荒れ狂う感情の波
馬車の中では、気まずい空気がこれでもかと流れていた。
ディートハルトの機嫌が悪いのだ。
機嫌が悪いのに、なぜ隣に座るのか。よく、理解できない。
あえて、反抗の意を示すために傍にいる可能性もある。
ため息を呑み込むと、頭がツキンと痛む。対策として、こめかみを揉んだ。
基本的に、ディートハルトの機嫌がいい日は少ない。普段から、ふてくされているような態度ばかり見せる男なのだ。
けれど、今日はいつも以上に反抗的な態度である。レオノーレがいくら話しかけても、ツンと顔を逸らして返事すらしない。
これまでのレオノーレは、いくらディートハルトが不機嫌でも、根気強くなだめた。
しかしながら、今日の態度はいくらなんでもあんまりである。
おかげで、バルドゥルの前で気持ちを確かめ合うという、恥ずかしい行為までしてしまった。
完全に、ディートハルトのマイペースに巻き込まれてしまったのだ。
婚約破棄されてから、どうも気が抜けている場面が多々ある。気を付けなければならないだろう。
少し、ディートハルトから距離を置いたほうがいいのか。
レオノーレは考える。
幼いころから、レオノーレとディートハルトは一緒に在った。それが当たり前だったのだ。
けれど、これからはそうでなくてはいけない理由はない。
ディートハルトにとって、レオノーレへの感情は雛鳥の刷り込みのようなものなのだろう。
母鳥だと思い込み、餌という名の愛情を受け取ろうと必死に縋る。
レオノーレも、ディートハルトを雛だと思ってあげられるものはすべて与えてきた。
この関係は、王太子の身代わりと、王太子の婚約者という立場があって初めて成り立つものである。
それが崩れた今、一緒にいる理由はない。
今こそ、ディートハルトは独立すべき時なのではないか。レオノーレはそう考える。
レオノーレがいるから、ディートハルトは独り立ちできない。
レオノーレもまた、ディートハルトがいるから自立できないのだ。
ディートハルトを制御できるのは、レオノーレだけ。それも、思い上がりなのかもしれない。
だって、今、レオノーレがいくら優しく声をかけても、ディートハルトの機嫌は直らないのだから。
ディートハルトに聞こえるように、盛大なため息をつく。当然、彼は聞こえないふりを決め込んだ。
こうなったら、本気でバルドゥルのところに手伝いでもしに行こうか。
以前、副官にならないかとも誘われていたのだ。もちろん、断ったが。
そのときのレオノーレは、ディートハルトの傍にいないといけないと、思い込んでいたのだ。
バルドゥルのもとで働き、賃金を得る。
自分で自分を養えるようになれば、それは立派な独立なのではないか。
だんだんと、それでいいのではないかと思い始める。
でないと、レオノーレの中に渦巻くディートハルトへの感情が、暴走しそうで恐ろしかったから。
今も、ディートハルトが背中を向け続けるという状況に、深く傷ついている。
これまでは、こんな感情など抱かなかったのに。
自覚した途端にこれだ。
気持ちが膨らんだ結果、自分が自分でないような愚かな行動に出るかもしれない。
今だって、ディートハルトの背中に拳を叩きつけて、なぜ無視するのだと激昂したい気持ちを全力で抑えつけている。
感情の赴くままに行動した結果、ディートハルトから軽蔑されるかもしれない。
彼から存在を否定されるのは、とてつもなく恐ろしいことであった。
限界は、すでに訪れていたのだろう。それに、気づいていなかっただけで。
ここで馬車を止めてもらって、バルドゥルのもとへ行こうではないか。
そう決意を固めているところに、ディートハルトが囁くように呟いた。
「どうして……」
「え?」
「どうして、バルドゥルの手伝いをするとか、言ったの?」
振り向いたディートハルトの表情は、雨の日に捨てられた子犬のようだった。
彼に対し怒りを感じていたのに、それを目にしただけで許してしまう。
そして、しどろもどろと言い訳した。
「え、それは、あまりにも、バルドゥル殿下が疲れ切っているご様子だったから」
「前に、副官に誘われたときは、断ったんでしょう?」
「どうしてそれを?」
「バルドゥルが、前に話していた。レオノーレに、こっぴどく振られたって」
「そう、でしたのね」
ディートハルトがこれまでになく不機嫌だった理由は、レオノーレがバルドゥルの手伝いを申し出たからだったらしい。
「どういう気持ちの変化なの?」
「バルドゥル殿下の抱える問題のほとんどは、わたくし達が持ち込んだものですから」
「それを、レオノーレが責任を感じて手を貸す理由なんて、まったくないと思うけれど」
「それは、そうですが」
「何か、弱みを握られているの?」
「弱みなんて――」
弱みと聞いてすぐに思い浮かんだのは、つい先ほどのこと。
バルドゥルがいるのに、ディートハルトと私的な会話をしてしまった。
それは、絶対にありえない行為である。
王太子の婚約者時代ならば、絶対にしなかった失敗だ。
それを挽回しようとして、提案してしまったのかもしれない。すべては、無意識下で行われていたものであった。
「やっぱり、何か弱みを握られているんだ」
「へ!?」
「バルドゥルのことを、好きになった? もしかして、あの人のもとに行くつもり?」
「な、何をおっしゃっていますの?」
突然、ディートハルトはレオノーレに抱きついてくる。
あまりの勢いに、心臓が飛び出るかと思った。
「レオノーレがバルドゥルのところに行ったら、殺す。そして、俺も死ぬ」
「は!?」
「レオノーレがバルドゥルのところに行ったら、殺す。そして、俺も死ぬ」
「いえ、聞き返したのではありませんわ!」
レオノーレが自分の思う通りにならないから、殺す。あまりにも物騒だ。幼稚で浅薄とも言える。
抗議しようと思った瞬間、触れ合った頬がじわりと滲んだ涙を感じ取った。
ディートハルトはレオノーレがバルドゥルに好意を抱いていると勘違いし、涙を流しているのだろう。
感情表現が、まるで五歳児である。成人を迎えた男性の情緒とはとても思えない。
けれども、ディートハルトが精神不安定なのは、レオノーレのせいとも言える。
彼が落ち込んだときや、癇癪を起こしたとき、暴れて手がつけられないときは、レオノーレが駆けつけて励まし、思いっきり甘やかした。
そのおかげで、ディートハルトはレオノーレの存在が必要となってしまう。
とてつもない罪悪感に襲われ、彼女もまたディートハルトが必要である現実に悲観する。
その結果、レオノーレも涙を溢れさせ、一緒に泣いてしまった。
共依存、という言葉が頭の中に浮かんだ。
このままではよくない、とも。
けれど、どうすればいいのかまったくわからなかった。
感情は、ぐちゃぐちゃだ。
否。逆に、これまでどうして大丈夫だったのか、疑問に思うくらいである。
それくらい、王太子の婚約者という立場は、レオノーレの精神を正しく、まっとうにするものだったのかもしれない。
その支えがない今、レオノーレの心は盛大にぐらついていた。
バルドゥルの手伝いをすると申し出た件も、そうだろう。ディートハルトの言う通り、一度断ったことを、自分から申し出るのはおかしい。
発言に、一貫性がまったくなかった。
情けなくて、さらに涙が溢れてしまう。
ディートハルトはレオノーレの涙に気づき、パッと離れる。
涙で頬を濡らすレオノーレを見て、ギョッとしていた。
「え、なんで、レオノーレまで泣いているの?」
「自分で自分が、情けなくなったからです」
「どうして?」
これまで、何百、何千と浴びせられたディートハルトの「どうして?」に、レオノーレは丁寧に答えてきた。
けれど、今回ばかりは説明する気にはなれない。
抱え込んだ複雑な感情は、とても言葉にできるものではないから。
「そんなの、ご自分で考えてくださいませ」
「難しいよ。だって、レオノーレ、涙の理由なんて、わかるわけがない」
「それでも、考えてください」
ディートハルトがレオノーレを前に、おろおろしていた。
初めて見る状態だったので、なんだかおかしくなってしまう。
泣いていたのに、笑ってしまった。
「え、泣いているのに笑っているとか、どういう感情? わけがわからないんだけれど」
「わたくしも、そう思います」
「レオノーレがわからないのに、俺がわかるわけないじゃん」
「そうですわね」
いつも、ディートハルトはレオノーレを困らせる存在だった。
だが、初めてディートハルトを困らせた。
そんな些細なことが、どうしようもなく面白い。
そんなレオノーレを、ディートハルトは優しく抱きしめる。
後頭部を大きな手で包み込むように支え、腰にそっと腕を回していた。
それは、これまでのような、縋るような抱き方ではないことに気づく。
まるで大事な存在を抱え込むような、慈しみを感じるものであった。
レオノーレの変化が、ディートハルトにも何か作用したのか。
そうだったらいいなと思いつつ、レオノーレは初めてディートハルトの胸に身を委ねた。
離宮の正門の前に、馬車が停まっていた。
「誰ですの?」
「さあ?」
非常に仕立てのよい馬車なので、おそらく王族か、それに準ずる者か。
問題と共に訪れたような気がして、レオノーレはこめかみを指先で揉む。
「馬車、邪魔だから、ぶっとばす?」
「止めてくださいませ」
その発言が本気だか冗談だかわからなかったが、念のため強く諫めておく。
なんでも、ディートハルトの離宮は何者であっても、入場を許していないらしい。そのため、離宮の前に馬車を停めているのだろう。
馬車から下りて、話を聞かないといけない。
「では、わたくしが」
「待って。誰か下りてきた」
訪問者は何者なのか。
覗き込もうとしたが、ディートハルトに腕を引かれる。
「レオノーレは下がっていて」
「え、ええ」
いつになく真剣な声色に、レオノーレは思わず従ってしまう。
襲撃である可能性もあるのだ。慎重になったほうがいいだろう。
ディートハルトは馬車から下りてきた者を見て、低い声で呟く。
「うわ、最悪」
「どなたでしたの?」
ディートハルトは自分で確認しろと言わんばかりに、指先で示した。
窓を覗き込んだ先にいたのは――聖女サクラであった。




