122 クロハ
随分と長く寝ていた気がする。
目を開けると、身体が少し、軽い。
左腕は鈍い痛みが残っているが、昨日みたいな動けないほどの痛みではない。
横を見ると、シルヴィが丸くなって寝ていた。
ランタンの灯に照らされた寝顔は、油断しきっていて……思わず、口元が緩む。
「……ふ」
小さく笑った、その音で。
「……あっ」
シルヴィが跳ねるように目を開けた。
それから、俺の視線に気づいて、変な声になる。
「ご、ごめん! 寝ちゃってた……!」
「大丈夫です」
俺は慌てて首を振った。
「……休めたなら、それが一番です。ありがとうございました」
シルヴィは、少しだけ頬を赤くして、視線を泳がせる。
それから咳払いひとつ。
「……じゃ、行こ」
いつもの調子に戻そうとするみたいに、立ち上がった。
「最初に来たところまで戻りましょう」
俺も荷物をまとめる。
「うん。あの……水の壁のところ、ね」
シルヴィは歩き出しながら、声を落とす。
歩いても、左腕に痛みは響かない。
ある程度は動けるはずだ。
「魔獣……あの三体だけだといいんですけど」
「……そうだと、いいね」
シルヴィも、同じ温度で返す。
分岐をいくつか越えて、見慣れた地点に戻る。
通路の先。
やはり、水の壁がある。
静かで、厚くて、光を飲むような水面。
「……まだ、ある」
シルヴィが小さく呟いた。
「試します」
俺は息を整えると、領域を薄く広げた。
水の壁の内側へ、侵食するように押し込む。
触れた瞬間。
水面がぶるりと大きく震えた。
「……っ」
思わず足が止まる。
こちらの魔力に反応した。そうとしか言えない揺れだった。
最初に通り抜けた時とは違い、反応が早い。警戒している。
「だめだね」
シルヴィが唇を噛む。
「……ええ。今は無理そうですね」
俺は領域を引いた。
シルヴィは俯いたまま、呼吸を整える。
肩が、ほんの少しだけ震えている。
「シルヴィさん」
俺は声を強くした。
「俺、帰るのを諦めてませんからね」
顔が上がる。
驚いた顔。次に、ふっと力が抜けた顔。
「……うん」
シルヴィは短く頷いた。
一瞬、いつもの揶揄う目になる。
「帰ってからの……ご褒美、何がいいかな?何でもしてあげる」
にやっと笑う。
何でもと言われて一瞬、邪念が入ってしまった。
「あらぁ、お年頃だもんねぇ。変なこと考えちゃった?」
と、ニヤニヤしている
俺は言葉に詰まって、誤魔化すように言葉を発する。
「と、とにかく別のルートを探しましょう」
「はいはい、そうしましょ」
シルヴィは肩をすくめた。
そこからしばらく歩いたが、魔獣は出てこなかった。
地図に書き込みを増やし、分岐を潰し、戻って確認し……。
そして、奥の通路を覗き込んだとき。
「……これ」
シルヴィが、指先で下方を指す。
「下に繋がってるね」
確かに、階段と言うより傾斜のある通路が、闇へ落ちている。
「……どうする?」
シルヴィが不安そうに言葉を吐く。
俺は少しだけ考えてから言う。
「……まだ見ていない場所があります。まずは、残りを全部見ます。
そこで何もなかったら、その時また決めましょう」
「うん」
シルヴィが頷く。
それから数時間は歩いただろうか。
結局、全ての範囲を探索し終わった。
上へ繋がる道は、見つからない。
水の壁は、相変わらず立っている。
下の階層へ行くのもまたリスクがある。
だが決断のタイミングは近い。
思考を巡らせる。
火を起こし、嵐核ドレイクの肉を捌いて焼いた。
焼いている時の音と香りでほんの少し救われる。
「君ってさ」
シルヴィが肉を頬張りながら言う。
「考え込むと眉間にシワ寄るよね」
「……よく言われます」
言い返すと、シルヴィがニヤニヤする。
「リナちゃんに?」
「……まあ、はい」
俺が認めると、シルヴィのニヤニヤが濃くなる。
「ふーん」
意味ありげに伸ばす。
と思ったら、急に真面目な顔になった。
「これから、どうしよっか」
その緩急に、俺の思考が一瞬遅れる。
その瞬間。
「うんうん、どうしよっか」
横から声がした。
背筋が冷たくなる。
鳥肌が一気に立った。
俺でもシルヴィでもない。
しかも、すぐ隣。
反射で息を呑み、腰の剣に手を掛ける。
領域を広げるより先に、まず視線を向ける。
そこには、しゃがみ込む人影があった。
長い黒髪。
身長は俺と同じくらい。
そして頭から左右に、角が生えている。
「……っ」
敵意は、今のところ感じない。
だが、気配に気づけなかった事実に警戒心が解けない。
俺は声を低くする。
「……あなたは、誰ですか」
角の少女は、首を傾げた。
表情は薄い。けれど、目だけがよく動く。
「さぁ。私は誰なんだい?」
逆に問い返してくる声は、落ち着きすぎていた。
「……」
俺は言葉を止める。
問い返しが、場を揺らす。
そこへ、シルヴィが一歩前に出た。
警戒の姿勢は見せるが、声は柔らかい。
「初めまして。私はシルヴィ」
胸に手を当てて名乗る。
「こっちはユウト」
少女は、短く頷いた。
「……うん」
シルヴィが、続ける。
「あなたの名前は?」
少女は、少しだけ考えるように目を泳がせてから言った。
「分からない」
「……いつからここにいたの?」
「分からない」
シルヴィは少し困った顔になる。
「そっか……大変だったね」
そう言って、そっと手を差し出した。
少女は一瞬だけ警戒するように目を細めたが、
次の瞬間、軽く握った。力は弱い。
俺はその間も、少女の動きを見続ける。
シルヴィが、もう一つだけ訊ねた。
「ここに来る前は、どうしてたの?」
「分からない」
即答だった。
シルヴィは、今度は少女の表情を見るように覗き込み、
「……覚えてること、何かある?」
と、声を落とした。
少女は少しだけ視線を上に向けて、ぽつりと答えた。
「気づいたら、ここにいた。……たまに、食べ物をくれる奴がいたんだけど、
最近、来なくなって今はひとり」
俺は、反射で質問を挟む。
ここは曖昧にしたくない。
「その食べ物をくれる人のこと、覚えてますか?
顔とか、声とか。どこから来たとか」
少女は首を振る。
「顔は……見たら分かるけど、他は分からない」
シルヴィが、少女の肩にそっと触れた。
「……お腹、空いてる?」
少女は小さく頷く。
「食べる」
「じゃ、食べよっか」
シルヴィはいつもの調子に戻して笑った。
俺は内心で息を吐く。
肉を焼き直して差し出すと、少女は少し躊躇っていたが、
俺とシルヴィが食べるのを見てから、真似するように口に運ぶ。
「……美味しい」
「そうだ、名前ないと困るよね?つけてあげてもいい?」
シルヴィが俺を見てから少女に目を移す。
俺もつられて少女へ視線を移す。
「……あなたは、それで構いませんか」
押しつけにしたくない。ここだけは確認する。
少女は少し考えてから言った。
「……構わない」
どうしようか。名付けが多くて困る。
長い黒髪の少女。
頭から生えるツノも、黒く艶がある。
「じゃあ」
俺は短く息を吸う。
「クロハ」
黒髪と角。そのままの名だ。
今の彼女がここにいる証拠になる。
「クロハ……ちゃん」
シルヴィが嬉しそうに繰り返す。
「どう? 嫌じゃない?」
少女は一拍置いて頷く。
「それでいい」
「よし」
シルヴィが両手を軽く握って笑う。
「じゃあ、クロハちゃん。よろしくね」
「……うん」
肉を食べ終え、沈黙が落ちる。
俺は、目の前の現実だけを整理する。
また一つ問題が増えた。
クロハの存在をどうしたらいいのか。
獣人などの亜人なのだろうか。
だとすると外に連れ出してから、獣人の国のバルガンに戻してあげたほうがいいか。
やはりここを脱出するのが最優先だな。
シルヴィが俺の横で、静かに息を吐いた。
「……ねぇ、これからどうする?」
俺は二人を見た。
シルヴィ。そして、クロハ。
「まずは、今日は体力を整えて、明日また上の層に行けないか調べましょう」
シルヴィが、ゆっくり頷いた。
「……うん」
それからクロハに向き直り、柔らかく笑う。
「クロハちゃん。しばらく一緒にいよ」
クロハは、少しだけ目を細めた。
「一緒にいてくれるの?」
「うん、一緒だよ」
シルヴィがにこやかに返す。
「うん」
と、クロハも笑顔で返事を返した。




