~ 藤 ~
藤の樹の下で、彼を抱いた。
差し伸べられた腕を取り、指を絡め、甘やかな吐息を漏らすその口を吸う。
月明かりを浴びて白く発光するその肌は、どれほどに滑らかなことか。私の手や唇の熱で、ほんのりと薄桃色に染まっていく様が愛おしい。
黒耀の瞳が私を求めて潤んでいる。
伸びやかな下肢が至上の温みへと私を誘い、艶めく声は楽の音にも似て情欲を煽った。
「藤が」
彼の揺れる視界には、満開の藤の花が見えたのだろう。
「藤が?」
「見ている」
「見ているのは、藤だけだ」
私は彼の瞼にそっと手を添え、塞いだ。
歓喜に噎ぶ唇に唇を重ね、折れんばかりに抱きしめる。
彼のすべての思考を奪い去りたかった――今宵は私だけを、ただ感じるようにと。
私たちが理性の箍を外したのは、あの一夜きりであった。
柴望家の、樹齢三百年とも云われる藤の樹の下に、紋付袴姿の公顕が立っている。大安の今日の良き日、彼は妻を迎えるのだ。
公顕は跡取りであり、私は庭師の息子だった。この関係は、多分、これから先も変わらない。彼はこの家の主となり、私は庭師となるだけだ。雇い主と使用人――それ以前に私たちは同じ性の持ち主で、どれほど好き合っていようとも結ばれることは叶わない。
「よくこの樹に登ったな?」
幼い頃、異様に曲がった太い幹が誘うので、藤の樹で木登りをして遊んだ。
「二人して叱られましたね」
悪戯に跡取りや使用人の子の隔てはなく、根元に正座をさせられた。今はもう、遠く懐かしい思い出だ。
あの頃が一番幸せだったかも知れない。身分の違いもさほど感じず、まだ恋情と言うものも知らなかった。
「そろそろ」
母屋から使いが来た。公顕は短く「すぐ行く」と答え、藤の樹に背を向ける。
私は頭を下げた。目線を落とした先に、彼の踏み出した足が見えた。手の指が我知らず握りこまれ、拳となって力が入る。
私のその拳に公顕が触れた。ほんの一瞬、しかし確かに。
顔を上げた時、すでに彼の背は遠ざかり、「公顕」と呟きに近い私の呼びかけは届かなかった。
残った彼の手の感触に、夢のような一夜が鮮やかに蘇る。私は涙なくして泣いた。
あの夜も、二人の想いも、そして私の『涙』も、ただ藤だけが知っている。