64 罠
カニの匂いも、煤死神の煤の匂いも、まだ鼻の奥に残っている。
七階層の通路。
煤が薄く舞って、熱いはずの空気が、妙に冷たい。
カイが足を止めた。
いつもの軽口も、笑いもない。
眉間に指を当てて、数秒黙る。
(……考えてる)
その沈黙が、嫌な予感を呼び起こす。
カイが、ぽつりと言った。
「……撤退するか」
「え?」
予想外すぎて、声が漏れた。
撤退。
あのカイが。
リナも目を丸くする。
「帰るの?」
カイは短く頷いた。
「とりあえずな」
リディアが、淡々と続ける。
「判断は妥当。この階層までですでに二体。さっきの白冠と煤死神。……それだけでも多い」
ヴェルドは目を伏せて聞いている。
俺は喉を鳴らして、言葉を選びながら口を開いた。
「確かに……ここまでの階層で、A指定が2体でした。
それに、嵐核ドレイクを見たって報告も……」
言ってから、胸の奥がぎゅっと縮む。
「ダンジョンが昇格したってことなんでしょうか」
カイが真面目な顔で続ける。
「分からんが、普通に考えてこの先に潜ればさらに苛烈になる。戦力不足だ」
「増員が必要です」
ヴェルドは静かにつぶやいた
2人の言葉で、俺はようやく理解した。
(俺たちは……足手まといだ)
リナですら、ここじゃ追いつく側だ。
俺は言うまでもない。荷物を抱えて、転ばないのが精一杯。
リナの表情にも悔しさが滲み出ている。
だが何も言うことはできない。俺たちは弱い。
「じゃあ帰るか」
俺たちの内心を知ってか知らずか、カイが軽い口調で言うと、踵を返す。
それを見て俺とリナも、荷物を抱え直して振り向いた。
その瞬間。
背中の皮膚が、ぞわっと粟立った。
(……違う)
さっきまでの危険じゃない。
もっと生理的な、不気味さ。
空気に、ねっとりと薄い油みたいな膜が張った気がした。
通路の向こうから、足音。
軽い。
散歩でもしてるみたいな歩幅。
灯りの輪の外から、人影が出てきた。
軽装。
荷物は見えない。
あの男だ。
紅蓮回廊で、何度かすれ違った。
マルツェンさんが「怪しい」と言っていた、旅の男。
(なんで、ここに……)
俺の喉が乾く。
でも、反応が一番早かったのは、俺じゃない。
蒼牙隊が、目に見えて警戒した。
カイの足が半歩前へ出る。
ヴェルドの立ち位置が、俺とリナの前に滑る。
リディアは杖を持つ手を上げずに、すでに準備の姿勢になっていた。
男が、俺たちを見つけてにこりとした。
「おや。君たちこんなところまで潜っているのですか」
声は柔らかい。
でも、どこか薄い。温度がない。
カイが即座に言葉を引き取る。
「おい。紅蓮回廊は立ち入り禁止だ。どうやって入ってきた。
入り口に警備も立ってただろ」
(確かに……入口、見張りがいた気がする)
男は首を傾げる。
「そうだったかな。姿は見えなかったが、もしかしたら、休憩中だったのかもしれないね」
軽い言い方。
「嘘だ」と断じる根拠はない。けど、胃が冷える。
カイが一歩詰める。
「そうか、なら教えてやる。今ここは危険地域だ。立ち去れ」
男は両手を軽く上げた。
「いやいや、いいんだ。この先に用事があってね」
「おい、聞こえなかったのか」
カイから、殺気が飛んだ。
空気が重くなる。
さっきの魔獣の圧とは違う、人間の圧だ。
男は困ったように眉を上げてすぐ口元だけで笑った。
「おやおや、困ったねぇ。それともひょっとすると好都合かな?」
そして、楽しそうに言った。
「いずれにしても君たちにこれ以上、魔獣を殺されるのも困るんだ」
(……何、言って――)
男が、指を鳴らした。
パチン。
乾いた音。
その直後。
前方から、空気が裂けるような轟き。
雷の匂い。金属が焼ける匂い。
床が、震える。
後方からは白い圧が、押し寄せた。
白冠グリフォン。
あの白い冠羽。
あの刃の羽。
あの、輪郭の揺らぎ。
そして前方には、さらに巨体。
嵐を抱えたような影。
角のある頭部。鱗に走る青白い光。
息を吐くたび、空気が帯電して髪が逆立つ。
(……なんだこれ)
頭が追いつかない。
操ってるのか?
そんなこと、可能なのか?
考えた瞬間、現実が遠くなる。
(……他人事みたいだ)
男が、口の端だけで笑った。
「どこまで持つかな?」
嵐核ドレイクが、蒼牙隊へ向かった。
カイとヴェルドへ真っ直ぐ。
「散れ!」
カイが吠える。
次の瞬間、ドレイクの爪が岩を抉った。
衝撃で、足元が跳ねる。内臓が揺れる。
ヴェルドが踏み込むが、途中で動きを止めた。
目が、俺らの背後を捉えている。
「煤死神もいるぞ!」
声が、切れていた。
丁寧さが消えている。極限だ。
背筋が凍る。
同時に、白冠グリフォンがこちらへ向き直った。
翼が震え、空気が歪む。
尻尾がしなる。
次の瞬間、爆発。
場所を選ばない。
壁が爆ぜ、床が爆ぜ、天井から岩が落ちる。
「うそだろ……!」
俺は剣を抜いて構えた。
(あの化け物相手に、どこまで耐えられる)
リナが横で、歯を食いしばっている。
「……やるしかない」
リディアの声が鋭くなる。
「二人、私の後ろ! 壁!」
障壁が張られる。
でも安心にはならない。さっき見た。羽一本で岩が砕けた。
カイの叫びが、雷鳴に混じって飛ぶ。
「リディア! グリフォンに鎖! そっから逃げるぞ!」
叫びながら、カイはドレイクの攻撃を捌いている。
捌いているが、余裕じゃない。
巨体の一撃が来るたび、岩が砕ける。
腕が弾かれ、膝が沈む。
カイの足元が、何度も崩れた。
(……押されてる)
ヴァルドも、ドレイクの側面へ入ろうとするたび、空間に線が走って引き戻される。
煤死神の切断現象。
見えた瞬間にはもう遅い。
薄い線が走って、岩がすぱっと落ちる。
リディアは言われるより早く詠唱していた。
短い音。
杖の刻印が淡く光る。
その間に、白冠グリフォンが羽を出現させた。
白い刃が、宙に揃う。
射出。
極限状態で、集中が乱れたか、リディアが張ってくれた障壁はあっさりと砕かれた。
「来る!」
リナが叫んで、羽を叩き落とした。
金属みたいな音。
衝撃が腕に伝わって、リナの肩が揺れる。
「っ、重……!」
羽が岩に当たるたび、轟音。
粉塵が爆ぜる。目が痛い。
その喧騒の中。
旅の男が、こちらへ歩いてきた。
早足じゃない。
急いでもいない。
なのに、近い。
(……何のために)
狙いはリディアか?
そう思った瞬間、俺の身体が勝手に前へ出た。
(止める)
他を見てる余裕はない。
音も、爆発も、羽も、全部、視界から切り捨てる。
この男だけ。
男が袈裟懸けにリディアに斬りかかってきた。
速い。
でも、対処はできる。
俺は横からリディアと男の間に入り込む
ブラムさんの打ち込みが、身体に染み付いている。
俺は下段から切り上げて、弾くはずだった。
……違和感。
互いの剣が交わるのに、衝撃がない。
弾いた感触が、ない。
男の剣が、俺の切り上げる剣を切り込んでくる。
「っ」
死を確信した。
次の瞬間から、世界の動きがゆっくりとした動きへと変化する。
どうなるかまで、見えた。
刃が食い込み、
抵抗もなく俺の剣が、切られていく。
勢いは落ちることなく、俺ごと切り捨てられる。
そして死ぬ。
前にも、こんなことがあった気がした。
小さい頃、山賊に襲われた時。あの終わりが見えた瞬間。
思考だけが、やけに回る。
ギリギリで障壁を張る。
「っ!」
透明な壁が立つ。
でも、男の剣は止まらない。
触れた瞬間、障壁が砕けた。
ガラスみたいに、粉になる。
そして
左腕が、なくなった。
痛みが来ない。
遅れて、熱が抜ける。血が噴く音がする気がする。
男の刃が、そのまま俺の胴を裂いた。
「……あ」
声にならない。
膝が崩れる。
俺は、残る右手で苦し紛れに腰のナイフを投げた。
(せめて)
男は、ハエでも払うみたいに、軽く左手で弾いた。
金属音がして、ナイフが地面に転がる。
(……届かない)
視界の端で、リナが羽を弾き返している。
「ユウト!!」
リナの声が聞こえた気がする。
でも、随分遠い。
リディアが鎖を出したように見えた。
地面に魔法陣。鎖が走り、グリフォンの脚へ絡む。
カイは淡く光っている。
でも、その光が余裕じゃなく、必死に見えた。
ドレイクが吠えるたび、雷の匂いが濃くなる。
空気が割れる。
床が抉れる。
ヴェルドがこちらへ向かってきているのに、途中で止まった。
背後。
煤死神の鎌が、白く浮いた。
「……!」
俺の喉が鳴る。
なんでだろう。
この空間で起きていることが、全て見えているみたいだった。
……いや。
今現在だけではない。
この先のことまで、見えた。
ヴェルドが背後から、煤死神の鎌で切られて倒れる。
リディアが、旅の男に斬られる。
リナが俺の元へ来る。そこを背後から羽が撃ち込む。
ダメージを受けた隙に、男がリナの首を落とす。
最後に残るカイが、物量で押し潰される。
(やめろ)
喉が動かない。声が出ない。
身体が、言うことを聞かない。
どろり、と血が流れていくのが分かる。
痛みはもうない。
(村のみんなに、心配かけるな)
村を出て、一月も経ってないのに。
こんなことになって、ごめん。
そして、セラ。
(……悲しませるかな)
ごめん。
ごめん。
視界が、ゆっくり暗くなった。




