100 トルグ
トルグの門をくぐった瞬間、空気が変わった。
獣人の匂い。毛、革、汗、香草。
そこに混じる、人の多さの気配。足音と視線。
「……見られてるな」
自分の声が、やけに小さく聞こえた。
俺はリナを背負っている。
目立つと言うのはあるがそれだけではなさそうだ。
クロイツが、前を歩きながら振り返りもせず言った。
「気をつけることだ。隙を見せると絡まれるぞ」
「……そんなに治安、悪いんですか」
「この街で人間は目立つからね」
クロイツは淡々と続ける。
「薄く領域を広げておくといい。背中に何か投げられたこともある。背負っていると避けづらい」
胸の奥が、ひやりとした。
俺は頷いて、領域を薄く広げた。
見えるわけじゃない。けれど、背後の気配が少しだけ輪郭を持つ。
歩いているうちに、落ち着いて状況が見えてくる。
見える範囲の通行人は、全員が獣人だ。
狼っぽい者、角のある者、尾を揺らす者。種族は違うのに目だけは似ている。
好奇。
警戒。
それから、露骨な軽蔑。
「……人間は俺たちだけか」
思わず呟くと、クロイツが肩越しに笑う。
「この国はそういう場所だよ」
リナの体が、背中でわずかに揺れた。
起きる気配はない。
「……リナ、苦しくないか?」
返事はない。代わりに、寝息だけが聞こえる。
人通りの多い通りを避け、裏路地へ入る。
壁が近い。匂いが濃い。視線は減ったが、消えない。
ある家の前でクロイツが立ち止まり、ノックした。
短い間のあと、扉が開く。
「さぁ、入ろう」
中に入ると、獣人が一人いた。
太い首。肩幅。額から前に湾曲した角。
こちらをじっと見ている。
クロイツが挨拶より先に言い放つ。
「奥の部屋にベッドがある。その娘を寝かせるといい」
俺は一瞬ためらったが、背中の重みが答えだった。
「……失礼します」
リナを運び、言われた通り奥の部屋へ。
簡素だが清潔な寝台がある。そこに寝かせると、リナは寝返りひとつ打たずに沈んだ。
俺が部屋を出ると、さっきの獣人が低い声で言った。
「……君はクロイツさんの客人だそうだね。俺はボグダという」
「ユウトです。向こうはリナです。……体調を崩して、寝ています」
ボグダは一度だけ奥の部屋の方を見た。
それから、俺の顔に視線を戻す。
その瞬間、クロイツが楽しそうに口を挟む。
「なぜ獣人が人間を泊めてくれるのか、不思議かい?」
俺が口を開くより早い。
「それはね、ボグダ君が困っている時に、私が颯爽と助けたことで恩義を感じているんだよ」
ボグダが鼻で笑って、肩をすくめる。
「旦那。そういうのは、あんまり自分から言うもんじゃないっすよ」
クロイツも笑う。
……仲は良さそうだ。そこだけは嘘に見えないのが腹立たしい。
クロイツは、まるで世間話みたいに言った。
「獣人たちも全てが人間を嫌っているわけではない
個人ベースで言えば仲良くできる。ただ、それが集団になると難しい」
「……そうですね」
俺は曖昧に頷くしかなかった。
ボグダが手を叩いた。
「さ、食事にしよう。腹減ってるだろ」
ボグダが調理を始めると、香りが部屋に満ちた。
焼ける脂の匂い。香草。熱。……腹が鳴りそうになる。
その時、奥の部屋から物音がした。
「……ん」
のろのろした声。
リナがふらっと出てきた。
髪が寝癖で跳ねていて、目だけがやけに冴えている。
「お腹すいたー……。いい匂い……」
(お前、本当に……)
俺は脱力しつつ、安堵もあった。
「おはよう。……ずっと寝てたぞ」
「えっ、そんなに?」
「丸一日は寝てたんじゃないか」
リナは肩を回して、俺の背中を軽く叩いた。
「ごめん。……あ、そうだ。嵐核ドレイクは?」
「……お前が倒した」
俺は淡々と答える。
「精霊化して。一刀で首を落としてた」
リナが目を見開いた。
「え。……あたしが?」
「俺は見た」
「……そっか」
一瞬だけ、リナの表情が固まった。
それでも次の瞬間には、香りに引っ張られて顔が緩む。
「ごはん……」
俺は二人の前に連れていく。
「目を覚ましました。こちらがリナです」
リナがぺこりと頭を下げる。
「おはようございます。……すごくいい匂いがします」
ボグダが口角を上げた。
「はは。今作ってる。ちょっと待っててね」
クロイツが、やけに丁寧に名乗った。
「やぁ、初めまして、リナ君
私はアデル・クロイツというものだ」
リナは俺を見てから、クロイツを見る。
「……クロイツ。……この人?」
「そうだ。前に話したやつ」
クロイツは、まるで面接みたいな口調で続けた。
「今回、ユウトを私の職場に誘おうと思っていてね
一緒に来てもらっているんだ」
リナがぱちぱち瞬きをする。
「えっ。そうなの?」
「……職場見学だ」
俺はすぐに言葉を挟む。
「まだ働くかは分からない」
クロイツはにこにこしている。
脅して連れてきたくせに、その顔を崩さないのが心底嫌だ。
ボグダが鍋をかき回しながら言った。
「まぁ座れ。冷める前がうまい」
料理が並ぶ。
肉料理が中心だ。焼き目が香ばしい。
それと別に、草と野菜を香草で和えた皿がある。穀物の粥みたいなものも。
ボグダは、草と野菜の皿を自分の前に引いた。
肉には手をつけない。
リナが心配そうに首を傾げる。
「……それで足りるの? ボグダさん」
ボグダが笑った。
「人間とは味覚が違うんだ。俺にはこれが最高なんだ」
クロイツが、嬉しそうに補足する。
「ボグダは草食中心の獣人なんだ。だが見てくれ。この焼き加減。味の組み立て
肉を食べないのに、肉を焼かせたら恐ろしく上手い。そうだろう?」
俺は肉を一口食べて、言葉を失った。
「……うまい……」
リナも目を丸くする。
「なにこれ。やば……美味しすぎる……」
ボグダが照れたように鼻を鳴らした。
「気に入ったなら良かった」
リナが箸を止めずに聞く。
「ボグダさん、料理人なの?」
ボグダは少しだけ間を置いた。
「ああ。人間の街で店をやってたことがある」
俺は思わず顔を上げる。
ここは獣人の街だ。
それなのに人間の街で店その言葉が引っかかった。
ボグダは淡々と言う。
「でも、続けられなかった。嫌がらせが増えてな。
続けるのが難しくなった」
クロイツが、すかさず口を挟む。
「自分たちより美味い料理をつくるのが許せなかったのかな。
最終的には政府筋も絡んできてね、私が気づいた時には手遅れだった。
それでボグダは店を畳まざるを得なかった」
ボグダが苦笑して肩をすくめる。
「旦那、話盛ってないっすか」
「盛ってはいないよ。私から見えた範囲ではね」
クロイツは悪びれず続けた。
「私はそのまま居抜きで店を買い取った。そして同じ場所に、同じ看板を出した。
法的に問題ない形でね。結果、嫌がらせをしていた側の店は潰れた。
彼らのような三流はボグダの味には勝てなかった」
ボグダがため息をつく。
「そういう言い方、よくないっすよ。……でも、店は守ってくれた。それは事実っす」
クロイツは満足げに頷いた。
「今は裏方として料理開発に協力してもらっている
君たちのいたノルビアの王都にも、バルガンにも、店を増やしている最中でね」
俺は皿を見つめたまま、静かに息を吐いた。
(……こいつの世界平和は、こういう形なんだな)
リナは何も考えていない顔で、肉を頬張っている。
「うま……しあわせ……」
ボグダが笑う。
「獣人向けの料理は面倒なんだ
草が主食のやつもいれば、土みたいなもんを好むやつもいる。
だが、相手の味覚を想像して作る。……それが楽しい」
クロイツが短く言った。
「天才なんだよ」
ボグダが首を振る。
「やめてくれ。照れる」
そのやり取りが、少しだけこの街の冷たい視線を、遠ざけた気がした。




