婚約破棄というパフォーマンス
王太子ディートヘルムは、あどけない少女――聖女サクラを胸に抱き、婚約者レオノーレに向かって宣言した。
「私は、真なる愛に目覚めた。悪いが、お前との婚約は破棄し、私は聖女サクラと結婚する!!」
ディートヘルムは結婚一年前に執り行う婚約式で、レオノーレに向かって婚約破棄を言い渡した。
レオノーレは眉間の皺をさらに深め、不快感を露わにしている。
「レオノーレ、お前に選択権はない。これは、決定事項だ」
「なぜ、ここで発表なさったのですか?」
困惑しつつ、レオノーレは問いかける。
衆目の前でする必要はなかったのではと、苦言を呈した。
「多くの人々に、周知したかったのだ。文句がある者は、申し出ろ!」
婚約式に集まった人々は、シンと静まり返っていた。
彼らの背後にいる国王と王妃が何も言わないので、反応できないのだろう。
サクラは、国を救った聖女である。異世界から呼び寄せ、対価を求めることなく平和へと導いたのだ。彼女以上に、未来の王妃に相応しい者はいない。国王と王妃だけでなく、誰もがそう思っているのだろう。
レオノーレは物心ついた時から、未来の王妃となることが決まっていた。
王妹の娘で、血筋は問題ない。それに加えて豊かな教養と気高さ、それから国と国民を愛する心を兼ね備えているものだから、王妃としてふさわしいと誰もが思っていた。
王太子ディートヘルムが婚約破棄を宣言するまでは。
決定はディートヘルムとの婚約破棄だけではなかった。
「サクラはこの先、王妃として苦労するかもしれぬ。だから、お前が侍女として、支えよ」
これも決定だと、ディートヘルムは実に冷たい声で言い渡す。
奥歯を噛みしめるだけのレオノーレを見て、どこか嘲笑っているようにも見えた。
幼い頃から、レオノーレはディートヘルムが立派な王になるべく、一挙一動について諫めてきた。それらをずっと、疎ましく思っていたのだろう。
わかっていたのだが、王族として相応しくない行動を見逃すわけにはいかなかったのだ。
これも、ディートヘルムのため。そう思っていた言動の数々の報復が今、ナイフの切っ先のようにレオノーレの心臓へと迫っていた。
「お前が習った王妃の心得を、サクラに伝授するように。これからは、彼女の影として生きるのだ」
握った拳が、ぶるぶると震えていた。
長年の努力はなんだったのか。怒りが、こみ上げてくる。
しかしながら、レオノーレは感情を表に出さないよう教育を受けていた。きっと周囲からは、無表情に見えているだろう。
「王妃となる女性に仕えることは、とても名誉なのだ。レオノーレ、少しは喜ばないか」
「喜ぶ?」
「そうだ」
冷え冷えとした視線を、ディートヘルムにぶつける。一瞬たじろいだが、サクラにどうかしたのかと聞かれ、レオノーレから目をそらす。
ディートヘルムは、王の器ではない。
何度目かもわからない落胆を、レオノーレは覚えた。
「この瞬間から、サクラを婚約者とする。誰ぞ! レオノーレから〝妃の最上衣〟を剥がせ!」
妃の最上衣とは、王妃と王太子妃、王太子の婚約者の三名のみ纏うことが許された特別なマントである。
足下までも覆うほど長く、前身頃には王家の家紋である竜をイメージした金刺繍が刺されていた。肩は金の房飾りで覆われ、動くたびにシャラシャラと音が鳴った。後身頃には、王家の家紋が刺されている。高貴で崇高、気高さのある装束なのだ。
その、妃の最上衣を新しく王太子妃となったサクラに渡せと言う。
ディートヘルムの命令を聞いた親衛隊が、レオノーレのもとへと集まってくる。
このまま身ぐるみを剥がされるように、妃の最上衣を奪われてたまるものか。
そう思ったレオノーレは、自ら妃の最上衣を脱いだ。そして、片膝を突いて、サクラに捧げるように前に差し出す。
それを見たディートヘルムは、高笑いをした。
未来の王に相応しくない、下品な笑いである。
ここまで、彼の性根は腐っていただろうか? レオノーレは心の中で疑問に思う。
幼いころは明るく天真爛漫で、誰もが愛するような少年だったのに……。そんな嘆きなど、ディートヘルムは知らない。
恋がディートヘルムの心持ちをねじ曲げてしまったのだとしたら、サクラも王妃に相応しくないだろう。
けれど、それを物申す資格などない。レオノーレはもうディートヘルムの婚約者ではないのだから。
一歩、一歩と歩いてやってきたのは、サクラであった。
身をかがめてレオノーレに接近し、耳元で囁く。
「ごめんね、レオノーレ。こういうパフォーマンスはしなくていいってディートヘルムに言ったんだけれど、必要だって言うから」
それは遠回しな嫌みでもなんでもなく、サクラの正直な気持ちなのだろう。
彼女は十六歳の少女。親元から離され、聖女として異なる世界から召喚された。
異世界では、サクラの年頃の娘は結婚適齢期ではなく、親の庇護のもとで暮らしているらしい。
十五で成人と認められるこの国とは、天と地ほども価値観が異なるのだ。
幼い言動についても、何度も目をつぶってきた。
気の毒な娘だと思っていた。その認識は、今も変わらない。
妃の最上衣は、レオノーレの手から取り上げられる。
サクラが手にして、身に纏った。
この瞬間、ワッと周囲の人達が湧いた。
祝福する拍手が鳴り止まない。
地に伏したレオノーレは、吹雪が吹き荒れる雪原に蹲っているのではという気分を、独り味わっていた。