追憶――叩かれた頬の痛み
それからというもの、サクラはレオノーレを無視し続けた。
そして、頑なにドレスをまとうこともない。
勘のいいレオノーレは、彼女が〝妃の最上衣〟を貸さなかったので腹を立てているとは思っていなかった。
ディートヘルムと一緒にいる様子を見たらわかる。サクラはディートヘルムに想いを寄せているのだろう。
婚約者であるレオノーレに対しては、複雑な思いを寄せているのかもしれない。
ディートヘルムもまた、サクラに想いを寄せられて悪い気はしないのだろう。顔を見たら、一目瞭然であった。
ディートヘルムは完全に、王太子という立場を忘れている。
いつか注意しなければならない。ずっしりと気が重くなる。
仲のよい侍女にサクラの国について聞いたのだが――彼女の国での十五歳は、まだ親に庇護されるような年齢だという。成人は、二十歳であると。
つまり、サクラの精神は十歳前後の子どもと変わらない。
だから、レオノーレはサクラの態度に腹を立てることはなかった。甥や姪も彼女と同じように不機嫌になったり、反抗的な態度に出たりと、機嫌は安定していない。それと同じだと、思うようにしている。
サクラへは、マントを仕立てて公の場ではまとってもらうようにした。さすがのサクラも、足を出すことを恥とする文化があると知っては、露出し続けることはできなかったのだろう。
ギスギスした関係が続く中で、事件が起こる。サクラが王宮を抜け出し、街に出かけて行方不明になったのだ。
その日は自宅で休んでいたのだが、王宮に呼び出された。
ディートヘルムはレオノーレに出会った瞬間、頬を叩いた。
ばちんと大きな音がなり、頬に鋭い痛みが走る。
サクラがいなくなったのは、レオノーレの監督不行き届きであると、感情を剥き出しにして怒る。
サクラは暇なので街に行きたいと言っていた。そのたびに、治安が安定していないので、しばし待つようにと諫めていたのだ。
けれど、我を忘れているディートヘルムに何を言っても無駄だ。
レオノーレはただただ、黙ってディートヘルムの怒りを一心に受け止める。
サクラは夕方に戻ってきた。
大勢の人達が彼女を囲み、心配したと口々に言う。
サクラははにかみながら、「もうしない」と反省する素振りを見せていた。
誰も、彼女の頬を叩いて怒ることはしなかった。
あっさりと、サクラの勝手な行動は許されてしまった。
遠く離れた場所で、レオノーレはその様子を見つめる。
ディートヘルムに叩かれた頬が、ズキズキと痛んでいた。
もう、これ以上付き合っていられない。自宅へ帰ろうと踵を返したところに、ディートハルトと出会う。
スタンピードの後始末で、地方に遠征に行っていたらしい。
ディートハルトは頭巾を深く被っているが、近くにディートヘルムがいる。見られたらいけないと思い、腕を取って王宮に用意されている私室へと誘った。
ディートハルトは頬を腫らしたレオノーレを、心配する。
自らの膝にレオノーレを座らせ、魔法で氷を作り、冷やしてくれた。
耳元で、誰が叩いたのかと追及される。レオノーレは首を横に振った。
ディートヘルムが叩いたと言えば、ディートハルトの機嫌が悪くなる。それをなだめる気力は、レオノーレに残っていなかった。
けれど、ディートハルトは囁く。頬を叩いたのは、愚兄だろうと。
胸が、ドクンと跳ねた。
幼いころからずっと一緒にいるディートハルトに、隠し事なんてできないのだろう。
彼は言った。「何があったか知らないけれど、レオノーレは絶対に悪くない。悪いのは、ディートヘルムに決まっている」と。
その言葉は、レオノーレが心の奥底で言ってほしい言葉だった。
涙が、ポロポロと零れる。
サクラを子どものようだと思っていたのに、同じくらい、レオノーレも子どもだったのだ。
辛い。あまりにも。
けれど、ディートハルトはレオノーレ以上に辛い人生を送ってきた。彼の前で、不平不満を口にできるはずはない。
幼子のようにしゃっくりあげて泣くレオノーレに、ディートハルトは「ふたりで、夜逃げしない?」と提案する。
頷きそうになったが、思いとどまる。
今、ディートハルトとレオノーレがいなくなったら、王宮は大混乱となるだろう。
ここには、世話になった人もいれば、いい人も大勢いる。彼らを困らせるような事態には、絶対にしたくなかった。
レオノーレは震える声で、「大丈夫」と言葉を返す。
ディートハルトは「また逃げそびれたな」とぼやいていた。
最後に、ディートハルトは「ディートヘルムだと思って、頬を思いっきり叩いていいよ」と真顔で言った。冗談ではない。本気なのだろう。
ディートハルトは数秒俯き、顎を上げた。
すると、顔つきがまったく変わる。
普段はどこか眠そうで、無気力な様子である。しかし、今はどこか傲慢で、人を見下すような雰囲気を漂わせていた。
それは、ディートヘルムがレオノーレに見せる、傲慢な表情であった。
彼はわざと、レオノーレを怒らせるような言動を取る。頬を叩いて、鬱憤を発散させる手助けをしようとしているのだろう。
けれど、レオノーレはディートハルトを叩けるわけがない。完璧な演技で、ディートヘルムにしか見えなくても。
おごり高ぶる態度を見せるディートハルトを、レオノーレは抱きしめた。そして、彼にだけ聞こえる声で、「ディートハルト、ふたりきりの時は、演技なんてしなくてもいいから」と呟く。
レオノーレを抱き返したディートハルトは、かすかに震えていた。