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放課後、僕は図書室にいた。図書室の一番奥。細長い図書室でも一番深い部分。
そこは埃っぽくて、本も茶色に染みているものが多かった。東西の古典なんかか並んでいる場所で、ほとんど誰も入り込まない。
図書室には人は少なかった。試験も先だったし、司書教諭は受付でぼんやりしていた。何人かの生徒はテーブル席で、雑誌を読んだりしていた。
この場所ーーこの深い場所には一つ、奇妙な書棚があった。他の書棚とは違う色合い、明らかに他の書棚より古い作りをしている。だが、頑丈そうでもある。
書棚の上にはプレートが張ってあった。「作家 井上清三郎 寄贈書籍」 井上清三郎というのは地元の作家で、四十年ほど前に死んだ。書棚の本は全て、井上清三郎の寄贈図書だ。変わった事に、寄贈されたのは本だけではなく、書棚もだった。書棚ごと、一つまるごとこの学校に移し替えたらしい。どうしてそんな面倒な事をしたのか、理由はわからない。
僕の調べた所では、井上清三郎は日本を代表する作家とは言えないにせよ、奇妙な空想力を行使する、特異な才能の作家だったらしい。生前はフリーメーソンのグランドマスターだった。オカルト関係の書物もいくつか出してたみたいだし、そっち方面に強い作家だったようだ。
井上清三郎の死後、残った書物は遺族の要望で近傍の図書館や学校に寄贈された。書棚と本はその一つだ。僕は今、その棚の前に立っている。
僕はまわりの目を気にして、誰もこちらを見る事ができないのを確認すると、しゃがみこんだ。右下の分厚い本を三冊取り出して、地面に置く。手を棚の中に突っ込んで、置くにある木の板を外す。上の方に取っ掛かりがあって、それを利用すると木の板が外れるようになっていた。
木の板を外して更に手を突っ込み、奥にある本を取り出す。片手で持つのは無理なほど分厚く重たいので、両手でやる。両手で取り出した本を床に置くと、また木の板と、出した三冊の本を元の位置に戻した。隠されていた本を手に取ると、僕は近くの台の上に置いた。
この仕掛けに気付いたのは最近だった。書棚は表面にはびっしり本が詰まっている。だけど、横から本棚を見た時、本が並んでいる奥にもう少し空間がある気がしたのだった。誰もいない時に、手前の本を出して奥の板を探って、この仕掛けを見つけたというわけだった。
隠されていた本は一冊ではなかった。書棚の底の奥の空間に、全部で十五冊隠されていた。僕はそれを見つけた。僕は内容を知っていた。それが何であるのか、調査は済んでいた。
今、手元にその本がある。また周囲を見渡し、人が近くにいないのを確認してから、本を読み出す。
本にはタイトルがなかった。ただ、下の方に「日本語版」とだけ書いてあった。日本語で心底、助かった。これがヘブライ語版だったり、ラテン語だったりしたら、とても歯が立たない。
本を開ける。恐ろしく細かい字でびっしりと書かれている。本の特徴は、名前別になっている事だ。それも、日本の、この地域の出来事が書かれている。過去に起こった事、未来に起こる事、それらが全て書かれていた。もっともあまり細かな記述はなされていない。もしそれがなされるなら、文章は無限の量に到達してしまうだろう。
本には時間が区切られていた。最初のページには次の数が見える。「1980-2030」 ここ五十年分の出来事が載っているようだ。
ただ、この本には学校にごく近いエリアに住んでいる人の事しか書かれていなかった。その他の地域は、他の本に書いてある。僕の調べでは、十五冊の本全部の地域合わせても、僕らの住んでいる県すらカバーできていなかった。十五冊の本が記述しているのは、僕らの住んでいる街と、隣接のニつの街についてのみだった。たった三つの街の人々の出来事を書くためにも、十五冊もの大きな本が必要なのだ。それもものすごく細かい字で書いてある。
本をめくる。本にはしおりが挟まっている。僕が入れておいたものだ。「や」の欄から、「安丸慎吾」を見てみよう。「安丸慎吾」の記述だけでもけっこうな紙数を使っている。その中には、こんな記述が見られる。
「午後一時三分十四秒、安丸慎吾はソーセージを食べようとして箸でつまむが失敗して、机の上に落としてしまう。安丸慎吾は素早くソーセージを素手で取り上げ、あっという間に口の中に放り込む」
これはもちろん、「七月十五日」の記事だ。「三浦和也」の「七月十五日」にはこう書いてある。(これもしおりを入れておいた)
「午後十二時五十八分より、木村一に時間に関する形而上学な話をする。」
会話内容は書いていなかったが、書かれている事は事実だ。あるいは、記述された通り、事実になったというべきか。
そう、僕が持っている本は「三世の書」だった。だから、僕には三浦が何を言うか、安丸がソーセージをどんな風に食べるのかもわかっていた。
しかし、僕にもわかっていない事が一つあった。僕自身についてだ。今日、僕が何をするのか、それを僕は知らない。僕は自分の事は意図的に見ないようにしておいた。怖ろしかったから。自分の未来を知るという事は途方もなく怖ろしい事に思えた。それはーー変な言い方だけれどーー未来を壊すものに思えた。
だから、僕は三浦に相談した。もし「三世の書」があったら、という仮定のもとで。三浦は興味深い意見を吐いた。ただ、この書が実在しているという事実によって、三浦の言った事、こんな本は存在するわけがないという理屈は否定されていた。
それでも、三浦の言った事には価値がある。あいつは自分ならば、自分の未来の挙動を知り、それに反する事をやって、あえて書の成立を危機に晒すという。そんな科学実験のような事ができるのか。もし、それをしたとしたら、一体どうなるだろう。本の記述が変わるか。それとも、未来はやっぱり変えられないのか。神の力で僕は、決められた時間に決められた事を話し、決められた動作をするのか。
もしそうだとすると、僕という人間は何になるのだろう。もし、僕が感じる事、意識する事も予め決められているとしたら、そもそも「僕」とは何か。
目の前に火があって手が近づき「熱い」と感じる。この「感じ」はもはや反応ではない。それは最初から決まっていた。決まっていた反応をする僕が僕を意識する。意識している僕も全て記述されている。
すると僕というのは何か。何の為に生きているのか。神の強制力の元、僕は生きる事を決意するのか。それとも神ーー三世の書という神に反する道を選ぶのか。
僕は怖かった。未来を知る事が。ここには間違いなく僕の未来が書いてある。それを知るのが怖ろしかった。
僕には三浦のような勇気がなかった。書の存在を知ってからはあえて、自分の未来を読まないようにしていた。今日、三浦に相談して、スッキリした気持ちになった。
これから僕はある行為をしようと思っている。もちろん、その行為さえも、書には記述されているはずだ。そう思うと憂鬱だが、するつもりだ。