81 エルデン
境界をいくつか越えた。
その度に、肌にまとわりつく感覚が変わる。
二つ目の境界を通り抜けたその瞬間。
目の前が、ぱっと開けた。
一面の花畑。
背の低い花が絨毯みたいに広がっていて、蝶がひらひら舞っている。
上を見上げると、光を通さない木々の葉が相変わらず天井みたいに覆っている。
ここに来るまでずっと薄暗い世界だった。なのに、ここだけは違う。
地面が、ほのかに明るい。
咲いている花がぼんやりと光を放って、足元から薄い灯りが立ち上っているみたいだった。
思わず、声が漏れた。
「……幻想的だな」
隣を歩くリナが、同じ方向を見ている……ように見えた。
けれど、返事はどこか曖昧だった。
「……ん?」
俺が顔を向けると、リナは首を傾げる。
「ユウト、今どこ見てるの?」
「目の前の」
言いかけて、止まった。
リナの視線が、俺の指先じゃなくて俺の顔に来ている。地面じゃない。
「……いや。なんでもない」
「なんでもないって顔じゃないよ」
リナは眉を寄せたが、追及はしてこなかった。
そのまま、俺の半歩前を歩き出す。
花の光は、俺の足元を淡く照らしている。
蝶は、ひらひら舞っている。
……なのに、リナは気にする様子もなく普通に歩いている。
(見えてない……?)
喉がごくりと鳴った。
この美しい世界を、俺は黙って通り抜けた。
蝶が肩から離れて、花畑の奥へ溶ける。
花の光が、背後で静かに薄れていく。
そして、また境界を抜けた。
花畑は消えた。
巨木には苔がびっしり貼りつき、見渡す限り色とりどりの緑が重なっている。
薄い霧が出ていて、その緑をぼやかしている。
霧の中に大きな角を持つ鹿がいた。
俺は反射的に、リナの袖を掴んで止めた。
「ちょっと待て」
「え? なに?」
「……静かに」
「はぁ?」
リナは納得してない顔をしたが、足は止めた。
その視線は相変わらず俺に向いていて、霧の中のそれには向かない。
「……なにがいるの?」
「でっかい鹿」
体つきが、でかい。
俺の肩よりも高い位置に角が広がっている。霧を体に纏わせたまま、ゆっくり草を食んでいた。
(……まるで森の主みたいだ)
そう思わせるほど見た目の迫力がある。
近づいても逃げない。こっちを一度だけ見て、また草を食む。
「ユウト、変なこと言う時あるよね」
「……今だけは信じろ」
リナは一拍置いて、頷いた。
「……わかった」
俺たちは、霧の鹿の横を通り過ぎた。
角の影が、俺の視界を横切る。
それでも、リナは何も反応することなく歩き続けた。
その後も何度か境界を通り過ぎた。
そのたびに、俺の目の前の世界だけが違う顔を見せる。
狭い。数十歩で抜ける場所もある。
広く、歩いても歩いても同じ景色が続く場所もある。
リナは、終始ただの森を歩いている顔だった。
疲れた顔はしても、俺みたいに立ち止まったり、見入ったりはしない。
(……俺だけが見えてる)
その感覚が、胸の奥にじわじわ残った。
次の境界を越えた時に、初めて人を見かけた。
あまり見たことのない服。
髪が長い。風が吹いていないのに、髪だけが水面みたいに揺れている。
俺は反射的に声をかけた。
「すみません。エルデンへ行きたいんですが……」
返事はない。
けれど、その人は、ゆっくりと腕を上げて、ある方向を指差した。
「……ありがとうございます」
俺がそう言うも、その姿はずっとその場所に立ち尽くしている。
示された方向へ、歩き続ける。
近づいているのかどうかは分からない。分かる材料がない。
……しばらくして、俺はぽろっと口に出してしまった。
「さっきの人って、どこに住んでるんだろうな」
「え?」
リナが即座に返した。
「……なんのこと?」
話が繋がらない。
リナは本気で分からない顔をしている。
「さっき道を教えてくれた人だよ」
「誰もいなかったけど?」
怪訝な表情で、リナは周りを見回す。
「ずっと森の中歩いてたじゃん」
「……そうか」
俺は指輪に触れた。冷たい。
何も答えない金属の感触だけが、そこにある。
そうしているうちに、視界がひらけた。
樹木の本数が減る。
空が見える。薄い青が、葉の隙間じゃなく上にある。
静かではあるのに、生命の賑やかさがある。
枝の鳴る音、人の気配、遠くの水の音。森の無音とは違う。
遠くを見ると、樹上に家がある。
木と木を渡すように、板の通路が伸びている。
地面にも家が点在していて、煙が細く立っている。
向こうに人影が見える。
今度もリナには見えていないんだろうか。
そう考えていたらリナが、息を弾ませた。
「あそこの人に話しかけてみようよ」
「……そうだな」
俺たちが進むと、声が飛んできた。
「止まれ。何者だ」
正面に一人、姿を見せている。
それとは別に、左右の木陰に気配がある。
位置までは断言できない。ただ、視線が刺さる。
俺は両手を見える位置に上げた。
「ユウト・アマギです」
「こちらはリナ・エルドリック」
リナも同じように手を上げ、短く言う。
「リナ」
正面の男が、もう一度問いただす。
「何用だ」
「精霊の魔法について勉強をしたくて来ました」
男は間を置いた。視線が鋭い。
俺たちの荷物、足元、顔、順に見ている。
「嘘偽りはないか」
「はい」
嘘は言ってない。
精霊が何かは分かっていないけど、知りたいのは本当だ。
男は小さく息を吐いた。
「……わかった。いいだろう」
木陰の気配が、少しだけ緩む。
それでも消えない。
「ついてこい」
案内された先は、樹上だけじゃなく地面にも家がある場所だった。
木の上の通路はしっかりしていて、足を置くたびにきしむが、崩れそうな感じはない。
男は歩きながら言った。
「ここは旅人や迷い人用の仮宿だ。楽にするといい」
「ありがとうございます」
案内された部屋は簡素だが、清潔だった。
床に寝るんじゃなく、ちゃんとした寝台がある。それだけで救われる。
俺は確認のために聞いた。
「ここって……エルデンでいいんですか?」
男は立ち止まり、こちらを見る。
「外の者の呼び方で言えばそうだな。
その認識でも構わないだろう」
男は続けた。
「俺の名前はノクスだ」
「悪いが、よそ者は監視させてもらっている。勝手に動くな」
「わかりました」
勝手に来たのは俺たちだ。文句は言えない。
「食事はこちらで用意する。もう少し待て」
「やったー」
リナが素直に喜んだ。
「干し肉もう飽きた」
俺は苦笑した。
気持ちは分かる。俺も飽きた。
しばらくして運ばれてきた食事は、豆と野菜が中心だった。肉はない。
けれど味付けが複雑で、口に入れると香りが広がる。酸味と塩気が重なる。
(……塩、どうしてるんだろう)
疑問は湧いたが、今は聞かない。
ここでは余計なことを言わない方がいい。
リナはではなく木の匙で勢いよく食べて、頷いた。
「うん、美味しい。肉がなくても、美味しい」
「……それは何よりだ」
ノクスが続けて言う。
「明日は長老のところに案内する。今日はもう寝ろ」
「はい」
「はーい」
リナの返事は軽い。だが疲れている声だ。
久しぶりのベッドに横になる。
体が沈む。布が柔らかい。床の冷たさがない。
(……眠れる)
目を閉じた瞬間、意識が落ちた。




