変わる状況
バルドゥルはレオノーレのために部屋を用意し、一晩ゆっくり休むように言う。
しばらく独りになりたかったので、ありがたく言葉に甘えた。
ディートハルトは大丈夫だっただろうか。
膝を突いたあと、たくさんの血を吐いていた。
どうしてディートハルトばかり、血を流してしまうのか。わからない。
神は人に対し、平等な試練を与えてくれないのだ。歯がゆく思う。
それにしても、いったい誰が毒を盛ったのか。
レオノーレの一挙一動に注目し、毒入りのスパークリングワインを手に取るように行動していたに違いない。
毒を飲んだのが自分だったら、どれだけよかったのか。
もしかしたら、レオノーレのスパークリングワインにも毒が仕込まれていたのかもしれない。
ディートヘルムが命を狙われていると教えられた日から、レオノーレ自身にも危険が及ぶ可能性について説明はされていた。
だが、今回のように騒動に巻き込まれたのは初めてだった。
もしも、レオノーレも毒を飲んで命を落としたとしたら、婚約破棄されて心中を図ったと推測されるのは目に見えている。
ディートヘルムから婚約破棄されたことによって、レオノーレは暗殺の駒として有効な存在となってしまったのだ。
このまま暗い部屋で考え事をしていても、よくない方向に思考が偏ってしまう。
もう、眠ったほうがいい。
その前に、毒を飲んだディートハルトがどうなったか知りたい。
レオノーレは侍女を呼び、ディートヘルムに扮するディートハルトの容態を聞く。
しばし待つように言われた。ついでに、睡眠薬も頼んでおく。
おそらく、今晩は眠れないだろう。
ディートハルトを想って一晩中祈るのもいい。
ただ、それは意味のないものだ。
祈りが神に通じて叶えられるものならば、不眠不休で祈り続けよう。
けれども、そんな奇跡など起こらない。
祈るよりも、しっかり眠って明日に備えたほうがいい。
こういうときでさえ、レオノーレは冷静だった。
一時間後――侍女が戻ってくる。
「ディートヘルム殿下の容態は、その、あまり、よくないと」
「そう」
毒の特定が難しく、応急処置で処置した解毒薬も効いていないらしい。
意識は戻らず、昏睡状態だという。
「睡眠薬と、湯冷ましです」
「ありがとう」
侍女がいなくなったあと、薬が包まれた紙を開いた。
そのまま口に含もうとしたが、ふと思う。
毒殺騒動が起き、犯人が捕まっていない中で、信用していない他人が用意した薬を飲んでもいいのかと。
湯冷ましだって、危ない。
今晩は、何も口にしないほうがいいだろう。
睡眠薬は枕の下に隠し、湯冷ましは円卓に置かれた花瓶に注いでおく。
ため息をひとつ零し、レオノーレは横になった。
目を閉じても、眠気はやってこない。
こういうことになるならば、睡眠薬を携帯しておけばよかったと思う。
後悔ばかりが募るレオノーレであった。
◇◇◇
結局、一睡もできないまま朝を迎えた。
喉の渇きを覚えていたものの、まだ何も口にする気にはならなかった。
侍女がお茶や朝食を持ってきたが、何もいらないと言って断る。
ディートハルトの容態は、いまだよくないらしい。意識も戻らないようだ。
心配が募るあまり、食欲も失せているのだろう。
空腹感はなかった。
それから二時間後に、ネネがやってくる。ドレスをはじめとする必要な私物を持ってきてくれたらしい。
イルメラも連れてきたようで、鳥かごの中で心配そうな鳴き声をあげていた。
「レオノーレ様!」
「ネネ!」
ディートハルトの暗殺未遂事件を聞いたのだろう。
涙ぐむネネを、レオノーレは抱きしめる。
離宮の者達も、不安な夜を過ごしたことだろう。
ディートハルトは大丈夫だからと励ます。
落ち込んでいる場合ではないのだ。こういうときこそ、しっかり前を見据えていないといけない。
「もう二度と、ディートヘルム殿下の身代わりをさせないように、バルドゥル殿下にお願いしてみます」
「レオノーレ様、どうか、どうかお願いいたします」
ネネは深く頭を下げ、二度と同じような暗殺事件が起きないようにと望んだ。
それから、レオノーレはネネが持ってきてくれたサンドイッチと湯冷ましを口にする。
生き返ったような気分になった。
「そういえば、ネネは誰に呼ばれてこちらに来ましたの?」
「バルドゥル殿下の使者に呼ばれて、参上しました」
レオノーレが朝食を食べなかったので、ネネを呼んでくれたのだろう。
おかげで、レオノーレは自分がすべきことを思い出し、ついでに食欲も取り戻した。
イルメラと触れ合っているうちに、ささくれた心も癒やされる。
お腹が満たされたあとは温かい風呂に入り、しばし仮眠を取った。
二時間ほど眠ったあと、ネネの手を借りて身支度を行う。
いつものレオノーレになったとき、バルドゥルの訪問が告げられた。
長椅子に腰かけ、イルメラを胸に抱いているレオノーレを見て、バルドゥルは目を見張る。
「驚いたな」
「何が、ですの?」
「いや、いつもの君だったから」
落ち込み、憔悴しきっていると思っていたようだ。
「ネネのおかげで、なんとか復活しました。彼女を呼ぶよう手配してくださったようで、心から感謝します」
「ああ、話はそんなところまで伝わっていたんだね」
「ええ」
バルドゥルは苦笑しつつ、長椅子に腰かけた。
「さて、何から話そうか――まずは、聖女サクラについてから話そうか」
「彼女が、どうかしたのですか?」
「誘拐された」
「!」
サクラはディートヘルムと夜会に参加する予定だったが、ディートヘルムが直前になってすっぽかしたらしい。
なんでも、夜会にやってきていた人妻と、お楽しみだったようだ。
そのため、ディートハルトが呼び出され、身代わりを務めることとなったと。
「ディートハルトと聖女サクラの相性は悪く、さらに彼らの喧嘩の事情をディートハルトは知らなかった。会話が成り立たずに、聖女サクラは怒りを覚えて会場をあとにしたらしい」
サクラの取り巻きがあとを追ったものの、ひとりになりたいと言って遠ざけたのだとか。
その後、サクラは行方不明となった。
「現在、騎士隊が勢力をあげて捜索している」
いったい誰がサクラを誘拐したのか。
王太子扮するディートハルトの暗殺未遂事件に続く、騒動となる。
恐ろしい思いをしていないか、乱暴されていないか。レオノーレの胸は、ぎゅっと締めつけられた。
「警備は万全を敷いていたのだが、暗殺事件の調査で聖女サクラがいないという事実に気づくのが遅れてしまい――」
中庭で、靴の片方が発見されたらしい。池のそばに落ちていたので、異世界に帰ったのでは? と予想を立てる魔法使いもいるようだ。
「だが、異世界召喚は一方通行。帰ったとは、思えないのだが……」
さすがのディートヘルムも、サクラが行方不明になったと聞いて動揺しているらしい。
仕事も手に付かない状態だと聞いて、呆れてしまった。
こういうときこそ、毅然としていないといけないのに。
続いて、ディートハルトの容態について報告してくれる。
意識は一度も戻らず、毒も特定できていないようだ。
「生命維持の魔法をかけて、現状を維持している状態だ」
「そう、ですの」
「半年ほどは大丈夫だというが、それ以上は……」
「――ッ!!」
後頭部を鈍器で殴られたような衝撃を覚える。目の前がぐらりと歪み、目眩を覚えた。
これまでディートハルトは何度も暗殺未遂事件に巻き込まれてきた。
けれど、彼は過去の経験からさまざまな対策を行い、乗り越えてきた。
毒に関してもかなり詳しい上に、警戒心は常に高かった。
今回はレオノーレが直接手渡したグラスだったので、その警戒も緩んだのか。
だとしたら、ディートハルトの命の危機は、レオノーレが原因となる。
目の前が、真っ暗になった。
「レオノーレ様!!」
ネネが駆け寄り、体を支えてくれた。我に返ったときには、長椅子に倒れ込んでいた。
イルメラも、心配そうに顔を覗き込む。
バルドゥルはネネに、そのまま傍にいるように命じる。
どくん、どくんと胸が大きく脈打つ。
自分でもありえないと思うくらい、動揺していた。
震える声で、問いかける。
「バルドゥル殿下、ディートハルトを、助ける術は、あるのでしょうか……?」
「今、一生懸命専門家が探している。私達ができることは、待つだけだ」
ディートハルトは生死の境目で苦しんでいる。何もできないまま、状況を見守るしかないらしい。
「レオノーレ嬢、しっかりするんだ。そのように動揺し、落ち込んだ姿など、ディートハルトは望んでいない」
「!」
自分でも、ここまで取り乱すなんてと驚いている。
感情を表に出さないように、教育されていたのに。
どうして?
疑問が浮かんだ瞬間、頭がずきんと痛んだ。思考も、だんだんぼやけていく。
「しばらく、ここで過ごすといい」
「いえ、私はディートハルトの離宮に――」
「離宮は警備体制が怪しい。言っていなかったが、昨晩のワイングラスの中には、君が持っていたものにも毒が入っていたんだ」
「なっ!?」
レオノーレの命も、狙われている可能性があると。
父親である公爵は野心家で、出世のためならば他人をも蹴落とすような男だった。恨みを買っていないとは言えない。
「しばらく、ここで療養するといい。君がしたいと望んでいた家庭菜園も、どこかでできるようにしよう」
それがいいのかもしれない。
そう思った瞬間、イルメラが『ぐるるるる!!』と鳴いた。
レオノーレはハッとなる。ゆっくり休んでいる場合ではなかった。
「いいえ、王宮で、お仕事を手伝わせてくださいませ」
「仕事?」
「はい。こういう状況ですので、人手はこれまで以上に足りていないでしょう?」
「それはそうだが、以前、君は助手を務めるのは嫌だと言っていなかったか?」
「致し方ありません」
「だったら、すぐに手配をしよう」
立ち上がったバルドゥルに、レオノーレは希望を伝える。
「配属先は、ディートヘルム殿下の執務室でお願いいたします」
「ディートヘルム? 私の助手ではなく?」
「ええ。バルドゥル殿下は優秀ですので、助手は必要ないかと」
レオノーレの手が必要なのは、サクラがいなくなってふぬけとなったディートヘルムだろう。
「ディートヘルムは、君にきつく当たり散らす。彼の仕事を私が預かって、ふればいいのではないか?」
「いいえ、ディートヘルム殿下を甘やかしてはいけません。これから、ディートハルトの身代わりもなしに、頑張らなければならないのですから」
「それはそうだが……」
ぼんやりしていた思考が鮮明となる。
自分が今、すべきこともはっきりわかった。
「ディートヘルム殿下を、わたくしが教育しなおします!」




