『忘却の都市』境界線の向こうへ
そして、その“機会”は、思いのほか早くやってきた。
霧崎に連れられて訪れたのは、都市の地下にある謎の施設。
無機質なコンクリートの壁、低く響く換気音、そして誰もいない静けさ。
まるで映画のワンシーンに迷い込んだような場所だった。
そこで、俺は信じられない話を聞かされた。
最初は、冗談だと思った。いや、思いたかった。
あまりにも現実離れしていて、どこか作り話のように聞こえたから。
でも、霧崎と夏希さんの表情は終始真剣だった。
声のトーンも、言葉の選び方も、どれも嘘をついているようには見えなかった。
話の内容が進むにつれて、俺の中にある感情がふつふつと湧き上がってきた。
——ワクワクしていた。
不謹慎かもしれない。
でも、心のどこかで確かに“物語の中に入り込んだ”ような高揚感を感じていた。
だってそうだろう。
俺はこの都市に来られただけでも、十分に満足していた。
けれど、正直に言えば、あのままではずっと平凡な毎日を繰り返していたと思う。
そんな俺が、今—— この都市の“裏側”に触れようとしている。
しかも、中心にいるのは霧崎と夏希さん。 そして、俺自身。
心が躍らないわけがなかった。
……でも、ひとつだけ、引っかかっていた。
なぜ、俺なんだ?
自分で言うのもなんだけど、俺はただの普通の人間だ。
ちょっとだけ喋るのが得意な、どこにでもいるようなやつ。
話を聞いた限り、外部の人間であれば、俺じゃなくてもよかったはずだ。
むしろ、こんな話を持ちかけられていること自体が、何かの罠なんじゃないかとすら思った。
騙されて、何か悪いことに巻き込まれるんじゃないかって。
……いや、違う。
多分、俺は——怖いんだ。
“普通”から抜け出すのが。
ワクワクしてる? 心が躍る? そんなことを言っておきながら、いざその扉が目の前に現れると、俺は一歩引いていた。
まるで、あのときと同じだ。
親父から与えられた仕事から逃げた、あのときと。
俺はただ、自分が思い描いていた“普通”から外れるのが怖かっただけなんだ。
それに、ようやく気づいた。
霧崎と夏希さんの目を見た。 真剣で、まっすぐで、迷いがなかった。
彼らは本当に俺を信じてすべてを話してくれた。
俺は、あの家を出るときに決めたはずだ。
もう逃げないって。 親父を見返すって。
だから、もう言い訳はやめた。
「……あー、分かったよ。」
照れ隠しのように、わざと軽い口調で言う。
「霧崎はともかく……夏希さんにそんな真剣な顔で見られたら、断れないじゃん!」
夏希さんが、ふっと笑った。 霧崎は、少しだけ呆れたような顔をしていた。
でも、それでよかった。
——ここから、俺の人生は本当の意味で始まった。