回るコイン、どちらに倒れるか
ハリーポッターが好きだ。
読書は苦手なため、映画だけ観ている。
組み分けという設定にはワクワクする。
ガラの悪い寮が全体の1/4の生徒を内包しているなんて、社会の縮図すぎるだろう。
主人公は主人公らしい寮に入り、主人公らしく学生生活を全うして大人になる。
ひとしきりシリーズが完結すると、主人公らしくない寮にスポットが当てられたスピンオフ作品がつくられるようになった。
最もセンセーショナルなのは、主人公の息子が、例のガラの悪い寮の生徒に組み分けられてしまうことだ。
悪名高さもひとしお、シリーズ通してラスボスだった敵が属していた寮なのである。
多くの作品がこういった展開になっていく。
呪術廻戦では主人公の身体にラスボス級の悪霊が取り憑くのが、なんと物語の始まりである。
敵を自分の中に見たり、立場が入れ替わったりして、その度に観客は大きく揺さぶられることになる。
これはどういうことなのか。
私には、世界が異文化や敵対者と、何とか融和する方法はないか、もがいているように思えてならない。
あるいは過ぎ去った今は無き対立を、後世に引きずらない方法を模索しているようにも感じる。
そもそも対立し、敵対してしまうのはなぜなのか、異なるとはどういうことなのかを、反芻して、思考実験を繰り返しているようである。
「異なる」も「同じ」も、人間が物事を理解したあとに、その情報に蓋をして封をしておく為の、シールのようなものだ。
同じものは一括りに、異なるものは、異なるところだけを切り出しておけば、やはりそれ以外の同じところは一括りにして、置いておける。
脳が楽をするために、壺の中をひとつひとつ見なくて済む工夫である。
そこに、敢えて「異なる」を放り込むというのが、流行りというか、良いフックになるのだろう。
括れないと気持ちが悪くて、蓋ができなくなる。
ダイバーシティとか、もっと脳に負荷をかけようよ、という方向である。
そういう段階に現代がきているというべきかもしれない。
すべての物語が行き着く先は、異物との同化である、というか、情報が増えていくということは、そういうことなのかも。
綺麗に組み分けできるのは、それをよく知らない最初だけなのだ。
それでも、そうしないと情報を理解できないのが、人間なのである。
ものごとを理解するためには、情報を小さく切り分けなければならない。
大きな口の大食漢だって、おちょぼ口の京美人だって、どんぐりの背比べである。
はじめから全体を見られる神の視点は、残念ながら持ち合わせない。
フォークとナイフを上手に使って、口に入るサイズに加工する。
そうして切り分けたステーキを咀嚼し、飲み込む。
胃の中でやっとすべてが集結する。
そこで、はじめて全体が見えてくる。
全体が見えるまで、人間は愚かである。
しかし、どんなに巨大なステーキだって、牛からしたら一部である。
氷山の一角。
もっと多くを知るには、またさらに食べなければならない。
そのガイドとして、物語があらかじめ、情報をサイコロステーキにしてくれている。
それが組み分けなのである。
理解の口径というか、経口というか、よく考えられている。
いや、普通か?
何事も混乱しがちな私からしたら、頭が下がる思いである。
花粉症だし、ここのところ頭が重いのである。