─ 消しゴム (2) ─
あくる日。
母は、昨日より更に二十分早く僕を起こしにやってきて、僕は慌ただしく学校に送り出された。「なんでこんなに早いのさ」と母に文句をたれたが、「だって、受験生でしょ。気合入れなさい」
ああ! 聞きたくないことを言う。
教室に入ると、今日は一番乗りだった。
朝日の差し込む誰もいない教室は、空気が明るくて、いい気分のものだ。早く起こされた不機嫌は消えている。
僕は、昨日配られた座席表を鞄から取り出した。折り目の付いた紙を左手に持ちながら新しい席に着く。
窓際から二列目、前から二番目。右は西沢、左は芹、前は岩原、か。どれも僕にとっては新顔だ。
で、後ろは・・・オニオ。はあ、オニオか。
別に嫌ではないけれど、なんでオニオなんだろう。どうせなら健太とか信とか、楽しい奴の方がよかったな。まあ、いいんだけど。でも、ちょっといらいらするんだよな、あいつ。
鞄から真新しい教科書とノートを取り出して、机の中に移していると、「やあ」と声がして振り返る。
オニオだった。
「おはよう」と返すと、彼はにっこりしたが、いつものようになにも話してこなかったので、僕も話さず前を向いた。
だから友達できないんだって!
それから五分ほどの間、教室には僕とオニオの二人きりで、なんだか息が詰まりそうになってきた。なので、僕はまだ開いていない真新しい教科書を引っ張り出して、めくったりしていた。じきに、ぽつりぽつりと人が増えだして、気づけば教室は制服たちで賑やかになっていた。
右隣の西沢は、小柄な色白の娘で、そのどこか日本人形のような端正な顔には見覚えがあった。そうだ、と気づく。卓球部の娘だ。僕の入っているバドミントン部と卓球部は、よく体育館を分け合って使っているので、それで覚えていた。そうか、この娘が西沢か。おとなしそうな娘でよかった。
まずは安心してから、左の芹道子を見る。
背はやや低い。太ってはいないが少しぽっちゃりとした印象。顔は、丸、いや、卵型かな。肌が白く、眼は細く切れ上がっている。前の席の女子と談笑しているその表情は屈託なくて、えくぼが可愛い。中林情報のような、きっつい、印象ではない。
と。
「ねえ。なんで、じっと見てるの?」気づけば、その芹の顔がぐっと僕の方に突き出されている。えくぼは消えていた。
「え」
「見てるわよねえ、さっきから。わたしが席に着いた時から、なんか観察してたでしょ」大きな声ではない。むしろ抑えた口調だ。けれど、その言葉はぐいぐいと僕を圧迫する。「否定してもいいけど。でも、ちゃんと見えていたから。顔を前にしたまま視線だけをこっちに向けて、それを上下に動かしてたよね」
「いや」僕はのけ反りながら、胸の前で手の平を見せるように開いた。そう指摘されれば、確かにじっと見ていたかもしれない。けれど、「あの。でも、それは」
「でも、それは?」
君がきっついかどうかを確かめるためだ、とは言えない。
「それは、なに?」彼女は、机の下から両足を抜いて、僕の方に向ける。身体ごと真っすぐ僕を睨んでくる。「あのね、男が女をじっと見る理由って、二つしかないのよ」
「二つ?」
「よっぽど嫌いか、それとも、よっぽど関心があるか」そして彼女は顔を近づけ、声を落とす。「関心があるの、わたしに? 恋愛感情? それとも、もう一つの方?」と僕の眼をじっと覗き込む。
僕は、あえぐように頭を反らせた。「もう一つ、って?」
「か・ら・だ」
思わず眼を丸くした。なに言うんだ、こいつ。
すると彼女は、すっと顔を引き、「は、冗談、冗談」けらけらと笑う。「でも、女をじろじろ見ない方がいいよ。真面目な話。誤解されるから」そう言って、何事もなかったかのように身体の向きを戻し、前の席の女子との会話を再開した。
僕は、額に滲んだ嫌な汗を、手の甲で拭った。
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