離宮へ
そろそろ帰らないと、家族が心配する。
そうでなくても、婚約お披露目パーティーを勝手に抜け出したので、侍女がレオノーレを探しているだろう。
「ディートハルト、わたくし、そろそろ帰りませんと」
「ダメ」
そう言って、ディートハルトはレオノーレの手を握りしめる。
「門限はとっくの昔に過ぎていますし」
「帰らないで。俺の離宮に行こうよ」
「行きません。帰ります」
「絶対ダメ!」
ディートハルトは外套の頭巾を深く被り、レオノーレを引き寄せて横抱きにした。そして、そのまま廊下に出る。
「ちょっ――」
「レオノーレ、静かにして。ディートヘルムと聖女に鉢合わせたらまずい」
それは確かにまずい。レオノーレはきゅっと唇を閉ざす。
ディートハルトはそのまま外に出て、用意されていた馬車に乗り込んだ。
そして、合図を出すと走り出す。
「ディートハルト、これは、誘拐も同然ですわ」
「うん」
「うん、ではありません!」
無断外泊などしたら、父に怒られるだろう。どう責任を取ってくれるのか。ディートハルトに問い詰める。
「俺、責任を取るよ。一生、レオノーレの面倒を見るから。王宮を飛び出してさ、のどかな田舎町に行って、静かに暮らそうよ」
その言葉に、一瞬ときめいてしまった。
ディートハルトと一緒に、なんの憂いもなく暮らしたい。けれどそれは、夢のような話なのだろう。
田舎での暮らしなど、成立するわけがない。
たとえるならば、レオノーレは温室に咲く花である。誰かの手入れがないと、生きてはいけない。
強くのびのび育つ野生の草花のような暮らしはできないのだ。
「ディートハルト、今からでも遅くありません。馬車を、止めてくださいまし」
「まさか、歩いて家まで帰る気なの?」
「ええ、もちろん」
レオノーレの実家はディートハルトの離宮から徒歩十分ほど。ここから歩いても、三十分ほどでたどり着く。幼少期より行き来した道なので、歩きでも帰宅できるだろう。
「早く帰らないと、叱られてしまいますわ」
「門限を破ったことより、婚約破棄されたことのほうが怒ると思うけれど」
「それは――」
ディートハルトの言う通り、レオノーレの父は激昂するだろう。もしかしたら、暴力もふるってくるかもしれない。
それでも、レオノーレは家に帰らなければならなかった。
いくら言っても、ディートハルトは首を縦に振らなかった。
「ねえ、どうして――?」
「俺、決めたんだ。ありとあらゆる存在から、レオノーレを守るって」
「ディートハルト、お気持ちだけ、いただいておきます。わたくしは、大丈夫ですので」
「大丈夫なわけない! ずっとずっと、レオノーレの心が悲鳴をあげているのが、わかっていたんだ。でも、君がそれでも凜と前を向いていたから、助けられなかった。けれど、もう今は状況が違う。レオノーレはあいつの婚約者でもなんでもない。だから、俺が、守るんだ」
「ディートハルト……」
暗い馬車の中で、ディートハルトの瞳だけがらんらんと輝いている。このままではいけない。そう思ったレオノーレは、ディートハルトの隣に腰掛ける。そして、体を抱きしめた。
「あなたが、わたくしの処遇について、そのように考えていたなんて知りませんでした。その、なんて言ったらいいのかわかりませんが、どうか、思い詰めないでくださいませ」
「そんなことを言って、また、独りで我慢するんでしょう?」
「……」
そうするしかない。だって、レオノーレは貴族の家に生まれた娘だから。
人生が自分のものではないことは、百も承知である。それが、特権階級を持つ家に生まれた女性の定めなのだ。
「レオノーレ、お願いがあるの」
「叶えるかはわかりませんが、聞くだけならいたします」
とんでもないことを言うに違いない。レオノーレは構えつつ、ディートハルトの話に耳を傾ける。
「今晩、レオノーレが家に帰ったら、俺はきっとディートヘルムを殺しに行く。だから、行かないように、見張っていて」
「ディートハルト、あなた、なんてことを……!」
特大のため息がでた。おそらく、冗談ではない。本気なのだろう。
ディートヘルムを殺しに行かれては困る。
レオノーレはしぶしぶと、ディートハルトの離宮へ同行することとなった。
◇◇◇
ディートハルトの離宮は、かつては〝後宮〟と呼ばれ、好色王の名を歴史に残した国王の寵妃が暮らしていた場所らしい。
百名の寵妃が暮らし、千人の使用人が行き来していたという。
現在は、ディートハルトだけが暮らし、三十名ほどの使用人が住み込みで働いている。
ディートハルトはレオノーレが馬車の踏み台に一歩踏み出した瞬間、手を差し伸べる。そっと指先を重ね、ゆっくりと下りた。
手は離されず、そのまま歩き始める。逃げないと言っても、離してはくれなかった。
ディートハルトの離宮にくるのは、久しぶりであった。
そんなレオノーレを出迎えたのは、狐獣人の青年である。
「お帰りなさいませ、ご主人様」
すらりと高い背に、切れ長の目、整った鼻筋に、常に弧を描いた唇を持つ見目麗しい容貌を持つ。名はヴィリ。ディートハルトが五年前に遠征先で拾った、ワケアリの青年である。
「レオノーレ様、おひさしゅうございます」
「本当に」
大きな尻尾をゆらしつつ、挨拶する。
続けてやってきたのは、レオノーレの半身ほどしか身長がない、ドワーフ族の女性。
褐色の肌に、ぱっちりとした大きな瞳、団子鼻に、さくらんぼのような唇を持つ、愛らしい娘だ。エプロンドレスに身を包み、髪を白いボンネットでまとめている。
見た目は十歳前後の少女のようだが、実年齢は二十八歳。立派な成人女性である。
「レオノーレ様! いらっしゃいませ! どうぞ、こちらへ!」
「ネネ、相変わらず、元気ね」
「はい」
他にも、妖精やエルフ族、翼人、人魚など、人間以外の種族が多く働いていた。
彼らはそろって、闇市場で売られていた者達である。
ディートハルトが調査をした結果、組織を解体させ、購入者を取り締まり、故郷がない者たちを離宮で働けるようにしたのだ。
客間に、独りぽつんと取り残される。
テーブルに置かれた紅茶はひとつ。湯気がふわふわと、漂っていた。
ディートハルトは釣った魚に餌を与えないタイプなのだろう。どこかへ行ってしまった。気まぐれなのは、いつものことである。
その隙に逃げようという気は起きなかった。今夜だけは、本気でディートハルトの傍にいないとディートヘルムを暗殺しに行きそうだから。
ネネは風呂を用意してくれた。ありがたく、入らせてもらう。
離宮の自慢でもある、巨大な真珠をくり抜いて作った浴槽は、レオノーレもお気に入りである。湯に浸かると、優雅な気分になるのだ。
「レオノーレ様のお肌は、真珠のように美しいですね」
「ネネ、ありがとう」
浴槽に浸かったレオノーレを、台に上ったネネが手触りのいい布を使って洗ってくれる。
「私の手なんか、農作業で傷だらけなんですよ」
レオノーレを磨くネネの手は、たしかに目に見える傷跡がいくつもあった。
もしも、ディートハルトと一緒に田舎暮らしをするとなれば、レオノーレも同じように手を傷だらけにしながら働かなければならないのだろう。
いきなり、それをしろと言われても、すぐにはできない。
農作業は、未知の世界である。
だからといって、自分にはできないと決めつけるのはよくない。
レオノーレは腹を括る。
「ねえ、ネネ。ここには、畑や田んぼはありますの?」
「はい! ございますよ」
「わたくしも、農作業をやってみたいのですが」
ネネは突然の発言に驚いたのだろう。手にしていた布を、浴槽にぽちゃんと落としてしまった。




