93 越境
案内された村長の家にたどり着く。
ノックをすると、低い声で「入れ」と返ってきた。
ドアを開けた瞬間、独特の匂いが鼻をくすぐる。乾いた草と、獣の毛と、炭の残り香。
中には、ヤギに似た角と顔立ちの獣人が腰掛けていた。年齢は……正直わからない。目だけがやけに落ち着いている。
俺は一歩だけ前に出て、頭を下げた。
「こんにちは。ユウトといいます。隣はリナです」
「……」
「エルデンの森から来ました。道に迷って、この村に出てしまって……
ラツィオという街に戻りたいんですが、進む方向を教えてもらえませんか」
獣人は、少しだけ顎を引いた。
「そうか。俺はザグラだ」
ゆっくりと、重たい口調だ。
「エルデンから……導かれてきたってわけか」
ザグラは短く鼻で息を吐いた。
「ラツィオ、という名は知らん」
それから、こちらを真っすぐ見て続ける。
「お前たちも薄々わかってるだろうが……ここはお前たちの国じゃない。ここはバルガンだ」
その言葉が胸に落ちた瞬間、背中がぞわりと冷えた。
「……やっぱり、ですか」
リナが俺の袖をつまむ。
「ねえ。遠いの?」
不安を隠しきれない声だ。いつもの軽さが少しだけ薄い。
俺は、喉を鳴らしてから答える。
昔セラに見せてもらった世界地図を思い出す。
「遠い……と思う」
ザグラが、俺たちのやり取りを見て、淡々と言う。
「北のほうにトルグって町がある。そこへ行けば街道に繋がる」
「トルグ……」
「そこから先は、俺も知らん。行ったことはないからな」
俺はもう一度頭を下げた。
「教えてくれて、ありがとうございます。今日は……どこか、泊まれる場所は……」
ザグラは手で追い払うように言った。
「今夜は泊まってけ。村の入口の家にルヴァンがいる。俺が言ってたと伝えろ。断りはしないだろう」
「助かります。本当に……」
村長の家を出ると村の入口の家に向かう。
さっき村に来て声をかけてきた狼っぽい獣人の男がいた。
「ザグラさんに、ここに泊まれって言われまして……」
「ちっ。仕方ねぇな……入れ」
言葉が短い。声も硬い。
中に入ると、もうひとり獣人がいた。体格は小柄で、顔立ちは同じく狼っぽい。
声が高い。娘だろうか。
「……誰?」
警戒がそのまま声に乗っている。
俺は手のひらを見せるようにして、ゆっくり答えた。
「ユウトです。こっちはリナ。村長に言われて……一晩、泊まらせてもらえると」
彼女は一瞬だけ目を細め、それから小さく息を吐いた。
「そう……私はイグニ。よろしく。……あっ、外。ルヴァン」
外から、さっきの男ルヴァンの声が飛んでくる。
「おーい、イグニ! 手ぇ貸せ!」
「はーい。……二人とも、ゆっくりしてて。勝手に奥は開けないでね」
「はい」
イグニが外へ出て行くと、家の中が少し静かになった。
リナが小声で言う。
「……初めて獣人を見たよ」
声は興味と緊張が混ざっている。
「向こうでは見たことなかったな」
それでも頭の奥では、昔セラに叩き込まれた話が勝手に浮かぶ。
大陸には大きく国がいくつかあって、種族ごとに中心となる土地が違うと教わった。
ただ、それは授業の話で、目の前の現実はもっと生々しい。
俺がそういう話をかいつまんでリナに伝えると、リナは目を丸くして笑った。
「詳しいねぇ」
「セラに叩き込まれたからな」
その名前を口にした瞬間、胸の奥が少し痛んだ。
フィルシアはどうしてあんな態度になったのだろうか。
胸の痛みを誤魔化す様に、俺はテーブルの傷を指でなぞった。
その時、外から「飯だ」と声がして、リナの背筋がピンと伸びる。
テーブルに並んだ料理は、肉が中心だった。焼けた脂の匂いが漂う。
喉が勝手に鳴る。
「いただきます……!」
リナも、目を輝かせて手を合わせる。
「いただきますっ!」
食べ始めると、身体がほっとするのがわかった。
干し肉と違う。焼きたての肉は、それだけで生き返る。
ルヴァンが、俺たちを見て言う。
「俺の名はルヴァン。……お前ら、ユウトとリナだな」
「はい」
「どうやってエルデンから出てきた?」
聞かれると色々と思い出すが要点を絞って伝える。
「精霊魔法の勉強をしたくて、エルデンに入りました。そこで少し教わって
……帰る途中で、境界みたいなものを越えて歩いて……気づいたら、ここに」
ルヴァンは肉を噛みながら、目だけを細めた。
「精霊の導きだな」
その言葉に、リナの肩の上で小さく動くものが、ぴくりと反応する。
ドラ。雷の領域でついてきた、手のひらサイズの竜の精霊。
リナの首筋にすり、と頬をこすりつける。
俺の目の端では、茜色の光をしたアカネも、ふわふわと揺れていた。
ルヴァンの視線が、アカネの動きに一瞬だけついていく。
俺はその瞬間を見逃さず、思わず聞いた。
「……精霊、見えるんですか?」
「ああ」
ルヴァンは短く答える。
「この辺りはエルデンが近い。……見えるやつもいる」
イグニが、少し身を乗り出して目を輝かせる。
「いいなぁ。あたしも早くエルデン行きたいなぁ」
「そのうちな」
ルヴァンの声はぶっきらぼうなのに、返事はちゃんと優しい。
俺は、少し驚いて聞く。
「……行くのって、簡単なんですか?」
「簡単じゃねぇ。……成人の儀式みたいなもんだ。行って、帰って、戻ったら一人前だ」
それを聞いて、リナが口をもぐもぐさせたまま頷いた。
「へぇ……すごいねぇ」
ルヴァンはそこで箸を置き、表情を硬くした。
「……それと。この国に留まるなら、気をつけろ」
「……何に、ですか?」
「獣人は基本、人間を好かねぇ」
俺の背中に、冷たいものが落ちた気がした。
俺は人間だ。リナも……人間だ。
「……ルヴァンさんは、そうでもなさそうですけど」
恐る恐る言うと、ルヴァンは鼻で笑った。
「お前らには……それがいる」
ルヴァンは視線だけで、ドラとアカネを示す。
「精霊に繋がってるやつは、雑に扱えねぇ。村の連中も、そこはわかる」
俺は、胸の奥が少しだけほどけるのを感じた。
でも、同時に怖さも残る。
精霊に繋がってない人間は、どうなるんだ。
「……わかりました。気をつけます」
ルヴァンは短く頷いた。
「食ったら寝ろ。明日、村長にも挨拶しとけ」
「はい。ごちそうさまでした」
床に就くと、身体の芯から疲れが出てきた。
ベッドじゃない。薄い寝具だ。でも、森の地面よりずっといい。
目を閉じてどれくらい経ったか。
外が騒がしい。
「……っ」
最初に聞こえたのは、足音。次に、怒鳴り声。
それから、何かが倒れる鈍い音。
俺の身体が勝手に起き上がる。
心臓が、耳の裏で鳴っている。
「なに……?」
リナも起きた。声が寝ぼけていない。完全に覚醒してる。
その肩の上で、ドラが背中の鱗を逆立てるみたいに小さく震えた。
ぱち、ぱち、と小さな光。空気がピリつく。
俺の視界の端で、アカネが一度だけ強く明滅した。
落ち着かない光り方だ。
「外、行く?」
リナが小声で言う。
怖いのに、逃げない目だ。
「……状況だけ確認しよう」
俺は腰のナイフを取って、ドアをそっと開けた。
外は、松明の光で揺れていた。
村の広場に人が集まっている。獣人たちが、武器を持って円を作っていた。
中心に縛られた男がいた。
毛はない。耳も普通。人間だ。
口の端が切れて、血が垂れている。
ルヴァンがその前に立って、低い声で言う。
「……動くな。次は足を折る」
縛られた男は、唾を吐いた。
「獣どもが!死ねっ……!」
声は荒い。怯えより、憎しみが勝ってる。
ザグラもいた。村長の目は冷たかった。
「この状況で随分と面白い冗談だな。お遊びは終わりだ。何の目的でやって来た?」
その男は笑った。乾いた笑いだ。
「聞いてどうする。殺すだけだろう」
ザグラは答えない。
ルヴァンが舌打ちして、男の襟元を乱暴に掴んだ。
「黙れ」
その瞬間だった。
男の指が、手元にある何かを握りしめる。
小さな金属音。
次の瞬間、空気が鈍く震えた。
ドラが「キュ……!」と、嫌がるみたいに鳴いて、リナの肩から半歩だけ浮いた。
アカネの光が、一瞬だけ弱くなる。
「……それ、やめろ」
俺の声が低くなる。
男は、こちらを見た。目が一瞬だけ笑う。
「おいおいどうした!人間もいるじゃないか」
その言葉に、周りの獣人たちが一斉に俺を見る。
空気が変わる。
嫌悪じゃない。警戒だ。鋭い刃みたいな。
リナが一歩前に出ようとするのを手で制する。
男はまた笑った。
「おいお前!周りの連中を殺せ!畜生どもは皆殺しだ!」
俺を見ながら叫んだ。
ルヴァンが男の顔を殴りつける。鈍い音。
「喋るな」
だが、男は歯を食いしばりながら、手元のそれを握ったまま体を捻った。
縛りの縄が擦れる。どこかに刃が仕込んであったのか、縄が一部切れかける。
「っ、逃げる気だ!」
ザグラが叫ぶ。
俺は反射で、領域を薄く広げた。
広げすぎない。だが確実の男たちを捉える。
男の足元、半径数歩。
そこに魔力を流し込む。
空気の温度が落ちる。松明の炎が、わずかに縮む。
「……っ、寒……!」
急激な変化に戸惑い、動きが止まる。
「動くな」
ルヴァンが短く言って、拳で顎を打ち抜いた。
男の目が白くなって、膝が落ちる。
ルヴァンはそのまま押さえつけると、縄を締め直した。
獣人たちの緊張が、少しだけ解ける。
ザグラが俺を見た。
「……冷える術か」
観察するようにじっと見てくる。
俺は息を整えながら、頷く。
「はい。……今のは、咄嗟で。すみません、勝手に」
「いや、感謝する」
ザグラは短く言う。
「ありがとう」
周りの獣人たちも、視線を逸らし始めた。
警戒が消えたわけじゃない。けれど今すぐ牙を剥く空気でもなくなった。
リナが、俺の袖をちょん、と引く。
「……大丈夫?」
小声。心配が素直に滲んでる。
「大丈夫だ。なんとかなる」
俺の領域は薄いままだ。
アカネが、少しだけ近づいてきて、頬のあたりをくすぐるように漂った。
ルヴァンが、男を見下ろして吐き捨てる。
「……朝になったら村長が判断する。お前らは下がれ」
ザグラも頷いた。
「客人は寝ろ。……それと、明日、話をする」
「はい」
俺たちは家に戻った。
寝具に座り込むが、興奮がすぐに冷めることはない。
リナが、肩の上のドラを撫でる。
ドラは、まだ少し不機嫌そうに「ぐるる」と喉を鳴らしていた。
「……ねぇ」
リナが、珍しく小さな声で言う。
「人間、嫌われてるって言ってたの……こういうことかな」
「……たぶんな」
俺は、天井の暗い木目を見上げる。
何であの人間達はこの村にやって来たんだ。
吊し上げる様に囲んでいた暴力的な喧騒も初めて見た。
何が起こっているのか分からない。
いろいろなことを考えている内に眠りについていた。




