ファルージャ(2)
パレスチナの歴史は古い。
しかも単に古く長いだけではなく複雑を極めている。
ペリシテ人、ユダヤ人、ギリシャ人、ローマ人、アラブ人、その他サマリア人など多くの民族が混雑し、宗教も入り乱れている。現在はアッバース朝イスラーム帝国の支配下であるが、それもいつまで続くか分からない。
「エディルくん、パレスチナ総督の名は、マフムードというのよ」
サロメが言う。
「アラブ人には良くある名前です」
「そう。でも今、彼はこう名乗ってるわ」
「?」
「彼の今の名は、アブドバアル」
「マジですか」
「マジよ」
アブドゥとは下僕を意味する。そしてアブドゥの後ろに下僕として仕える対象の名が置かれる。
アブドゥッラーフはアッラーフの下僕、アブドゥルワッハーブはアルワッハーブの下僕、アブドゥッラフマーンはアッラフマーンの下僕という意味である。ちなみにアルワッハーブもアッラフマーンも神の別名なので一神教的に問題は無い。
しかしアブドバアルという名が意味するのは「バアルの下僕」だ。
バアルはもちろん、神の別名ではない。
バアル。
それは神どころか悪魔の名である。
66の軍団を率いる第一の王だ。
バアル崇拝は確かに古代には盛んに行われていた。しかし古代イスラエル王国によるユダヤ教化、ローマ帝国によるキリスト教化、ウマイヤ朝・アッバース朝イスラーム帝国によるイスラーム化という、三連一神教アタックにより多神教文化は既に下火になったはずである。穏健な多神教ならともかく、悪魔崇拝のようなものが治安上到底許される訳がない。
「アブドバアルも元々はただの軍人総督だったらしいんたけど、バアルを召喚する悪魔召喚リングを手に入れて人が変わってしまったらしいの。以来、魔術師の私兵軍団を作り上げ、イスラエルにバアル信仰を復活させているのよ」
悪魔召喚技術を奔放な私利私欲に利用していたファーティマの方がまだマシだ。
「悪魔の下僕ですって。悪魔もジンも似たようなもんだから、あたしを崇拝してるってことっすかね」
不安げなエディルを他所に、ルタイバは楽しそうだ。人間だと言い張っているが、どこか倫理観が狂っている。
「え、何言ってるのこの子」
「あーそういや言ってなかったっすよね。あたしジンなんです」
「はぁ?」
「ちなみにご主人様は魔術師です」
「はぁ? ていうかご主人様?」
「ルタイバは僕の奴隷なんですよ」
「え? 兄妹か何かかと思ってた。しかもジンと魔術師? ……え? どうゆうこと?」
意味不明な設定を浴びせられたせいでサロメはグルグルと目を回す。
グッシャアアアァァァーッ、と鋼鉄の腕がグールを粉砕する。
「ま、こんなもんね」
「すげー、すげー! ねーご主人様もゴーレムやってみてくださいよ!」
歩きながらマドファアの奥のテスト召喚縁を拭き取って業火召喚円を書き直しているエディルへと、ルタイバが後ろから肩を掴みかかって揺らしながら言う。
「や、やめて! 手元が狂う!」
「ルタイバちゃん、これはユダヤの神秘なのよ。いくらタレントがある魔術師といっても、一朝一夕で出来るもんじゃないわ」
ゴーレムは自慢げに腕を震わせ、拳の先にへばり付いたグールの死体を振り払った。
夕刻。
人の姿は無い。
住人たちは皆、グールを恐れて家に隠れ、息を潜めているのだ。
「あんたたち、大丈夫なの? 今はファルージャではゴーレム使い以外、夜間の外出は禁止されているの。良かったら隊商宿まで送っていくわ……と思ったらうわ、サイアク」
ゴーレムの足が止まった。
前方に巨大な影がある。
黒い胴に、柱のような腕。頭に「אמת」。別のゴーレムだ。
「お仲間ですか?」
「まあね……でもあのゴーレムは……」
向こうのゴーレムもエディルたちに気付いた。
のっしのっしと歩いてくる。
「あーら、サロメじゃない」
背中の穴から顔を出したのは、サロメと同い年くらいの少女だ。
茶髪の巻髪に、ケバ目の化粧をしている。
「シオン・ベト・エレツ……」
「サロメ、これはどういう事?」
シオンと呼ばれた少女は、見下しながらエディルとルタイバを指さす。
「一般人は夜間は外出禁止のはずよ。サロメ、あなた、ゴーレム使いの義務をお忘れになったの?」
「……彼らは今日ファルージャに到着した旅の者よ。この街のことは知らなかったの。それに、今から隊商宿まで送ろうとしているの。グールだって倒してるわ」
「ふうん。言い訳だけは上手ね。まあ、あなたみたいな一般人は、そうでもしないと生きていけなかったんでしょうけど……ああ、かわいそう! かわいそう!」
「何が言いたいのよ」
「定員割れしてる魔法学部にあなたみたいな一般人が学歴ロンダのために来てるのがムカつくのよ。言われた仕事しかできないクセに、それすらも全うできないの?」
シオンは再びエディルたちを指さし、バカにする視線を向ける。
「ゴーレムをちびっ子とのお遊びに使うんじゃないわよ」
「……くっ」
サロメの表情が悔しさに歪んだ。
「ご主人様?」
ヒソヒソとルタイバが言う。
「嫌な女っすね」
「うん。僕もそう思う」
「サロメさんもどうしてもっと言い返さないんっすかね?」
「ややこしい事情があるんじゃないか。サロメさんが黙ってるなら、僕たちが口出しすることじゃないよ」
「関わると面倒くさそうっすもんね」
そんなことをコソコソ話している間に、シオンはわざとゴーレム同士の肩をぶつけるように、歩き去って行った。
「ま、サロメもせいぜいグール殺しだけでも頑張りなさい? どうせ魔術研究なんてまともに出来ないんだろうから。では、レヒトラオート」
「ごめんなさい。変なところ見せて」
サロメは謝った。
「いえ、何も気にして無いですよ、ね、ルタ」
「何すか、アイツ! ムカつく! ねぇご主人様! マドファアでぶっ飛ばしてやりましょうよ! やっちまえご主人様! やれ! やっちゃえ!」
「あの、ルタイバ、時々忘れてるけど、一応君は奴隷で僕が命令する立場なんだよ?」
「あはは……」
サロメは苦笑した。
「シオンは魔法学部なんだけど、私たち、単にたまたまタレントのある一般人と違って、魔術師の家系なのよ。それで意気揚々と高い意識を持って、タルムード研究とかも出来たはずなのにそれを蹴ってまで魔法学部に入学してみたら、他の生徒たちは私みたいな魔術のマも知らない素人ばっかり。嫌になる気持ちも分かるわ」
空は明るいが太陽は沈んだ。日没の礼拝時間を告げる呼び声がモスクから聞こえる。
しかし今、わざわざ外のモスクに行く者は無い。
皆、家でグールに怯えながら、神に祈りを捧げているのだ。
「まあ、シオンも間違った事は言ってないわ。あんたたちのことよ。危ないから帰りなさい」
隊商宿が見えてきた。
その塀と門の前に、黒い影が彷徨いている。
「グール!」
ぱっと見、5匹以上。
「数が多いわ! あなたたち、少し離れて!」
ガシャ、とゴーレムが腕を構えた。
「いえ、僕たちは大丈夫です」
エディルが携えるマドファアが、グールを狙う。
業火召喚円を設置し終えたのだ。
「は? 何それ」
サロメはまだエディルが魔術師だということに半信半疑だ。
「見ててください! 発射!」
白熱の光線。
どうせゴーレムが殴って来るんだろう、とボサっとしていたグールたちを、遠距離からの突然の業火が襲いかかる。
グェェッ、グェェッ、と断末魔を上げながら、消し炭になった。雑魚だ。というよりむしろこの光線を一応は耐えた、ファーティマの召喚した獅子頭の悪魔サブナクのようなヤツの方が異常なのだ。
「……!」
サロメは絶句。そしてやっと言葉を捻り出す。
「……あ、あなた、エディルくん。本当に魔術師だったのね!」
「はい」
「やった! やっぱご主人様が最高っす!」
グールの生焼けの死骸はプスプスと煙を上げている。
エディルは近づいた。
一番新鮮な死体の腹を、ナイフで開く。
「ご主人様、何やってるんすか?」
「グールの心臓ってそこそこ高く売れるんだ」
「マジ! じゃあこの街に居たら毎晩大金持ちじゃないっすか!」
「無駄よ」
サロメが軽やかにとゴーレムから飛び降りた。
ずっとゴーレムに乗っていたので、全身は初めて見た。
当然のことながらエディルよりも背が高い。学院指定の紺色の制服にプリーツスカート。靴下は白ニーソである。
「ファルージャに夜な夜な現れるグールは、朝になって日の光を浴びると消えちゃうのよ」
「ほんとですか?」
「ええ。魔法生物学の授業でも習ったもの。そういうグールが居るって。夜になると闇の中から現れて、闇とともに消えるのよ。アラビア由来のグールじゃなくて西洋のヴァンパイアとかいうクリーチャーの特徴が強いらしいわ」
「そうですか」
少し小遣い稼ぎもしておきたかったが、残念だ。