二律背反
しゃがみ込むレオノーレの肩に、そっと触れる者がいた。
頭巾を深く被る男は、彼女がよく知る人物である。
触れた手が、温かい。
吹雪の中、小さく灯った焚き火のようなぬくもりである。
温かいが――冷えきった手を火にかざしたときのように、じんと心が痛む。
今は、独りでいたかった。
迎えにきてくれた優しさが、今は辛い。
動けなくなっていたレオノーレを立たせ、会場から連れ出す。
ディートヘルムとサクラの婚約に歓喜する人々は、レオノーレがいなくなることを気にも留めていなかった。
男はレオノーレの肩を抱き、廊下を急ぎ足で歩いて休憩室に入る。
頭巾を脱いで、レオノーレを振り返った。
艶のある銀の髪に切れ長の目、アイスブルーの瞳は冷え切った印象がある。閉ざされた形のよい唇は、喋らずとも憤りの感情を漂わせていた。
王太子ディートヘルムとまったく同じ顔をしている彼の名は、ディートハルト。
ディートヘルムの双子の弟だ。
そんな彼が、レオノーレを責めるように問いかける。
「何、この茶番は?」
「存じません。わたくし自身が、いちばん驚いているくらいで……」
ディートハルトはレオノーレをぎゅっと抱きしめる。が、すぐさまその胸を押し返した。
「もう、わたくしは王太子の婚約者ではありませんわ。このような慰めなど、必要ありません」
レオノーレの言葉に、ディートハルトは傷ついたような表情を浮かべていた。
彼とレオノーレの付き合いは果てしなく長い。それは、ディートハルトが生まれた年まで遡る。
二十一年前――国待望の王子が産まれた。しかしながら、王子は双子だったのだ。
双子の王子は、災いの先触れとも言われている。国が凋落する予言だという言い伝えも残っていた。
あとに生まれたほうを殺す。王はそう決定した――が、野心家な宰相が「生かしていたほうが便利かもしれない」と意見したのだ。
王太子ともなれば、時に戦場へ馳せ参じ、時に民衆の矢面に立たなければならない。
それを、本物の王太子にやらせる必要などないのだと、宰相は国王に囁く。
大事な王太子だ。なるべく、危険な目に遭わせたくない。
災いの先触れも気になる。けれど王太子が暗殺されたり、事故に遭ったりするよりはマシだ。
迷った挙げ句、国王はあとから生まれた王子を、王太子の身代わりとして生かすことに決めた。
双子の王子は、ディートヘルム、ディートハルトと名付けられた。
王家の家系図に名が記されているのは、ディートヘルムだけである。ディートハルトは存在しない者として、王子の代わりを務められるよう教育された。
周囲の者達から愛を受け、すくすく育ったディートヘルム。
宰相の手によって英才教育を受け、「お前は王子の身代わりだ。お前自身に価値はない」と悪態を吐かれながら育ったディートハルト。
ふたりが育った環境は、空の雲と地の泥くらい異なっていた。
素直で天真爛漫なディートヘルムと違い、ディートハルトは精神不安定で癇癪持ちの子どもとして育つ。
誰も彼も信用せず、用意した料理をひっくり返したり、教材にインクをぶちまけたりと、やりたい放題であった。
一方で、順調に教育を受けたディートヘルムは品行方正。未来の国王にふさわしい器だと、もっぱら評判であった。
ディートハルトの評価は、下がる一方だったのである。
双子の王子は八歳となった。そろそろ、公務について学ぶ年頃である。
このままでは、ディートヘルムの身代わりなんて務まらないだろう。
ディートハルトに利用価値などないのだろうか。
扱いに困り果てている中で、ディートハルトに劇的な変化が訪れた。
そのきっかけは、未来の王太子妃候補だったレオノーレとの出会いであった。
子ども同士を遊ばせたら、少しは癇癪も減るのではないか。そんな宰相の作戦は、見事功を奏したのである。
そして二年後――王太子ディートヘルムのお披露目があった日、ディートハルトは身代わりを演じた。
騒ぎに乗じて、ナイフを振りかざす者が現れたが、ディートハルトは身代わり。どれだけ傷つけられても、問題なかったのである。
暴漢の出現により、ディートハルトは腹部を二十針縫う大怪我を負った。
この事件が、ディートハルトの身代わりとしての評価をとどまることなく上げていく。
怪我を負ったことにより、悲しんだのはレオノーレひとりだけだった。
他の者達は、ディートヘルムが傷つかなくてよかったと、喜んでいた。
それが幼いディートハルトの心の闇を強くしていたなどと、知る由もなく。
ディートハルトを身代わりとして育てた宰相の働きが評価され、レオノーレは未来の王太子妃として選ばれる。
これ以上ない名誉だと、宰相は自慢げに話していた。
それから、ディートハルトはディートヘルムの身代わりを務めつづけた。
もちろん、どれもこれも順調にこなしていたわけではない。
癇癪や暴力的な性格は、変わっていなかった。
そのたびにレオノーレが呼び出され、ディートハルトの機嫌を直していたのだ。
ディートハルトは、唯一レオノーレの言葉だけ従うのである。
公の場で、仲睦まじい様子を見せなければいけないときは、決まってディートハルトが身代わりを務めた。
レオノーレがディートヘルムにうるさく意見するので、毛嫌いしていたのである。
決まってディートハルトがレオノーレに寄り添い、良好な関係を主張するパフォーマンスを行っていた。
もう、それは必要ない。
レオノーレは生まれて初めて、ディートハルトを拒絶した。
すぐにハッとなる。繊細な彼を、傷つけてしまったのではと。
恐る恐るディートハルトのほうを見ると――彼は笑っていた。
そして、地を這うような低い声で、ありえないことを提案する。
「ねえ、レオノーレ。王太子、殺す?」