87 訓練2
翌朝になると魔力欠乏から回復していた。
息を整えて、床に座る。背筋を伸ばして、目を閉じた。
領域。
範囲は広げない。
体の周囲、ほんのわずか。肌から指一本分。
「ここまでが俺」
そう決めて、領域を少し広げる。
そこに魔力を乗せる。
少しずつ。問題なければさらに追加する。
範囲が狭ければ問題なさそうだ。
魔力を限界まで注ぎ込む。
気温が下がっている感覚がある。
吐く息が白くなる
指先がじんと痛い。
頬の産毛が、ぞわっと逆立つ。
領域の内側だけ、空気が冷える。
フィルシアが言ってた。
「領域内で発生することは本人の特性によるもの」
これが俺の……特性なのだろうか
ただ、思い出すのはアオイのあの冷えた空間だ。
岩の壁も天井も凍りついていた。
試しに、もう一度だけと欲が出る。
魔力を込め直した瞬間、体の中がぐっと軽くなった。
魔力が抜ける。消費が速い。
(あ、これ……もう少しでまた倒れる)
慌てて領域を閉じる。
白い息が薄くなっていく。
冷えた空気が、戻っていく。
オレンジ色の光が、ふわふわと顔の横を漂った。
俺が閉じた境界の外側で、ぐるりと回る。
朝食のあと、ノクスのところへ向かう。
「来たか。この桶で水を運ぶように」
「はいっ」
水汲み。
泉から桶に水を満たして、運ぶ。
そうは言ってもそれほど運ぶ量も無い。
次は畑仕事。雑草抜き。
畑の周りは木々が少し開けていて、日が入る。
森の中の暗い昼を見ているから、余計に明るい。
ただ、畑は驚くほど手入れが行き届いていた。
やることは、細い雑草を抜くくらいだ。
それでも、俺は領域を薄く広げたまま作業を続ける。
領域内の知覚が上がる。
土の湿り気。草の根の張り。石の位置。
目を閉じても、手が迷わない。
これ面白いな。目を閉じたまま歩けるんじゃなかろうか。
試しに、目を閉じて歩いてみる。
一歩。
二歩。
足の裏で地面の凹凸が分かるのとは違う。
自分自身が見えている。
変な感覚だ。
でも、歩ける。
「おお……」
思わず声が漏れた。
その時、背後から足音。
「順調に進んでいるか」
ノクスが来ていた。
相変わらず、背筋がまっすぐだ。声もぶれない。
俺は慌てて目を開ける。
「あ、はい。でも……もう十分手入れが行き届いていて、あまりする事もありませんでした」
ノクスは畑を一瞥して、短く頷いた。
「そうだな。日々の手入れが欠かせないものだ。
我々は自然の力を借りて生かされている。常に感謝だ」
「農作業もそうですし……色んなことやるの、大変じゃないですか?」
俺が聞くと、ノクスは少しだけ首を傾げた。
「そうでもない……あまり考えた事もないな」
「リナはどうですか?毎日へろへろで帰ってきますが」
俺が言うと、ノクスの口元がわずかに緩んだ。
「そうだな。人間は成長が早い。今までの剣術が身になっている。
それを一度置いておいて、新しい型を覚えようとしている。熱心なことだ」
そこまで言って、視線が畑から広場の方へ向く。
「今からやる。見てみるか」
「はい。お願いします」
広場に着くと、リナが待っていた。
木剣を手にしている。
いつもの軽さじゃない。目が、真っ直ぐだ。
ノクスが向かいに立つ。
「始めるか」
「うん」
リナが短く返事をした。
二人が向き合い、構える。
その瞬間ノクスの領域が開いた。
俺の肌がひりつく。
空気の密度が変わる。音が少し遠くなるような気がした。
目に見えないのに、ここから内側が決まる。
広場そのものが、ノクスの手のひらになったみたいだ。
リナが踏み込む。
速い。
でも、今までのリナじゃない。
構えも、踏み方も、剣の出し方も違う。
それでも破綻しない。滑らかだ。
だけど。
全部、対処される。
ノクスの領域内にいるんだ。ノクスには全ての動きが見えているだろう。
リナの剣が走るたびに、ノクスがそこにいる。
受け止めるんじゃない。流す。逃がす。
力の通り道を、ほんの少しずらす。
剣先が空を切った瞬間、リナの体勢がわずかに崩れる。
その崩れに、ノクスの一撃が入る。
浅い。
当てるだけ。
「っ……!」
リナの眉が動く。悔しさの色が濃い。
俺は息を止めて見ていた。
力の向きが読める。
踏み込みの重心が、どこへ流れるか見える気がする。
それに、ノクスの動き。
(リナと似てる……)
正確には、リナがノクスの動きを真似しているんだろうが、
それにしたって短期間で、あそこまで
ノクスの剣は踊っているみたいだ。
勝ちに行く踊りじゃない。相手を壊さない踊り。
それでも、押さえつけられてるのはリナの方だ。
何度か打ち合って、リナが一歩引く。
呼吸が乱れている。額に汗。
ノクスが言う。
「今日はここまでだ」
リナは悔しそうに口を尖らせたが、すぐに頷いた。
「……はい」
リナがこっちへ歩いてくる。
「見てたー?ぜーんぜん相手にもならないんだよ」
声は明るいのに、目は笑ってない。
「お疲れ」
俺はそう言うしかない。
リナが頬を膨らませる。
「なんか……動きを読まれてるんだよねぇ。こっちが動く前に、そこにいる」
「ノクスの領域の中だから、動きが全部見えてるんだと思う」
リナは肩を落として、それでもすぐ前を向く。
「それでノクスが対応できないくらい動く、とか思ったけど。難しくてねぇ」
「そりゃ……そうだろ」
でも、そのうちやりそうで怖い
「でもまぁこっちも先が長いよ。お互い頑張ろう」
「そうだねぇ、先は長いねぇ」
俺は頷く。
俺の方は、ようやく白い息が出た程度だ。
リナはもう、新しい型を習得している。
焦りもある。
でも、置いて行かれるだけじゃ終わらない。
まずは領域を広げることと、魔力の濃度を上げること。
領域を纏わせる。
魔力を注ぐ。
狭い範囲から。
やることは見えた。




