならなかったのだ。
そうして、マルカは……。
「マルカ?」
続き部屋にも、彼らのための小部屋にも、自分のために設えられた狭くはない生活空間の何処にも、マルカの姿がなかったのだ。
マルカを探しながら取り上げた上着を羽織った潤は、これはマルカを探すためだと自分で自分にいい聞かせながら窓から庭に出た。
「どうなさいました」
すぐに護衛の騎士が姿を現した。
「ま、マルカがいないんだ」
「彼らに探させましょう。ご内室さまはお部屋の方にお戻りください」
「い、や、ちょっとだけ外の空気を吸いたいんだ」
残ったふたりの騎士が顔を見合わせた。
潤が庭に出るのは、はじめてのことだったからだ。
「駄目なのか」
「いえ。どうぞ、ご内室さまのお心のままに」
頭を下げた騎士のひとりが潤の手を取る。
「いらない」
あきらかに熱っぽい掌に、騎士はしばらく躊躇したが、残るひとりが彼に目配せしたことで,礼をとり潤の手を放した。
ふらふらとおぼつかなく歩く潤に、手を伸ばしかけては、思いとどまる。
おそらくは、その場に膝をついたとして、潤は彼らの手をよしとはしないだろうことが容易く察せられたからだ。
だから、それを油断と言っては酷だったろう。
潤が突然走り出すとは、よもや、考えもしなかった。
そう。
事実、潤は走り出したのだ。
何かに襲われたかのように。
悲鳴はなかった。
ただ、何の前触れもなく。
そうして、追いかけようとした騎士たちの視界は、漆黒に塗り込められた。
その場から動くことができなかったのだ。