51 研鑽
草原の中に、少女が立っていた。
見渡す限り、地平線まで淡い緑が広がっている。
空はやけに高くて、雲がゆっくり流れていた。
風が吹くたび、草の波がさらさらと揺れて、音だけが世界を満たす。
その中心に、少女がいた。
年齢は、10歳前後だろうか。白いワンピースのようなものを纏っているのに、風で裾がはためいている。
肌は透けるほど白く、髪は淡い青。いや、青というより、春の水面みたいに色が揺れている。
ここはどこだ。
問いかけようとして、息を吸った。
口を開いた。喉を震わせた。
声が出ない。
音にならない。息だけが、静かな空気に吸い込まれていく。
焦って喉に手を当てるが、感触はあるのに、声だけがない。
夢の中で叫ぼうとしても叫べない、あの感じに近い。
少女は首をかしげた。
(……あなたは だれ)
頭の中に直接声が響く
返事をしようとするも、声が出ない。
舌が動かないわけじゃない。言葉の形は作れる。なのに、空気が震えない。
少女は、じっと俺の顔を見ている。
まばたきの間隔がゆっくりで、考えるというより、確かめているようだった。
それから、小さく頷く。
(あなたはね ユウトアマギ)
……なんで。
言ってない。声も出してないのに。
少女は、今度は自分の胸に指を当てる。
(わたしはね アオイ)
彼女の名前が風に乗った瞬間、草原の色がほんの少しだけ鮮やかになる気がした。
アオイ。まるで、この場所の呼び名みたいだ。
(あそんで)
そして、手を差し出してくる。
俺も、引っ張られるように手を伸ばした。
指先が軽く触れる。
「ありがとう」
アオイが言った。
たったそれだけなのに、胸の奥が熱くなる。
言葉が、俺の中に沈む。水に石を落としたみたいに、波紋だけを残す。
「……りがとう」
声が遠ざかる。
世界の輪郭が、ぼやける。
「……がとう」
もっと遠い。
草の匂いが消える。風の音が薄れる。
「……」
アオイの口が動いているのに、もう聞こえない。
彼女の指先が光っているように見えた瞬間――
音が、戻ってくる。
自分の呼吸。
それから、木剣が空気を切る音。規則的で、鋭い。
手足に力が入る。身体の重さが、現実の重さでのしかかってくる。
俺は息を吸い込んで、うっ、と喉を鳴らした。
……声、出る。
「……はぁ……」
ゆっくり上体を起こす。視界が少し揺れて、頭の中が粘ついたみたいに重い。
魔力欠乏特有のだるさだ。筋肉が鉛みたいに感じる。
最後の記憶が、遅れて戻ってきた。
魔石だ。
魔石に魔力を注いで、限界まで追い込んで……。
手の中を見る。鈍色の魔石が、まだ温かい。
そしてほんの少しだけ、青みが差している気がした。
気のせいかもしれない。いや、でも、あの草原の色に似て……。
外から、リナの型稽古の音が続いている。相変わらずキレがある。
その音だけで、彼女の呼吸と重心が分かる。無駄がない。鋭い。
夢の余韻もリナの立てる音と共に消えていった。
現実に思考が戻り、現状の懸念点を考えてしまう。
……このままだと、リナも伸び悩むだろうな。
一人稽古と、俺みたいな格下相手ばかりじゃ。
俺も同じだ。
セラがいないと、魔術の学習は進まない。
セラはいつも一人で研究みたいなことをしてたけど……何をしてたんだろう。
(魔術書でも、買いに行くか……)
気だるい頭でそう考えて、よろよろと立ち上がる。
外に出ようとして、ふと思い出して首を回した。
(……あの夢、なんだったんだ)
夢にしては、妙に手触りがあった。
買い物に行く前に声をかけようとして庭に出ると、リナがまだ剣を振っていた。
初心者が見れば、ただの素振りに見えるだろう。
だが、俺には見える。
剣先の向かう先。
一歩の踏み込みに合わせて変わる間合い。
空気が裂ける場所。そこに敵の姿が浮かぶ。
先日ダンジョンで戦った熔骨オーガが、脳裏にその姿を映し出す。
リナは、そこに向けて剣を振っている。
敵がそこにいるかの様に。いや、リナの中では実際に敵がそこにいる。
俺との訓練中では見なかった、剣さばきも出てくる
無駄のない洗練された動きに目が奪われる。
指先一つにまで気が入っている。
あの動きをされたら俺はすぐに潰されている。
まともに練習の相手も出来ない。
どうしてここまで離されたんだ。
(……やばい)
声をかけようとしていたのに、喉が詰まる。
彼女の集中を乱したくないという理由もあった。……けど、それだけじゃない。
胸の奥がざわついた。
悔しさと、焦りと、嫉妬が、恥ずかしさ。
全部がぐちゃぐちゃに絡まっている。
声をかけることができなかった。
同じように時を過ごしていたと思っていたのに、常に先をいくその才能に。
少しは追いついたと思っていたのに、さらに先に行っていて追いつくことができず。
このままでは取り返しがつかないところまで、離されてしまうのではないか。
偉そうに、子供と思って、成長が鈍るとか俯瞰していた自分が恥ずかしい。
何様のつもりなんだ。
悔しいと思える。羨ましいと思える。
心が熱くなる。
そして、衝動的に走り出していた。
ただ全力で走る。
「……っ、はっ……!」
すぐに息が切れる。喉が焼ける。肺が痛い。
街道の端で立ち止まり、膝に手をついて呼吸を整える。
(……何やってんだ俺)
……思い出した。
以前、セラの戦いを見て、焼き付いた衝撃。
何が起きてるかなんて半分も分かってない。
それでもあの動きに目を奪われた。
あの領域に達したいと思ったんだ。
忘れてた。
金のこと、生活のこと、依頼のことに追われて一番の根っこが薄れてた。
(強くなる)
もう一度、覚悟を決める。
そんなことを考えているうちに、心が少し軽くなった。
視界が晴れて、足取りも戻る。
走ったことですぐに街の中央地区までやってきた。
そしてしばらく歩いていると、街の本屋に辿り着いた。
本といっても、高額なのだ。
冷やかしで入ることはできない。
木の扉を押すと、鈴がちりんと鳴る。
紙とインクの匂い。棚の隙間にたまった埃の匂い。妙に落ち着く。
中には初老の女性が一人、カウンターに肘をついて座っていた。
目が合った瞬間、値踏みするような視線が飛んでくる。
「こんにちは」
俺が礼をすると、女主人はふん、と鼻を鳴らした。
おっと、若いし冷やかしだと思われているに違いない。
「魔術書を探してます。古代語を扱う」
言い終える前に、女主人が手を振った。
「そんなもの無いよ。帰んな」
即答される。
「……では現代語で詠唱するタイプの魔術とか、魔道具の仕組みの本は?」
「無いよ。帰んな」
二連発。
俺はさすがに察して、少しだけ声を落とす。
「……売る気がないってことですか?」
女主人の口角が、ほんの少し上がった。
「少しは頭が回る様だね。分かったら帰んな」
癖の強い店のようだ。
ダメ元で、名前を出してみた。
「……例えば、エドガー・ヴァルテンの、魔道具工学の系譜、その辺の本は……」
その瞬間、女主人の目が鋭くなった。
改めて値踏みする様に、上から下まで睨みつけてくる。
「……その名前、どこで聞いた」
「師匠に教わりまして」
女主人は立ち上がると、しばらく俺を見つめてからふいっと背を向け、奥へ消えた。
店の奥から、木箱を開ける音。紙をめくる音。
(え、出してくれるのか……?)
戻ってきた女主人は、一冊の古い本をカウンターに置いた。
革表紙。金具の留め具。背表紙の文字は擦れている。
「ヴァルテンは無いが、ヘルガ・ノーデ。……これなら一冊だけ、ある」
「……っ!」
ヘルガ・ノーデ。
名前だけ聞いたことがある。百年ほど前の人物で、術式の規格化を整えた学派の中心だ。
セラはこの学派の理論についてはあまり教えてくれなかった。
「少し……中を見てもいいですか?」
「汚すなよ。破いたら指一本で済むと思うな」
物騒な脅しに頷きつつ、俺は慎重にページをめくる。
文字が細かい。図が多い。杖内部の刻印経路
魔力の流路、詠唱を鍵にして術式を呼び出す構造。
この間、魔術に使う杖を見せてもらったけど、これの応用かもしれない。
(……やばい。面白い)
背筋がぞわっとした。知りたい、という欲が脳を焼く。
「……ちなみに。いくらですか?」
女主人は、ためらいなく言った。
「金貨200」
「に……にひゃく……?」
声が裏返りかけた。
女主人は肩をすくめる。
「当時物だ。安い方だよ」
「……すみません。予算、金貨50が限界です」
俺の財布には金貨はある。けど金貨200枚は流石にない。
女主人は俺をじっと見て、それから短く笑った。
「正直だね。……まあいい。坊主、金が貯まったら来るんだね」
本を引っ込めながら、そう言った。
「頑張って稼ぎます」
店を出ると、空気が少し冷たく感じた。
セラの家って普通に本がいっぱいあったけど
あれって全部でいくらくらいなんだ。
現実を知って恐ろしさが増してきた。
本は買えなかったが仕方がない。
市場で食材を買って帰ることにする。
野菜、肉、卵。保存が利くもの。あとリナ用に、甘い串団子も一本。
何にしようか棚を見ていると、不意に頭を撫でられるような感触があった。
「……っ」
びくり、と肩が跳ねる。
振り返るが、誰もいない。人の流れはあるのに、今の感触だけが不自然だ。
風……か?
いや、風にしては、指先みたいだった。
(……アオイ?)
口に出しかけて、やめた。
あれはただの夢だ。
荷物を抱え、家へ戻る。
家に帰ると、リナが玄関近くで腕を組んで待っていた。
「遅い。どこいってたの。もー」
「……悪い。本屋」
「本屋? ご飯より本なの?」
「食料も買ってきたよ。」
「ふーん。で、本は買えたの?」
「買えなかった。金貨200って言われた」
「にひゃく!? 本ってそんなにするの!? 」
俺が台所に荷物を置くと、リナは串団子を見つけて目を輝かせた。
「なにそれ」
「熱心に剣を振ってたからな。ご褒美」
「え、うそ、最高」
単純で助かる。
「今から晩御飯作るから、ちょっと待ってろ」
「はーい。……って、ユウト。顔色、まだ白いよ? 倒れたんでしょ。無理しないでね」
不意に真面目な声になって、少しだけ胸が痛む。
「大丈夫。向こうじゃ1日おきにやってたし」
今日は野菜炒めだ。
セラの家でもよく作っていたメニュー。切って、炒めて、塩と香草でまとめる。
慣れない食材でも、野菜炒めなら何とかなる。
「お、見た目はおいしそう」
「味も悪くないはずだ」
リナが笑いながら箸を伸ばす。
「……うん。おいしい」
食べ終わると、腹の底から少し力が戻った。
身体が温まって、気持ちが落ち着く。
「で、これからどうすんの?」
リナが団子をかじりながら聞いてくる。
「復習も兼ねて、独学で魔術の研究。と剣の稽古。剣の師匠は誰か探してもいいかもなf」
「おー。いいね。じゃああたしは剣の師匠が見つかるまで外で型稽古。ユウトは倒れない程度にね」
「……分かってる」
食後の片付けも終わると
俺はもう一度前に進むために机に向かった。




