牙を剥く
子どもの時は、レオノーレが止めないと収まらないほどの癇癪を起こすことがあった。
けれど、大人になってからは一度もなかったのだ。
いったい、何が起こったのか。不安を胸に、王宮を目指す。
馬車を降りた途端、ディートハルトの近侍が走ってきて、涙目で訴えた。
「レオノーレ様、お待ちしておりました!!」
「急ぎましょう」
「はい」
急ぎ足で、荒ぶるディートハルトがいる部屋に向かった。
扉を叩こうとした瞬間、中からガラスが割れる音が鳴り響いた。
「ディートハルト!!」
問答無用で、扉を開く。内部は花瓶が割れ、テーブルクロスはズタズタに裂かれ、革張りのソファにはナイフが突き刺さっている。
「な、なんてことを!!」
レオノーレの叫びを聞いて振り返ったディートハルトは、額から血を流していた。すぐさまディートハルトのもとへと駆け寄り、額の傷を魔法で癒やす。
「――祝福よ、不調の因果を癒やしませ」
額の傷は、一瞬で塞がった。
「ディートハルト、あなたは、なんてことを……! いったい、何がありましたの?」
「別に、何もない」
どこか、ふてくされたように言う。顔もぷいっとそらされてしまった。
これだけ物に当たっておきながら、何もないということはないだろう。ディートハルトの繊細な心を傷つける出来事が、あったに違いない。
「レオノーレ、もう、ここに来ないほうがいい。頭が、おかしくなる」
「それは、そうかもしれませんが……」
怠惰な王太子に、子どもな聖女に尊敬と敬意が集まるこの場所では、まともな神経を保つことすら困難だろう。
「ディートハルト、離宮に、帰りましょう」
スケジュールを調べたら、夕方から夜会が予定されている。しかしこれは、ディートハルトでなくてもいいだろう。
「わたくしと、野菜の収穫でもいたしません?」
「え、何それ」
「田舎暮らしを、したいのでしょう? まず、農作業の仕方を覚えませんと」
「レオノーレが想像する田舎暮らし、ちょっと想像の斜め上なんだけれど」
「あなたは、どういうものを考えていましたの?」
「普通の、カントリーハウスでの暮らし。でも……農業か。いいかも、しれない」
「でしょう?」
話しているうちに、ディートハルトの表情が和らぐ。あと少しだけ、話したらもとのディートハルトになる。そう思った瞬間、扉が乱暴に叩かれた。
「おい、ディートハルト、そこにいるんだろう!?」
ディートヘルムの声であった。途端に、ディートハルトの表情が引きつる。
返事をする前に、乱暴に扉が開かれた。
「ディートハル――レオノーレ、なんだ、お前もいたのか」
「ええ」
部屋の散乱っぷりには目もくれず、ずんずんと接近してきた。
一応王太子なので、一歩下がって頭を下げる。
「この、クズ野郎が!!」
そう叫びながら、ディートヘルムはディートハルトの頬を殴った。
「――なっ!?」
レオノーレが驚き、瞬きをする間にディートハルトもディートヘルムを殴り返す。ただし、彼は顔ではなく腹部に拳を叩き込んでいた。
「ぐっ――!」
よほどの衝撃だったのだろう。ディートヘルムは床に膝を突き、胃の中のものをすべて吐き出していた。
ディートヘルムのうめき声を聞き、護衛騎士が部屋に押しかける。剣を抜き、切っ先をディートハルトに向けていた。
「レオノーレ!!」
ディートハルトがレオノーレに手を伸ばす。
「げほっ、げほっ……。お、おい、レオノーレ、そっちに行くな! 命令だ!」
ディートヘルムの言葉など、レオノーレの胸には届かない。迷うことなく、ディートハルトのほうへと駆けていった。
ディートハルトはレオノーレの手を握り、露台のほうへと走った。ガラスが割れた戸を蹴破り、外に出る。あっという間に、出入り口は騎士達に囲まれた。
「大人しくしろ!」
「この偽物めが!」
「俺が、偽物だって?」
「違いますわ!!」
レオノーレは悲痛なまでに叫んだ。
「ディートヘルム殿下の代わりに、ディートハルトが暴れ回る魔物と戦っていたことを、お忘れになったのですか!?」
他にも、重要な場で王太子としての務めを果たしていたのは、もれなくディートハルトであった。
涙ながらに訴えたものの、騎士達は誰も態度を改めようとしない。
「レオノーレ、もういい。こいつらには、何を言っても理解してくれないから」
「でも」
ディートハルトはレオノーレを背後からぎゅっと抱きしめ、耳元で囁く。
ここから、飛び降りようと。
露台の下は湖。氷が張っている。そうでなくても、冬の湖に落ちたら無事では済まされないだろう。
目の前には、剣を構える騎士。背後には、凍った湖。
ディートハルトと一緒ならば、別に構わない。もしも、誘われたのが昨晩であれば――であるが。
レオノーレは人生に悲観していなかった。
今、やりたいことがたくさんある。
ネネに農業を教えてもらう約束をしたし、ひとりで着られるドレスを作りたい。飴の作り方を見学したいし、洗濯だってしてみたい。
離宮で生きる術を学んで、ディートハルトとのんびり田舎暮らしをするのが最終的な目標だ。
不幸な状況に酔って、投身自殺をしている暇はない。
「俺、もう無理だ。だから、レオノーレ、お願い。一緒に、死んで……!」
切なげな声で、囁かれる。レオノーレはそんなディートハルトの腕に触れ――思いっきりかぶりついた。
「痛っ!!」
服の上からなので、叫ぶほど痛くはないだろう。
「ここから落ちたら、わたくしが噛みついた百倍は痛いかと」
「それは、まあ、うん」
「馬鹿なことをおっしゃっていないで、お互いに、謝りましょう」
「謝る?」
「そう。兄弟喧嘩を、されていたでしょう?」
レオノーレは双子の王子の暴力沙汰を、兄弟喧嘩として収める作戦にでていた。聡いディートハルトは、すぐに理解を示す。
続けて、レオノーレは目の前の騎士達をジロリと睨んだ。
「室内で剣を抜くなんて、物騒ですわ! 今すぐ、しまってくださいまし!」
その一喝は、騎士達を従わせるほど迫力があった。先ほどまで威勢がよかった騎士達は、剣を鞘に収める。
これも、王妃教育の賜物だ。
何も残っていないと思っていたが、努力の数々が実となって体に溶け込んでいるのだろう。
「さあ、おどきになって。邪魔ですわ」
騎士達が引くと、その先に呆然と佇むディートヘルムの姿があった。
「先に、殿下が謝ってくださいませ」
「は? なぜ、私が謝らなければならない?」
「だって、ディートハルトを殴ったでしょう?」
「こいつが先に、私の身代わりをする中で、サクラに酷いことを言ったんだ!」
ディートヘルムは顔を真っ赤にし、激しく興奮していた。いったい、ふたりの間にどんな会話があったのか。
気になるものの、ディートヘルムとディートハルトは口を閉ざしたまま。
兄弟がにらみ合う中、第三の王族がやってくる。
「うわ、お前ら、何をしているのだ!?」
年頃は三十前後の、褐色の肌に白い髪の美丈夫。彼は騎士団を取りまとめる隊長であり、王弟でもある。
「バルドゥル! こいつが、私の腹を殴ったのだ」
「ディートハルトも、頬を殴られているじゃないか。どちらが先に手を出したんだ?」
「それは――」
「ディートヘルムだな」
「……」
ディートヘルムの沈黙は、肯定を意味することとなった。
「だったら、ディートヘルム。お前が悪い。話を聞くから、こっちに来い」
「でも、あいつ、まだ私に謝っていない」
「ディートヘルムが謝らないから、ディートハルトも謝らないんだ」
ディートヘルムの意見を、正論で却下する。王弟バルドゥルは、極めて公平な男であった。
なかなか去ろうとしないので、ディートヘルムはバルドゥルの手によって最終的に担ぎ上げられた。
去り際に、バルドゥルはレオノーレとディートハルトに片目をパチンと瞑る。あとは任せろと、言っているように見えた。
親衛隊も、バルドゥルに続く。部屋には、ディートハルトとレオノーレだけが残った。
いつの間にか、ディートヘルムが吐き出した物も回収されている。まるで何もなかったかのように、ピカピカになっていた。職人の技なのだろう。レオノーレはしみじみ思う。
「はー、バカらしい」
「本当に」
レオノーレはディートハルトの頬に手を添えて、本日二回目の回復魔法を施す。腫れは、きれいさっぱりなくなった。
「レオノーレ、腕も」
「腕?」
「さっき、噛みついてきたでしょう?」
「服の上からだったので、歯形すらついていないでしょう」
そう言いつつも、袖を捲ってみる。やはり、歯形はまったくついていなかった。
「噛まれた瞬間、なんだかゾクゾクした」
「だって、噛みつく以外に、あなたを止める方法を思いつかなくて」
「おかげで、生きようって、考え直した」
「本当に?」
「本当」
ディートハルトは先ほどの怒りや憂いなど感じられない、明るい微笑みを浮かべていた。咄嗟の方法であったが、効果は抜群だったようだ。
ただ、次なる一言は、まったく予想していなかった。
「だからさ、レオノーレ、もう一回噛みついてみて。今度は、素肌に直接」
「はい?」
「こう、ガブガブと、力強く噛みついてくれたら嬉しい」
「ディートハルト、あなた、何をおっしゃっていますの?」
「だから、さっきみたいに噛みついてって、言っているの」
「お断りいたします」
人を噛む趣味などない。そう主張したが、ディートハルトは逆に癖になってしまったらしい。
「レオノーレに噛みつかれた瞬間、生を強く感じたんだ。だから、お願い」
切なげに言われてしまったら、強く言い返せない。
どうしようか。本当に、噛みつかなければいけないのか。
「レオノーレ、俺を噛んで」
「――っ!!」
懇願するように頼み込まれては、断れない。
腹をくくり、レオノーレは差し出されたディートハルトの腕に噛みついた。
内心、「この野郎」と思いながら、力いっぱい噛む。
「レオノーレ、もっと強く。血が、滲むくらいに」
その要望には応えられない。レオノーレはディートハルトから離れて叫んだ。
「この、変態っ!!」
突然の罵倒だったが、ディートハルトは愛おしげな表情でレオノーレを見つめていた。 ちなみに、ディートハルトの腕にレオノーレの歯形は残っていなかった。筋肉が押し返したのだろう。下手すれば、レオノーレの歯が折れていたかもしれない。ゾッとしてしまった。




