79 境界
朝が来たようだ。
……明るいわけじゃない。
それでも太陽が出ていることだけはわかる。
「んー……」
リナが寝袋の中で体を丸めたまま、くぐもった声を出した。
「起きろー。そろそろ進むぞ」
「わかってるぅ……」
味気ない保存食を噛む。硬い。乾く。
水をひと口飲んで、簡易テントを畳んで、荷物をまとめる。
(今日はどこまで行けるだろうか)
昨日来た方向を思い出して、体を向ける。
太陽が見えないせいで方角の感覚はほとんどない。
それでも、昨日自分がこっちへ進んだ感覚は残っている。
「おっけー、それじゃ行こっか」
「おう」
森に入って二日目。
昨日もそうだったが、今日もなかなか進まない。
藪はかなり減った気がするのに、地面がずっと湿っている。靴の裏が、ぬるっと滑る。
それでも、歩き続けるうちに生き物の気配が増えた。
枝の擦れる音が多い。小さな鳴き声が、頭の上のどこかから降ってくる。
枝の影から何かが覗いたと思ったら、次の瞬間、ばさばさっと羽音がして消える。
草むらが揺れて、そこにいた何かが奥へ引っ込む。
リナが、その揺れた方向を指差して言った。
「あれ、鳥かな、食べれるかな?」
「……食欲の方向がたくましいな」
「だって、保存食ばっかだし」
それはそう。言い返せない。
歩いているうちに、植生が少し変わってきた。
あれだけあった藪が、ほとんど無くなってきた。代わりに、根が露出している木が増えた。
空気が湿って、服が肌に張り付く。
「……じめじめする」
リナが顔をしかめる。
「湿度、上がってきたな」
足元の土が、ぬかるみ始めた。
靴を置いた場所が、その場でじわっと沈む。歩けば歩くほど、泥が吸い付く。
「気持ち悪いなぁ」
「うん、最悪」
リナも流石に嫌そうな顔をする。
最初の薬草採取の依頼を思い出した。
湿地帯で、泥に浸かりながら草を探したやつ。あの時も、靴が死んだ。
足元からずっと、嫌な音がする。
ぐちゅ、ぐちゅ。
泥が靴を引きずり戻して、歩幅を奪ってくる。
無心で歩き続ける。
休みたくても、休めるような乾いた場所がない。
「もー……靴、新しく買ってよね」
リナが文句を言った。声は拗ねてるのに、目は本気で嫌がってる。
「……本当にごめん」
二人とも、死んだ目になって歩き続けた。
「……そろそろ休もうか」
俺が言うと、リナは即答した。
「休みたい」
だが、まだぬかるんでいる。
座ったら最後、立つのも嫌になるやつだ。
俺は苛立ちを飲み込んで、掌を泥の上へ向けた。
「……ちょっと乾かそう」
「できるの?」
「やってみる」
小さく魔法陣を組んで、炎を飛ばす。
じゅっ、と音がして、泥の表面が一瞬だけ泡立つ。
……それだけだった。
泥は相変わらず、ぬめっと光っている。
「変わんないじゃん」
「……そうだな」
もういい加減、このぬかるみ続きにイライラしている。
俺は一度深く息を吸って、今度は範囲を広げた。
指先で空中に線を引く。魔法陣を大きく展開する。
炎を点じゃなく面に広げる。
熱が地面に叩きつけられて、白い蒸気が一気に立った。
湿った土の匂いが、焼けた匂いに変わる。喉の奥がむずむずする。
勢いを落とすことなく焼き付ける
「うわ、あっつ……」
リナが一歩引く。
「近づくな。火傷する」
泥の艶が消えて、色が少し薄くなる。完全に乾いた。
俺が端を指でつつくと、熱い。かなり熱い。
でも乾いた部分の端から、周りの水がじわじわ滲んでくる。水を吸って、また湿り始める。
「……戻ってくるな」
「泥、しつこい」
「本当にそれ」
俺は場所を少しずつずらしながら、広い範囲を乾かす。
歩けるところを作る。
「よし、これでいい」
俺は靴を脱いだ。
泥まみれの靴下も脱いで、乾いた地面の上に並べる。
「……気分の問題だな」
「気分、大事!」
リナも靴を脱いで、泥を拭いている。
顔は真剣だ。靴への恨みが深い。
どれくらい進んだのか。分からない。
時間の感覚は森の暗さに削られて、距離の感覚は泥に奪われる。
少し仮眠を取ることにした。
背中合わせで座って、目を閉じる。
……じわり。
座ってたお尻の部分が、また湿ってきた。
「うわ……」
「……もう進もう」
「うん」
仕方ない。
早く乾いた地面の上を歩けるように祈るのみだ。
さらに進む。
もう嫌になってきた頃に、地面は少しずつ乾いてきた。
まともな地面を歩ける。最高だ。
「うわぁ……ちゃんとした地面」
リナが感動している。
「普通がこんなにありがたいとは」
俺たちは一度休息をとって、靴を乾かした。
湿った布を絞り、足を拭く。泥の匂いが少しだけ薄れる。
リナが、急に目を輝かせた。
「もう走ろうよ」
「……走れるか?」
「走れるでしょ。今、地面が普通だし」
確かに、ぬかるみでだいぶ遅れをとっている。
「よし。ほどほどの速度で進もう」
「了解!」
走り出す。
遅れを取り戻すかのように、速度を上げる。肺に空気が入る。
泥の中を歩いていた時の、あの重さが嘘みたいだ。
気持ちよく走っていると先行していたリナが、急に立ち止まった。
「ん……?」
首を左右に振って、きょろきょろと辺りを伺っている。
「どうした?」
俺も速度を落として追いつく。
「ん? んー……」
リナは言葉を探すみたいに、唇を動かした。
俺も周囲を見る。
……んん?
なんだ、この空間。
急に、魔力の濃度が上がっている。
空気が重い。肌の表面に、薄い膜が張り付いたみたいな圧がある。
しかも、それはここから切り替わるっていうのが分かる。
一歩手前までは、ただの森だった。
一歩踏み込んだ瞬間から、空気の質が変わった。
明確に、境界がある。
「……なんだこれ」
俺が呟いた。
リナが小さく息を吸う。
「……変な感じ」
俺の指の指輪が、ひやりと冷たくなった気がした。
気のせいかもしれない。けど、皮膚の感覚が妙に敏感になっている。
二人で同じように、きょろきょろと周りを見る。
木々は変わらないように見えるのに、ここだけ違う。
俺は足を止めたまま、静かに言った。
「……慎重に行こう」
リナが頷く。
「うん」




