117 黄昏鯨
リナが、水でできた壁を指を差し込むと、
いつもの軽い調子が消えていた。
「ユウト、これって……」
「……なんだ」
俺も近づき、同じように指先を浸す。
壁を抜ける際のぬるり、とした違和感。
「……この感覚」
喉が乾く。
何度も触ってきた、領域の境目の感触だ。
「黄昏鯨の……領域だ」
「やっぱり?」
リナが眉を寄せる。
背後で、カイが苛立った声を飛ばした。
「おい、どうした。何が言いてぇ」
「……ちょっといいですか」
俺は一歩前に出て、全員の顔が見える位置へ立つ。
蒼牙隊の面々、白梟団、そして白紋連。他に補佐の2パーティがいる。
俺は言葉を選ぶ。
「分かりやすく言うと、この水は黄昏鯨による精霊魔法で現れたものになります。
この水の中は黄昏鯨の領域内。支配下にあります」
カイが腕を組み直す。
「で?」
「領域は、侵食できます」
俺ははっきり言う。
「俺の領域で黄昏鯨の領域を侵食すればその中は水がなくなる……かもしれません。」
デュランが短く頷いた。
「つまり、この壁にぶつけるってことか」
「はい」
俺は息を吸う。
「全員が入る範囲まで領域を広げて、出力を上げる。
境界を押して進めば……水の中を泳がずに、通れる可能性があります」
「可能性、ね」
ヴェルドが冷静に返す。
「確実じゃありません」
俺は即答する。誤魔化さない。
「それと、水の中は黄昏鯨の支配下です。
侵食した後にどのような反応があるか分かりません」
「出口が塞がれてる今、試す価値はあります」
ヴェルドが淡々とまとめる。
「駄目なら泳ぐだけ。損は少ない」
デュランが盾を叩いた。
「よしやろう。準備しろ」
カイが唇の端を上げる。
「面白ぇ。ユウト、やれ」
「……分かりました」
全員で地図を再確認する。
分岐と曲がり角、十四階層への最短。頭に叩き込む。
走れば5分とかからない距離だ
準備が整ったのを見計らって、俺が声を張る。
「行きます! 全員、走る準備!」
「アカネ、こっち!」
クララがアカネの手を引く。
「え、えっ、うん!」
アカネが慌てながらも頷く。
俺は領域を展開した。
広く、薄く、全員を包む。
循環を回し、それから出力を上げる。
空気が冷える。息が白い。
領域の縁に、霜が走った。
「……っ」
リナが肩をすくめる。
領域が水の壁に触れた瞬間
境界が震えた。
圧がぶつかる。
「……重い」
思わず声が漏れる。
でも、押し返す。
出力をさらに上げる。
水の壁が、境界に沿って空間が開いていく
「空いた……!」
誰かが息を呑む声。
水の壁の内側に、進めるだけの空間ができた。
「走れ!」
デュランの号令が飛ぶ。
全員が一斉に駆け出す。
俺は最後尾に回り、遅れがないか目を配る。
領域の縁は、ずっと震えている。
こちらに気づいているのだろう。
「……気づかれます。急いで!」
「分かってる!」
カイの声が返る。
必死に走る。
領域内に多数の足音が響いている。
後衛組の速度が遅く、前衛組からは離されている。
時間が伸びたみたいに感じる。
中々辿りつかない。
早く抜けてくれと祈りながら走る。
その時
背後の領域の縁がの圧迫が強くなると
領域内に何かが入ってきた。
嫌な予感に思わず首だけで振り向く。
「……嘘だろ」
暗い水の壁から、黒い壁みたいな影が突き出ている。
動くたびに水がうねる。
黄昏鯨。
巨大すぎて、その姿の一部しか見えていない。
「っ……!」
後方にいたシルヴィが、それを見て顔色を変えた。
「な、なにあれ……っ」
足がもつれて、転ぶ。
「シルヴィ!」
オスカーの声が前方から飛んだが、距離がある。
俺は迷わず駆け戻り、シルヴィの腕を掴む。
「立て!」
「ちょっと待って、立てない」
声が震えている。腰が抜けている。
前方の先行の前衛組が、水のない空間へ抜けたのを確認した。
そこから先には黄昏鯨の領域が届いていない。
間に合う。
あと一瞬、耐えれば。
俺はシルヴィを引き上げ、お姫様抱っこのような形で持ち上げる。
「走れ!」
誰の声かも分からないが、前方から声が聞こえる
「ユウト!」
リナの声が前から聞こえた。
黄昏鯨が、領域を押し潰すように近づいてくる。
魔力の圧が高まって俺の領域を侵食し始めた。
同時に水の壁が迫ってくる
前方にも水の壁が出現した。
もう逃げられない。
シルヴィを地面へと下ろす。
リナが構わず、水の中に入ってこちらに来ようとしてきた。
俺は十四階層との境に、障壁を展開した。これで壁となってもうこちらへは立ち入れない。
「ちょっと!」
リナが障壁を叩く。
「何してんの!? ユウト!!」
初めて見る顔だ。
あんなに動揺してるリナは、見たことがない。
俺は口を開く。
でも音は、壁と水に吸われて届かない。
必ず戻る。
そう、心の中でだけ言う。
シルヴィが、腰まで水に呑まれて動けない。
俺は抱き寄せる。
「離すな」
「……う、うん……!」
領域を、二人が収まる大きさまで一気に縮めた。
魔力を濃縮する。循環を絞る。
領域の内側から、水が消える。
ぎりぎりの空気だけが残る。
「……ありがとう。でも、どうするの……?」
「分からない。今は動けない。黄昏鯨の圧が、ずっと押してくる」
領域の外側で、水流がうねっている。
黄昏鯨が、ゆっくり近づいてくるのが分かる。
黒い皮膚が、視界いっぱいに迫る。
でかい。
あまりにも。
こちらへの侵入を防ごうとして、
物理的に侵入を防げる障壁を展開した。
その時、障壁に激しい水流がぶつかった。
水流がぶつかり、勢いのまま流されていく。
衝撃で視界が回る。
「――っ!」
領域ごと、持っていかれる。
上下が分からない。暗闇。
時々、何かが障壁に当たる音がする。
「ちょっ……!」
シルヴィの声が漏れる。
彼女は俺の服を掴み、強く抱きついてきた。
衝撃音も無くなってくるが、流されている感覚が続く。
どれくらい流されたのか分からない。
突然、周りが静かになった。
水流の圧が薄い。
黄昏鯨の気配が遠のいた
水の中では無くなったようだ。
俺は障壁を解き、領域を少し広げる。
魔力の反応を探る。
「……近くに、魔獣はいなさそうです」
「……ほんと?」
シルヴィの声がまだ震える。
魔石ランタンを取り出し、明かりをつける。
暗闇が押し返され、石壁が浮かび上がる。
濡れた床と、湿った空気だけが残っている。
「大丈夫ですか?」
「……大丈夫」
シルヴィが、ようやく息を整えた。
「ここは……どこでしょう」
「分からない」
シルヴィも即答した。
「地図、ある?」
「あります」
地図を広げる。
しかし、今見えている範囲だけでは一致がしない。
分岐も目印も足りない。
シルヴィが唇を噛む。
「……少し動くしかないわね」
「はい」
俺は頷き、ランタンを持ち直す。
「少し歩きましょう。足元、滑ります。気をつけて」
シルヴィが、小さく頷く。
「……分かった。生きて帰りましょう」
「はい」
俺は、息を吐いて前を向いた。




