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04.覚醒の日

 親子の協力タッグによって、結局は俺も学校をサボることになった。

 玄関先で出勤する母親の見送りとして二人とも来たのだが、

「行ってらっしゃーい」

「……行ってらっしゃい」

 ぶんぶん手を振っている夏純姉が元気すぎて、げんなりしている俺の方が風邪をひいているようだった。

「行ってきまーす」

 母親が家を出ていく。

 サボってしまったのはどうしようもない。

 夏純姉が寝ている間に今日学校でやりそうな授業内容の予習でもやっておこう。まず寝かせないと。元気そうに見えても、熱があるのは本当のことなのだから。

「それじゃあ、どうしようか? 氷枕でも作っておこうか? 余ったビニールとかある? そもそもどこかに凍らせるだけでいい製品版なかったかな? 薬は……さっき呑んでいたから大丈夫か」

「ちょっと待って。私、もう、我慢できない」

「えっ、我慢できないって、何? 吐くの? 袋持ってこようか?」

「そうじゃなくて……。欲しいの……。賢人クンのが……。せっかく二人きりになれたんだから、ね……?」

「ね? って言われても……」

 熱のせいか、妙に艶のある声で囁かれる。

 手を胸に押し付けられ、しなだれかかってきてくる。接触面が異常に熱くて、心臓が早鐘を打つ。風邪ののせいで大胆になっているだけだと分かっているけど、どうにかなりそうだった。

 血の繋がりがないとしても、相手は家族だ。

 変な気分になってはいけないと、両肩に手を当てて引き剥がそうとして、


 ぴんぽーん、と呼び鈴が鳴る。


 来客者のようだった。

「誰、かしら?」

「お、俺が出るよ。配達かな? 新聞の勧誘とか?」

 た、助かった。安堵の汗がドッと溢れる。誰だか知らないけどナイスタイミングだった。玄関を開けたその先にいた救世主は、想像していた誰とも違っていた。

「えっ?」

 目線が下がる。そこにいたのは、私服の女子高校生らしき人だった。年齢は俺と同じぐらいだろうか。

 整いすぎている顔は日本人離れしていて、ハーフにも見える。黄金色に輝く髪を綺麗に編みこんで冠みたいなヘアスタイルのセットは、明らかに時間がかかりそう。

 この時間帯だというのに、学校に遅刻して慌てる様子もない。

 色々考えると、この人も学校をサボっているということになる。

「すいません、西野――夏純先輩はいらっしゃるでしょうか? どうしても緊急の用件があって、ご本人にお伝えしないといけないことがあるのですが」

「は、はあ? あの、失礼ですが、お名前は?」

「佐藤です」

「佐藤、さんね……。ちょっと待っていてもらっていいですか?」

「はい」

 透き通るような声は、高価な鈴の音のようだった。そのまま唇を引き締めてうつむくのだが、それもまた絵になる。たったそれだけのことなのに、何故か心がざわつく。容姿とか、この声のトーンとか、一般家庭である我が家には似つかわしくない。日光が金髪に反射して、キラキラ光の粒子が舞っているように光り輝いてさえ見える。

 落ち着くためにも一端、ドアを閉める。

「佐藤さんって知ってる? 後輩みたいだけど」

「えっ、後輩って言っても、私、今は部活に入っていないし……。もしかして塾の人かな? 佐藤さんだったら、塾に二人いるし。よく分からないけど、私が出るね」

「あ、ああ……」

 夏純姉が佐藤さんとやらの相手をしてくれてホッとする。

「すいませーん。私が……夏純ですけど」

 俺は何歩か下がっている間に、夏純姉がドアを再度開けて応対する。

「あっ、そうですか。あなたが、あの?」

「……あの、どなたかの妹さんですか?」

「いいえ。私は一人っ子です」

「失礼ですが、どちら様ですか? すいません、見覚えがないもので」

 佐藤さんは笑顔を顔に貼りつけながら、一歩踏み込む。


「ただのあなたの敵ですよ、西野夏純さん」


 バチィ、とスタンガンを首筋の地肌に直接当てられた夏純姉は、唖然としながら倒れる。

「あっ、え?」

 佐藤さんはそのままゴソゴソ、と何やら持っていた鞄を漁りだす。まるで、今の行為が犯罪でもなんでもない挨拶みたいなものように流している。

「なっ、なにを?」

 それしか言う言葉が見当たらない。

 何が起こっているのか分からない。

 空き巣とか強盗とかそういう事件は、あくまでニュースの中での出来事だ。それがいきなり、こんな何の心の準備も整いない時に起きるはずがないのだ。

「あっ、い、いたっ……」

 夏純姉の髪の毛を引っ張って、佐藤は舌打ちする。

「……まったく、手間を取らせないでくださいよ」

 佐藤が鞄から取り出したのは、包丁だった。痛みを訴える夏純姉に向かってしっかりと握る。

 夏純姉が涙を瞳に溜めながらこちらに助けを求めるような視線で、ようやく駆けだすことができた。

「待てっ!」

 手を伸ばして、佐藤に体当たりをかます。

「ぐっ!」

 その際に、振り下ろした包丁が腕に刺さるが、そんなものじゃ勢いは止まらない。歯噛みしながら体当たりした結果、佐藤を夏純姉から離すことに成功した。

「な、なにを――」

「『なにを』は、こっちのセリフだっ!! 俺の家族に手を出すなっ!!」

 腕に刺さったままの包丁を抜くと、そこらへんに転がす。

 ドクドクと出血がひどい。

 今にも貧血になりそうだったが、そんなことはどうでもいい。こいつは、俺がブン殴らなきゃいけない。

「ちっ――邪魔をしないでくださいよ、ワイ――いや、西野賢人さん」

 面倒なことになったと佐藤は舌打ちする。

「……俺の、名前を?」

「台なしですよ。あなたのせいで千載一遇のチャンスを逃した……。邪魔をするなら、あなたを先に相手しなくちゃいけない」

「――ふざけるなよ。訳分かんないんだよっ!! いきなり家に来たと思ったら、俺の姉ちゃんにこんなことしやがって……。覚悟しろよ、通り魔っ! お前が、夏純姉の敵だっていうんなら、お前は俺の敵だっ!!」

「……何を言っているんですか。敵を見誤らないでください! 西野賢人さん!」

 俺の後方に向かって佐藤は指差しする。


「そいつが『感染者』です! あなたの敵はそいつです! 殺されますよ!」


 ドスッ、と振り返ろうとして捩じった腰に、包丁が突き刺さる。

 佐藤とは逆反対、夏純姉の方に転がしたのだ。

そこならば、安全だと。

 いざという時は、夏純姉の護衛手段としてそこへ転がした。

 それなのに、刺された。

 守るべきものに、背後から――何の躊躇もなく――。

「なっ――――ん――――で?」

 床に倒れこむと同時に、カランと刺された包丁がとれる。

 刺した夏純姉は無表情でこちらを睥睨してくる。今から虫でも殺そうとするかのように手を伸ばしてくる。

「くそっ! そいつは『吸血鬼』に血を吸われて操り人形となった『眷属』ですっ!! 私は、あなたを助けるためにここに来たんです! 奴の狙いはあなただけなんですっ!! 逃げてくださいっ!!」

「きゅう、けつ、き? そ、そんなの信じられ――」

「危ない!」

 こちらに駆けてくる佐藤の手の平から光が発生する。それを俺はよく知っている。あれは、スキルを発動させるための予備動作だった。夢でよくみた光景だった。

 だけど、夏純姉の挙動の方が早かった。

「『砲穿火弾ほうせんかだん』」

「きゃあああああああ!!」

 燃え上がった佐藤は床を転がる。

 夏純姉のかざした手も発光し、発生した球体の火炎が佐藤へ直進した。火球の勢いと、炎を消すために、わざと佐藤が転がったのだけは分かった。火球の速度があまりにも速すぎて、ほとんど知覚できなかった。

 俺は、ただただ翻弄されるだけだった。

 誰が味方で、誰が敵なのかも分からない。

 きゅうけつき? けんぞく?

 そんな単語を現実で聴くなんて。しかも、冗談や夢じゃない。この焦げ臭さや、熱さを感じてしまっている。目の前の光景を否定できない。

「くっ、まさか、ただの『眷属』が主のスキルまで使えるなんて……。そんな奴、いままで……。しかも、このスキル……こちらのことを調べて対策を練ってきたってこと?」

「『スキル』? なんだ、それ……。俺が見ていた夢の中でも、そんなことが……。それに、夏純姉、それどうなっているんだよ? て、手品か?」

「早く逃げてください! 恐らくあなたも私と同じで毎晩同じ夢を見ているはず! 言っておきますが、それは現実です! だから今がどれだけ危険な状況か分かりますね? 早く逃げてくださいっ!」

「逃げろって、そんなこと……」

 足が震えている。ガチガチと歯が噛み合わない。刺された腕と腰が痛い。

 逃げたい。逃げたい。逃げたい。

 さっき、佐藤が飛び出して俺を庇ってくれた。だから、俺は無傷なのだ。もしもあの時、そのままあの火球を喰らっていたら俺はどうなっていた? 確実に死んでいた。あんなもの喰らったら、ただの一般人である俺なんてひとたまりもない。

 夏純姉の眼光が金色に光っている。

 爪は伸び、牙もできている。

 まさに、吸血鬼の眷属にふさわしい風貌になっている。

 操られているのは本当のようだった。

 誰かを傷つけても平気な表情をしているなんて、夏純姉の意志が奪われるとしか思えない。

 そして佐藤は、想定外の攻撃にも瞬時に対応していた。

 どっちも常人じゃない。

 俺がどうにかできるような領域の話ではなくなっている。

 逃げる、しかない。俺がこの場にいても佐藤の足手まといにしかならない。

「でも――」

「その証拠に、あなたは寝込みを襲われなかったですか? 必要以上に二人きりになろうとしなかったですか? もう、あなたの知っている西野夏純はもういないんですよっ!」

 俺が寝ている時に、夏純姉はベッドに忍び込んでいた。

 あんなこと、俺が大きくなってから一度もしていなかった。

 それに、起きてからもずっと、俺と二人きりにしつこいぐらいなりたがっていた。

 まさか、ずっと俺の命を狙っていたのか?

 もしも、俺があの時起きる時間が少しでも遅れていたら、殺されていた?

 そんなの、そんなの……。

「今の西野夏純に血を吸われたらあなたまで眷属になるっ!! そうなったら、殺されるよりも酷い目に合いますっ!! 自分の意志とは関係なしに、かつての仲間と殺し合うことになりますよ!」

「何が何だかわからないよ……。あんたの言っていることは何も分からない。分からないけどさ……分かることがあるよ。俺達は家族なんだよっ! 苦しんでいる夏純姉を、見捨てられるわけないだろっ!」

「馬鹿っ――。さっさと逃げてください!」

 佐藤が動き出そうとするが、その周囲に複数の炎がボッとヒトダマのように浮き上がる。

「『炎陣えんじん』」

 ヒトダマの形状が伸びて、鉄格子のようになって佐藤を取り囲む。そのまま瞬時に身体に張り付いて、動きを封じられる。ジュウ、と肌を焼く焦げ臭い臭いがする。ダメージを与えるだけじゃなく、炎は蛇のようにまとわりついて一歩も動けないようだった。

「ぐっ――しまっ――。まさか、こんな上級スキルまで……」

「『閃火光陰せんかこういん』」

 あっという間に炎の弓矢ができあがる。ただ、弓を引くために攻撃の予備動作が生じる。その隙を与えないために、まずは相手を拘束したのだ。

 冷静に、そして冷徹に。

 人を焼き殺すために夏純姉は全身全霊をかけている。それが、おぞましいほどに恐ろしい。

「あああああああっ!!」

 炎の矢は佐藤の身体に直撃すると同時に、炎を撒き散らして爆発する。佐藤を吹き飛ばすどころか、床が陥没するほどの威力だった。

 佐藤は煙を吐きながら倒れ伏す。

 ピクピクと指は動いているから死んではいないだろうが、もう立ち上がる力は残っていないだろう。

「夏純姉、目を覚ましてくれっ!」

 普段通りの夏純姉を演じたのは吸血鬼の眷属として、俺を油断させるためだった? そんなわけがない。全てが嘘だったはずがない。そんな誰かを騙すなんて器用なことができるはずがない。

 人生とは椅子取りゲームみたいなもの。

 誰もが生き残るために、自分の席を奪い合う。時には誰かを傷つけてでも、自分の居場所を勝ち取らなければならない。でも、夏純姉は、誰かに譲ってきたのだ。

 俺が知っている夏純姉は不器用そのもので、愚かで、そして――とてつもなく優しかった。

「俺達――家族だろ? 今日だって、ずっと一緒にいるはずだったんだ! 俺達ずっと仲良かっただろ? 小さな頃、俺が風邪をひいた時は看病だってしてくれたよな!? りんごの皮をむいてくれたり、嫌がる俺に無理やり食べさせてくれたりっ! あの時、俺、言えなかったんだけど、ほんとうは、ほんとうは――」

 ほろり、と落ちる。


「うれし、かったんだよ」


 いつの間にか、涙が頬を伝っていた。

 俺が風邪の時。

 りんごの皮を、慣れない手つきで夏純姉は剥こうとしくれた。まだ子どもだったから。料理もまともにやったことがないぐらいに小さかったから、手が滑ってしまった。血がでてしまって、泣きそうになった夏純姉に俺が慌てた。

 だけど、痛くないって強がった。

 熱を出す俺に心配をかけさせまいと、必死になって笑おうとしてくれた。いつだって、夏純姉は俺のためにたくさんのことをしてくれていたんだ。

「偽物だって思った。俺、俺、今の家族なんて嘘っぱちだって。どれだけ笑えて、どれだけ幸せでも、やっぱり全部無意味なことだって思っていた! どうせ、内心じゃ俺のこと迷惑に思っている。俺なんかいるせいで金だってかかるしさあ! 本当はどこかに消えて欲しいんじゃないかって! 本当は生きていて欲しくないかってっ!! ずっと思ってたっ! だから、心なんて開かないようにしていたんだ……」

 そうすれば、傷つかなくすむから。衝突をずっと避けていた。曖昧な言葉でその場しのぎばかりで、いつだって本心を隠していた。ずっと、毎日変な夢を見ることだって、隠し事をしていた。

 もしも、相談していれば。

 たった一言でも相談していれば、もしかしたら夏純姉は吸血鬼の眷属にならなかったかもしれない。

 事前に防ぐことができなかったとしても、今日、俺がずっと夏純姉の近くにいたんだ。本物の家族として接することができていれば、夏純姉の微妙な変化に気づけたかもしれない。もっと普段からちゃんと接することができていれば、今の凄惨な状況を回避できたかもしれない。

「――でも、そんなのいいわけだよな……。傷つきたくないって思うってことは、俺は、俺は、本当は歩み寄りたかったってことなんだ。血の繋がりがないことを言い訳にしてずっと逃げてきたんだ。――ずっと、ずっと、好きだったんだ。みんなのこと。家族のこと。ごめん、今まで向き合ってなかった。これからは、ちゃんと話すから……。恐くて誰にも話していなかった夢のことも話すから! だから、やりなおさせてくれないかな……。俺ともう一度やりなおして、家族になってくれないかなあ……」

 ボロボロと、涙がこぼれる。

 長い間ずっと心の中で堆積していた得体のしれない重圧が、どんどん消えていくのを感じる。ようやく、俺は身軽になれた気がする。


「……賢人クン?」


 スッ、と瞳の充血が引いている。

 戻ったのだ。

 やっと、夏純姉は夏純姉に戻れた。

 俺の心からの叫びが、支配という檻を破壊してくれたのだ。

 家族の絆は奇跡だって起こせるのだ。

「ああ、そうだ、俺だよ! よかっ――」

 ブシュゥッ!! と、血が迸る。時間が止まったかのように、静寂が家を支配した。俺はゆっくりと視線を下げる。


 俺の腹を、夏純姉の腕が貫いていた。


 まるで、紙をペンで穴を開けるかのように、夏純姉の伸ばした腕が俺の身体を貫通している。冗談でも幻覚でもない。この痛みこそが本物だ。

 ズルリ、と腕が引きずり出される。

「あっ、がっ…………」

 膝から崩れ落ちる。痛すぎて、何も考えられない。ドクドクと、傷跡から俺の血が流れていく。

 明確に感じるのは、死の恐怖。

 どこか遠い世界の話ではない。俺は、もうすぐ死ぬ。何をされなくとも、きっと、出血多量で死んでしまう。この感覚は知っている。命の灯が消えるのなんて簡単で、一瞬なんだ。

 俺は、夏純姉に殺されてしまうのだ。ようやく、本心でぶつかれたと思ったのに、俺の言葉なんて無意味だった。何も届かなかったし、響かなかった。そして、絶望はこんなもんじゃ終わらなかった。

「――ス」

 夏純姉が血走った瞳をしながら、俺の首元をつかむ。それから、男の俺の身体を難なく持ち上げた。

「コロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスッ!!」

「やめて、くれ……」

 発狂している夏純姉に、手を伸ばす。

 夏純姉は首を絞めて苦しめようとしているのではなく、そのまま首の骨を折って俺を殺そうとしていた。どうやら、勝手に俺が死ぬのを悠長に待ってくれそうもない。メキメキと骨が軋む音がする。もうすぐ死んでしまう。それでも俺は夏純姉の眼に手を伸ばす。

 吸血鬼の眷属。

 俺の夢の知識が正しければ、とんでもない強敵。不死で再生能力を持つチートすぎる相手だ。だが、どんな敵でも弱点がある。その一つが眼球。他の身体は俺の力じゃ傷をつけることぐらいしかできないが、眼球を潰せば隙ができる。

 いかに吸血鬼の眷属で身体能力が向上しているといっても、眼球の強度を変えることはそうそうできない。勝てなくとも、逃げることはできる。眼を潰して逃げるんだ。

「もう、誰も傷つけないでくれ……。もう――」

 泣かないで欲しい――。そう思いなら俺は指を伸ばした。きっと、これが最後のチャンス。油断している吸血鬼の眷属に一撃を与えられる。その隙さえあれば、少なくとも首を絞められる苦痛からは解放される。今眼球を潰さなければ、俺は即死する。

「――――っ!」

 ああ――だけど――そんなことできるわけがなかった。

 俺にできたことは、夏純姉の瞳から流れる涙を指の腹で拭ってやることだけだった。

「涙? そんな……ありえない。吸血鬼の支配に眷属が逆らえるなんて……。相手が血縁者だったとしても、そんなことっ!」

 佐藤が床をはいずりながらも、どうにかして近寄ろうとしているが間に合わない。

 夏純姉は弓を引く時のように、腕を後ろにやる。勢いをつけた拳の一撃で、俺にトドメを刺すつもりだ。もう、首の骨を折るのも面倒になったらしい。

「このままじゃ死ねないよな……」

 今の俺じゃ何もできない。

だけど、夏純姉は、必死になって支配に抗っている。

 心と行動の食い違いで、涙を流している。

 ポタポタと頬に当たる涙を、俺は経験していた。

 死ぬ間際、俺の近くで泣いていた勇者の雨のような涙を――。

 あの冷たくて熱い涙を、俺は死んでも忘れることはできなかった。

 俺は強くならなきゃならない。

 二度と、大切な人の涙を流させないために。

「アアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」

 振るわれた拳によって、俺の頭はカボチャみたいにはじけ飛ぶ――はずだった。


 バァンッ!! と、振るわれた拳を、手のひらで受け止める。


 ただそれだけのことなのに風圧が生じて、髪が一瞬なびく。さっきまでの俺だったら確実に死んでいた。でも、今は違う。助けたいって気持ちは愚かなことなんかじゃない。きっと、その想いだけで、強くなれるんだ。

「夏純姉のことは、俺が絶対に助けるよ」

 俺の身体が繭のような光によって包まれる。

 その光は俺の傷口をなぞると、どんどん塞がっていた。

「傷が……回復している? ま――まさか、前世の力を――」

 佐藤の言うとおりだった。

 俺は自分自身の力を、スキルを思い出していた。

 俺は、たった二つしかスキルを持っていない、賢者と呼ばれるには程遠い奴だった。

 だけど、それでも。

 俺はその二つだけで、世界の支配者である魔王とずっと戦ってきたのだ。

「ウウウウウアアアアアアアッ!!」

「苦しんでいる? ただ、触っているだけなのに?」

 夏純姉が、膝をつく。

 手のひらで握っている拳から、どんどん力がなくなっていくのが分かる。

 俺のスキルで急速に夏純姉が弱くなっていく。

 俺の二つのスキル名は『強化』と『弱体化』。

 どんなものでも強くでき、弱くすることができるスキル。自分の傷が治療されたのは、自然治癒力を強化したから。夏純姉が膝をついたのは、体力を弱体化したからだ。

 そして、今からやるのは全ての身体的機能の強化。

 吸血鬼の眷属となってしまった夏純姉を助けるためには、普通の人間の力じゃとてもできない。だから、手加減はできない。

「ごめんな、夏純姉」

 最早体力が減衰して動けなくてなってしまっている夏純姉に向かって、俺は拳を握って『ただ一発だけぶん殴った』――それだけだった。なのに――


 ドゴオオオオオオオオンッ!! と、夏純姉は壁を突き破るまで殴り飛ばした。


 ガラガラと壁の破片が崩れ落ちる下には、気絶している夏純姉がいた。出血はしているが、命に別状はない。吸血鬼の眷属とはそれほどまでに生命力が高い。――たとえ、家の壁が完全に破壊されていたとしても――。

 全てを焼きつくす炎や、全てを吹き飛ばす風なんて凄いスキルは使えない。

 だが、全てに応用できるこのスキルを俺は気に入っている。

 このスキルがあれば、どんな人だって救える。

「こ、これが――『()()()()()()』である勇者パーティーの一人、『西の賢者(ワイズ・イースト)』の力なのか」

 佐藤の声が遠くから聴こえる気がする。

 傷が治癒されとはいえ、血を流し過ぎた。

 それに、十六年ぶりにスキルを使ったせいでかなり疲弊してしまっている。

 ぐにゅり、と視界が歪む。

 倒れる前に、伸びた爪や牙を失った夏純姉の腕にそっと触る。ちゃんと脈拍しているのを確認して安堵の笑みを浮かべると、俺は前のめりになって意識を喪失した。


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