追憶――化け物の嘆き
信じがたい言葉が、聞こえた。王太子ディートヘルムを、殺すと。
ディートハルトを見つめると、虚ろな瞳をレオノーレに向けていた。
「やっぱり、王道の毒殺がいい? それとも、暗殺系? 馬車を細工して事故に見せかけることもできるし、女に溺れさせた挙げ句腹上死なんかもいいよね。大罪をなすりつけて、公開処刑にすることも可能だ」
「あなた、自分が何を言っているのか、理解していますの?」
「わかっているよ」
王太子ディートヘルムを殺すなど、口にするだけでも罪だろう。それがわからないほど、ディートハルトは馬鹿ではない。
「レオノーレに恥をかかせたんだ。絶対に、許さない」
瞳には、野生の獣のような怒りが燃えたぎっている。
久々に、その瞳を見た。
当時は子どもだったので、恐れは感じていなかった。
しかし今は、怒るディートハルトに恐れを感じる。
けれど、レオノーレが彼の衝動的な行動を止めなければならない。
レオノーレの言うこと以外、聞き入れないから。
ディートハルトはどうしてこうも歪んでしまったのか。レオノーレは額に手を当てて、ため息を零す。
王太子ディートヘルムの身代わりであるディートハルトは、たぐいまれなる演技力で長年ディートヘルムの身代わりを務めてきた。
国王陛下でさえも、立派なふるまいをするディートハルトをディートヘルムと信じて疑わないくらい。完璧に、ディートヘルムの言動や振る舞い、表情まで模倣していた。
それだけではない。
危険な目に遭うのも、たいていディートハルトであった。
暴漢に襲われて腹部を刺されたり、致死量の毒を飲まされたり、仕込まれた事故に遭ったり、色仕掛けの罠を仕掛けられたりなど。挙げればキリがない。
そのたびに生死の狭間をさまよっていたものの、見事生還を果たす。
暗殺の報道がされるたびに、ディートヘルムは〝不死鳥の加護を受けた王太子〟と囁かれるのに対して、ディートハルトは裏で〝なかなかくたばらない化け物〟と恐れられていた。
性根が歪んでしまうのも、無理はない。
彼がこうなってしまったのは、レオノーレにも原因がある。
彼女は、化け物を作り出す手助けをしていたのだ。
◇◇◇
ディートハルトとの出会いは、レオノーレが六歳のころだった。
宰相である父が、遊び相手としてレオノーレを王宮へと連れて行ったのである。
レオノーレにとって、ディートハルトとの出会いは衝撃的であった。
散らかった部屋の片隅で、涙目で独りレオノーレを睨みつけていたのだ。
その様子は、覚えがあった。
それは、父親と共に遠乗りに出かけた日――茂みに隠れていた狼と目が合った。
狼は人に怯えて身が竦んでいるのに、ぐるぐると威嚇していた。
その狼は、すぐさま撃たれて死んでしまった。
あのときの狼は、どうやったら救えたのだろうか。レオノーレはずっと考えていたのだ。
本を読んでもらって知ったのだが、狼は非常に臆病な性質をしていると。ちょっとした物音にも敏感に反応し、自己防衛のために襲いかかることがあるらしい。
だから、レオノーレはすぐにディートハルトに声をかけず、独り遊びを行った。
自分はディートハルトに害する存在ではないと、アピールしたかったのだ。
それがよかったのか、ディートハルトはレオノーレに興味を示すようになる。
初めて言葉を交わしたのは、一ヶ月後の話であった。
「お前、何しにここに来ている?」
そんなディートハルトの疑問に対して、レオノーレはあっけらかんとしながら返した。
「あなたに、会いに」
レオノーレの言葉が心に響いたのか、ディートハルトは心を開くようになった。
完全に打ち解けたのは、半月後の話である。
ディートハルトは獣のような目をしなくなり、ごく普通にレオノーレと遊ぶようになったのだ。
このような状態になってから、父親に命じられる。ディートハルトは王太子ディートヘルムの身代わりとなる者。遊んでばかりではいられない。いつもしているごっこ遊びの延長で、王太子のふるまいを身に着けるように誘導しろと言われた。
当時のレオノーレは六歳。父親の言葉を半分も理解していなかった。
けれど、王太子のごっこ遊びをしろという指示は理解できた。
だから、レオノーレはディートハルトと共に、王太子と王太子妃ごっこをして遊んだ。
レオノーレが八歳になったときに、驚くべき打診が王家から届いた。
なんと、レオノーレが未来の王太子妃として選ばれたという。
王太子妃ごっこではなく、本当に王太子妃になるようだ。
けれど、ディートハルトの王太子ごっこは依然として続く。
ディートヘルムは光が当たる中を歩き、ディートハルトは影を歩き続けなければならない。
ずっとディートハルトと一緒にはいられないのだ。
レオノーレの心は、生まれて初めて苦しみを覚えた。
それから一ヶ月後に、ディートヘルムと出会った。
ディートヘルムは明るく、天真爛漫で、多くの人々から愛されている。
あまりにも、ディートハルトとの扱いに差があった。レオノーレは衝撃を受けてしまう。
レオノーレが気づいたのは、それだけではない。
ディートハルトの行う王太子としてのふるまいに、追いついていない。言動はあまりにも幼かった。これでは、身代わりをしたさいに、違和感が生じるだろう。
彼はかなり、甘やかされて育ったのだ。
レオノーレはディートヘルムにも、王太子として正しい振る舞いをするよう進言する。幼少期からずっと、レオノーレはディートヘルムに注意し続けていた。
それゆえに、煙たがられることとなってしまう。
レオノーレ自身も、ディートヘルムの相手をするほど暇ではなかった。王妃教育が始まったのである。
寝る間も惜しむほど勉強に励み、一時間でも暇があれば王宮に行ってディートハルトと会う。そんな暮らしを続ける中で、衝撃的な事件が起こった。
それは、ディートヘルムの代わりに公務をするなかで、ディートハルトが暴漢に腹を刺されてしまったのだ。
生死をさまよい、苦しむディートハルトを前にしたレオノーレはこのままではいけないと思った。
レオノーレは父親に頼み込み、魔法を習い始めたのだ。
すべては、これから先もディートヘルムの代わりに傷つくであろうディートハルトを癒やすため。日夜、勉強をし続けた。
もともと、レオノーレの生まれたカルナー家は魔法使いの血筋である。けれども、魔法は自分で使うよりも魔法使いを雇ったほうがいいという考えだった。魔法を習得しようとしたカルナー家の者は、実に百年ぶりだという。
努力の末に、レオノーレは回復魔法を習得する。
カルナー家の者の先天属性は炎。そのため、炎系の魔法はすぐに使えたが、回復魔法は相性が悪かったのか習得までに時間がかかった。
ディートハルトの苦しむ様子は見たくない。その一心で、レオノーレは打ち込んだのだ。
以降は、ディートヘルムよりも、ディートハルトと過ごす時間が多くなる。
王宮から一歩外にでる公務は、すべてディートハルトがこなしていた。
相変わらずディートハルトは情緒不安定で、レオノーレ以外の者に心を開かない。
このままではいけないと思いつつも、どういう相手をあてがったらいいのかわからなかった。
しだいに、ディートハルトと過ごす時間が長くなる。
ディートヘルムになりきり、王太子としてふるまう彼は立派だった。
それゆえに、本物のディートヘルムに会うと落胆してしまう。
彼は幼少時代から変わらず甘やかされていた。
明るく天真爛漫な性格に加えて、年を重ねるごとに傲慢さもちらつくようになる。
このままではいけない。ディートハルトと同じように、立派な振る舞いをしてもらわなくては。
将来、困るのはディートハルトではなく、ディートヘルムのほうだ。
そんな考えなど気づいていないディートヘルムは、レオノーレを遠ざける。
ふたりの関係は悪化の一途を辿っていた。
レオノーレが十五歳の春に、国中を恐怖へ陥れる事件が起こった。
それは、魔物の集団暴走の発生であった。