75 結論
エミルが即座に動いた。
「大家さんを探してきます。少し待ってください」
「頼みます」
エミルが階段を下りていく。
廊下には、妙に静かな時間だけが残った。
リナが俺の袖を掴む。
「ねぇ、やばいやつ?」
「……分からない」
司教は扉を見つめたまま、声を落として言う。
「中を確認する必要がある」
それから少しして、エミルが戻ってきた。
年配の男を連れている。鍵束をじゃらりと鳴らす、目つきの鋭い男だ。
「この部屋の大家さんです」
大家は司教の顔を見て、顔色を変えた。
「……司教様。何の騒ぎです?」
「中の確認をしたい。協力してほしい」
大家は一瞬だけ迷ったが、匂いに気づいたのだろう。口元を押さえて頷いた。
「……分かりました」
ガチャリ。
鍵が回り、扉が開く。
同時に、匂いが廊下へ広がった。
リナが反射的に口を塞ぐ。
「うっ……」
俺は一歩前に出て言った。
「先に入ります」
念のため、腰のナイフを握る。
握った手が、汗で滑りそうだった。
室内はリビングとキッチンが一続きになっている。
男の一人暮らしにしては、整頓されていた。床にゴミもない。
匂いは、部屋の奥から強い。
右奥。扉が一つ。開きっぱなしだ。
(あそこだ)
息を浅くして、慎重に進む。
扉の前に立ち、覗き込む。
寝室。
ベッドの上に、男が倒れている。
右手には、血で濡れたナイフ。
首には切り傷があり、そこを中心に血が広がっている。
乾いて黒ずんだ血が、シーツに染み付いていた。
部屋の中は匂いがさらに強くなる。腐臭が、肺の奥まで刺さる。
「……っ」
俺は一歩引き、吐き気を飲み込んだ。
時間が経っているのは分かる。だが、どれくらいかは断定できない。
頭部の腐敗も進んでいて、生前の顔がはっきりしない。
ヒストリックトレースで見た男と一致するかどうかも、俺には判断がつかなかった。
それから入口へ戻り、廊下の空気を吸って言った。
「……中に、遺体があります。司教、確認してもらえますか」
司教の表情が固くなる。
「分かった」
司教が中へ入る。俺も距離を保ってついていく。
寝室で司教は一度、男の顔を見て、静かに言った。
「……ハルトで間違いない」
そして胸元で印を切るような、祈りの動作をした。
短い祈りだ。言葉は聞き取れなかった。
司教は振り返り、少し疲れた表情で向き合った。
「ここまでで十分です。この件は一度こちらで引き取ります。
よくやってくれました。ありがとうございます」
「……承知しました」
エミルが頷く。
司教は続けた。
「教会での全取引は、明日以降通常に戻します。ご迷惑をおかけしました」
「いえ、とんでもありません」
淡々とした声の奥に、疲れが滲んでいた。
「大家殿、しばらく部屋は借りる。教会に戻り人手を連れてくる」
そう言って、司教は大家から鍵を受け取ると、鍵を掛けた。
司教は慌ただしく去っていった。
建物を出て少し歩いたところで、エミルが声をかけてくる。
「お疲れ様でした。……本当に」
いつもの丁寧な口調なのに、声が少し暗い。
「さすがです、と言いたいところですが……」
俺も同じだ。
人が一人死んでいる。それだけで、空気は重い。
エミルが、落ち着かない様子で言う。
「結局全容は分からないままですかね」
エミルは続けた。
「ここまできたらついでに、ハルトさんの資金周りを調べられる範囲で調べてみます。
動機が金なら、痕跡が残っていることがありますから」
「お願いします」
火がついてしまったようだ。エミルは一礼して、商会の方向へ去っていった。
空が赤くなり始めていた。
「……どうだったんだろうねぇ」
リナが小さく言う。
「分からない。……でも、胃がまだ気持ち悪い」
「ね。変な匂い、頭に残る」
「……肉以外がいい」
俺がそう言った瞬間、背後から声がした。
「でしたら、こちらへ」
エミルだった。戻ってきている。
「ちょっと使用人に指示を出してきました」
しかも、何も言ってないのに案内先は魚料理の店だった。
「……え、なんで分かったんですか」
「偶然です。……今日は魚がいい気分かな、と」
エミルはさらりと言う。
仕事ができる男だ。
店は落ち着いていて、香草の匂いが強い。
肉の匂いがないだけで、呼吸が楽になる。
食事が始まってしばらくすると、ようやくリナの肩の力が抜けた。
「うま……」
「うまいな」
「こっち来てよかったことは、美味しいご飯が食べられることかも」
リナが言うと、俺は苦笑した。
「……否定できない」
エミルが小さく笑う。
「教会の処理が落ち着けば、明日夜か明後日の朝には帰れます」
「助かります」
会話は少しずつ軽くなった。
それでも、完全には晴れない。
リナが箸を止めて言う。
「ダンジョンも行けたけど、あんまり深くには行けなかったね」
「上層、狩られてたしな」
「そういえば、王都ってIV級のダンジョンもあるんだよね?」
「金冠迷宮、だったか。掲示板に書いてあった」
「でもさ」
リナが視線を落とした。
「Aランク指定が出たら、戦えないよね」
俺は即答できなかった。
ラツィオで見たものが脳裏に浮かぶ。
あれは魔獣と一括りにしていいものじゃない。災害だ。
エミルが興味深そうに聞いてくる。
「そんなに凄いんですか? Aランクは」
俺は箸を置いて、静かに言った。
「……街が滅びる、って言葉が冗談に聞こえなくなる」
リナが頷く。
「うん。あれは、街が滅ぼされるよ」
「……怖いですね」
「怖い。でも」
リナが、少しだけ唇を尖らせた。
「次は行けるし、切れる」
自信というより、意地だ。
この数日でリナの剣筋は明らかに冴えている。切れなかったものが切れている。
(何なんだよ、その成長速度……)
俺は内心で頭を抱えた。
「リナが良くても、俺が足手纏いだからな」
「ユウトも頑張ってるじゃん」
「……あの、どかーんみたいなの、また出せれば話は別なんだけど」
リナが目をぱちぱちさせる。
「あれね」
「いや、分かんないんだよ。本当に」
エミルが笑ってしまった。
「どっかーん、ですか?」
「違う。どかーん」
「どっちでもいいよ」
とツッコミを入れると
リナが吹き出す。
「ぷっ……」
笑ってしまうと、空気が少しだけ軽くなった。
翌朝。
エミルと落ち合うと、彼は開口一番で言った。
「ハルトさんの資金調査の結果が出ました」
仕事が早い。
「ハルトさんの資金調査の結果ですが、酒とギャンブルで借金をしていたみたいです。
額としては金貨二百枚分ほど。ただ、一ヶ月前には全て完済されていたようです」
俺は眉をひそめる。
「……一ヶ月前」
「はい。あと、冒険者ランクはDだそうです。
冒険者の仕事だけで返すのは難しいでしょうね」
会話が途切れる。
俺たちは教会へ向かった。
執務室でシグリッド司教が迎える。顔色が一段悪い。
「やぁ。みなさん、昨日はどうもありがとうございました」
「……いえ」
司教は続ける。
「ハルトの件だが、こちらで調査したところ少なくない借金があったようだ
リーネからも借りていた形跡がある。結婚資金を稼ぐために手を染めた可能性が高い」
こちらも情報を調べるのが早い。
「それと、部屋から地下倉庫の鍵の複製が見つかった」
俺の背中が冷える。
「……複製」
「現時点では、単独で動いていた線が濃い。
だが、被害額が大きい。私も何らかの処分は免れないだろう」
司教がそう言った時、リナが小さく聞いた。
「ところで……リーネさんは?」
司教の目が、ほんの少し揺れた。
「……リーネは心が弱っていたのでしょう。あのあと目を覚ましましたが
悪魔に憑かれてしまったようです。我々が気づいた時には、自ら命を絶っていました」
空気が止まった。
「……そんな」
リナの声が震える。目が潤んでいる。
俺も、何も言えなかった。
口を開けば、場違いな言葉しか出せそうになかった。
司教は静かに頭を下げる。
「……すまない」
誰に向けた言葉か分からない。
それでも、重い。
俺たちは言葉少なめに挨拶をして、その場を辞した。
エミルは商会の仕事へ戻るようだった。
表情は暗い。昨日よりも、ずっと。
教会を出て、どこへ行くでもなく歩き出す。
王都の街並みは美しいのに、今日は色が薄い。
リナがぽつりと言った。
「リーネさん、可哀想だったね」
「……そうだな」
「考えすぎても良くないよ」
「ほら、眉間にシワ寄ってる」
昨日、ダグにも言われたやつだ。
リナが真似してるのか、素で言ってるのか分からない。
「……そうだな」
考えすぎても仕方がないが、無駄に考えてしまう。
1人だけ今回の事件のシナリオを描ける人間がいる。
シグレッド司教
彼であれば今回の件をうまく誘導できただろう。
リーネもハルトも、もう話すことはできない。
考えが浮かんだ瞬間、俺は首を振った。
これこそ余計なことを考えすぎだ
俺は深呼吸して、リナの方を見た。
「……甘いものでも食べに行くか」
リナが少しだけ笑った。
「うん。甘いの、食べよ」
俺たちは足を揃えて歩き出した。
重いものを抱えたままでも、今は前に進むしかなかった。




