虐げられていた者達
それから約一年。レオノーレはサクラに会うことはなかった。
彼女の世話は、他の者がしているのだろう。そう思っていた。
まさか、その一年後にディートヘルムとの婚約が破棄されるとは夢にも思っていなかった。
そして、目の前で今まで見たこともないほど怒っているディートハルトを、どうなだめたらいいものか。眉間を押さえ、深いため息をつく。
「殺し方は、レオノーレが選んでいいよ。他にも、バリエーションがほしいときは、一生懸命考えるし」
「お待ちになって。誰が、殿下を殺したいと言いましたの?」
「だって、あいつは多くの人の目がある場所で、レオノーレを侮辱した。死に値することでしょう?」
「そんなことをしたら、大変な事態になりますわ」
「ならないよ。だって、公務のほとんどは俺がこなしてきたし、遠征や、民衆の前での点数稼ぎ、夜会に至るまで、ほとんど王太子として活動してきたのも俺だった。もし、あいつが死んだとしても誰にもバレないし、困らないんじゃない?」
それに関しては、レオノーレも返す言葉が見つからない。
身代わりであるディートハルトがなんでもできるからと、ディートヘルムは面倒な公務や執務を丸投げしていた。その間、愛人を囲んで遊んでいたという情報は、レオノーレの耳にも届いている。
「本当、ドのつくクズだよね」
思わず頷きそうになったが、寸前で堪えた。自分の反射神経を褒めたい。
「っていうかさ。レオノーレは婚約破棄されて、ショックなの?」
「え?」
「あんな奴と、結婚したかった?」
「そ、それは――」
ディートヘルムとの結婚については、義務であると割り切っている。
彼女は物心ついた時から、恵まれた環境にあった。
美しいドレスをまとい、贅が尽くされた料理を食べ、絢爛豪華な屋敷に住んでいた。
過不足のない知識や教養を与えられ、魔法も習得できた。
これらは、レオノーレが宰相の娘であり、王太子の婚約者だからこそ受けられた恩恵である。
平民の娘であったならば、レオノーレが得たもののひとつでも、与えられることは難しいだろう。
多くのものを得た代わりに、レオノーレは義務を果たす。
だから、ディートヘルムとの結婚について、個人的に考えたことなどなかった。
婚約破棄すると言われてショックだったのは、これまでの努力が水の泡となってしまったからなのか。
自分の感情ながら、よく理解していなかった。
「レオノーレは、ディートヘルムが好きだったんだ」
「殿下に、個人的な感情を抱くことなど……不敬ですわ」
王族とは個で見るべきではない。国の象徴として、敬い、傅き、忠誠を誓う存在である。
かつてのレオノーレは、そう信じて疑わなかった。
「頭ががっちがちに固いな」
「わたくしは――」
「大丈夫。わかるよ。そうなるように、レオノーレは教育されてきたんだ」
王族の一員になるには、強靱な精神力が必要となる。
一挙一動が注目を浴びるのだ。
もちろん、いいことばかりではない。
醜聞でも起こしたら、国民から叩かれる。貴族からも、顰蹙を買ってしまうのだ。
かつて、不貞を報道されて、自ら命を絶つ王族もいた。それくらい、追い詰められる。
そのため王族になる者は、精神を鍛える教育課程を経て嫁ぐのだ。
レオノーレも、それらを幼少期より受けてきた。表情に乏しく、冷たい女だとディートヘルムに何度も言われるような結果となった。けれどそれも、精神を鍛えていたおかげで、なんとも思わなかったのだ。
しかし精神を鍛えていなかったら、婚約破棄されたあと自我を保てなかっただろう。
ディートハルトはレオノーレの隣に腰掛け、肩を抱く。
「レオノーレはもう、王太子の婚約者ではない。感情は、殺さなくてもいいんだ」
レオノーレの耳元で紡がれるディートハルトの言葉は、悪魔の囁きのようだった。
彼女の王太子の婚約者だった矜持を、するすると解いていく。
「素直に、正直に、思うままに、生きるんだ……」
「ディートハルトは?」
「俺も、これからは好きに生きるよ。だって、レオノーレはもう、あいつの婚約者じゃないわけだし」
その言葉を聞いて、レオノーレはハッと我に返る。
危うく、ディートハルトの言葉に流されそうになっていた。
「ディートハルト、好きに生きるって、どういうことですの?」
「身代わりを辞める」
「は!?」
「だって、これまではずっと、レオノーレがあいつの婚約者だったから特別にしてやっていたんだ」
ディートハルトが大人しく身代わりを務めていたのは、レオノーレのためだった。初めて知る情報である。
「身代わりを頑張ったら、レオノーレが褒めてくれるでしょう? それが、嬉しかったからしていただけ。ディートヘルムを殺してもいいって言ってくれたら、聖女を追放して王太子に成り代わってもいいかな、なんて思っていたけれど。レオノーレはダメって言うし」
「当たり前ですわ!! ただでさえ、ディートハルトはたくさんのものを背負っているのに、人殺しの咎を背負わせるわけにはいきません!」
ディートハルトは目をまんまるにして、レオノーレを見つめている。
「もしも、本当に赦せなくなったときは、わたくしが直接手を下しますわ!」
レオノーレの感情に、炎が灯ってしまった。
腹の底から、怒りがわき上がってくる。
「あの御方、本当にふざけていますわ!! 何が、真実の愛に目覚めた、ですか!! 脳みそには、シロップが詰まっているのではありませんこと? 王妃教育を受けていない女性を妻にして、公務はいったい誰がするとお考えなのかしら? まだ、サクラは子どもで、自分のいる状況でさえわかっていないというのに、妻にするなんて!!」
次から次へと、ディートヘルムを罵倒する言葉が口から吐き出される。
肩で息するレオノーレを、ディートハルトはぎゅっと抱きしめた。
幼子をあやすように、優しく背中を撫でてくれる。
「わたくしも――」
「え?」
「わたくしも、あなたがいたから、殿下の婚約者を、務められたと、思っていますの。上手く、務められていたかは、わかりませんが」
「立派だったよ。誰もが尊敬する、すばらしい女性だ」
「ディートハルト……」
眦に、涙が浮かんだ。
「レオノーレ、本当に、今日までよく頑張った。偉い偉い」
そして最後に、小さな声で「おつかれさま」と言ってくれる。
胸が温かくなり、その身を委ねようとしていたが――次なる一言によって現実に引き戻される。
「それで、いつ殺す?」
レオノーレが盛大にうな垂れたのは、言うまでもない。