第八話 お金儲けをしよう
およそ百年前――。
人の守護神であり、同時に神々の父母神である空大神、地母神の加護の届かぬ遥かな虚空――夜の闇より暗く、千尋の砂漠よりも過酷な世界の彼方、“無窮領域”と呼ばれるそこに、新たに生み出された二つの月の片割れ。偽月《赤》と呼ばれるその荒涼たる星の表面に、本来であればありえない人影があった。
その数ふたつ。ただし片方はひとつにして二つの意思を持った存在であったので、都合三つの魂ある存在が、本来はあり得ないこの場にはあった。
片や漆黒のドレスをまとい、同じく漆黒の長い髪をたなびかせ、まるで庭先で散歩でもすような平然とした表情で、楽しげに菫色の双眸を細める絶世の美女。
片や頭の先から爪先まで、燃えるような真紅の板金鎧を着込み、さらには同じく鮮血のような緋色のマントをなびかせた屈強な騎士。
およそ百間(約百八十メートル)の距離を隔てて対峙している両者の手には、片や水晶を削りだしたような半透明の長杖が真っ白な繊手に握られ、片や煌びやかな黄金色の大剣が豪腕に保持されていた。
(……突然転移させられた先が無窮領域の偽月の上とは。だが、神々の加護もなく、聖別されたオリハルコンの鎧もないまま、この場に平然と生身で降り立つか。化け物め)
真紅の騎士が兜の下で呻く。
(だが、俺とて〈太陽神の戦士〉と呼ばれ、この日のために選ばれた誉れある帝国の戦士。たとえ刺し違えても貴様を倒すぞ、妖女帝!)
決意を込めて、騎士は手にした神剣へ己の持てる魔力を注ぐのだった。
そうして、虚無を隔てた向かい側では――。
『――留意。我が主よ、奴の戦闘力がおよそ二百三十九・七パーセント上昇したぞ。十二魔刻匠『剣のギルバート』並みとは言わぬが、到底無視し得ぬエネルギー量がある。まあ、無駄な努力とは思うが、いちおうは我が警告を留意したほうがよいぞ、主よ』
水晶の長杖に宿る人造聖霊が、妖艶な女の声で鋭く注意を喚起するも、美女はどこ吹く風で、その笑みを深くするだけであった。
「ほほほほっ、いまさらじゃぞ。この無窮領域に正気を保って存在できるだけでも第四階梯――亜神並の存在であるのは確定しておるわ。それにしても太陽神め、妾が妻である片割れの月神を消し去ったことが、相当腹立たしかったと見える。とち狂って、あんな人とも神ともつかぬ半端を生み出すとはのぉ。血統に干渉された以上、あれは増えるぞ確実に。そうなれば将来、あれらが牙を剥いて神々を弑逆する……とは考えられんのか」
『同意。だが、それだけ追い込まれているのであろう。いま目の前にある危機――主を斃せばどうにでもなる。ことによれば使い終えたあれらは処分すれば事足りる、その程度の思いつきなのだろう、神々は』
「短慮じゃのぉ。人は神々が思うよりもよほどしぶとく、強靭な種族じゃぞ。仮に妾を斃す者が現れるとするなら、それは個人ではなく人という種全体であろうに」
『……驚愕。我が主に造られて四百年あまり。その口から敗北の言葉を聴くとは驚天動地のことである』
心底驚愕しているのであろう、半透明の水晶に似た長杖の表面に、七色の光が瞬いた。
「別に弱気になっておるわけではないぞ。それにまだまだあの程度の敵であるなら問題にならぬ。ま、妾に正面から一対一で決闘を挑んできた気概に応える気ではあるが――むっ、来るぞ!」
その声が終わらぬうちに、「うおおおおおおおおおおおっ!!!!」と、空気のない無窮領域でありながら、壮絶な思念波とともに、眩い霊光を纏った〈太陽神の戦士〉が、黄金色の大剣を上段に構え、真正面から黒髪の美女目掛けて一直線に――愚直なほど真っ直ぐに向かってきた。
迎え撃つ美女は自身の身長を越える長杖を八双に構え、滑るように偽月《赤》の表面を疾走する。
瞬く間にふたつの影が交差し、閃光のように大剣が振り下ろされ、同時に複数展開された魔刻陣法が美女の周囲を彩った。
交差は一瞬――。
何事もなかったかのように通り過ぎた両者は、今度は十間(約十八メートル)ほどの距離を隔てて、最初とは逆向きに向かい合う。
「……見事じゃ」
漆黒のドレスの左胸――斬られて豊満な胸があらわになり、一筋の血潮が滴る己のその傷を確認した美女が、感に堪えないという風に一言賞賛を贈る。
その言葉を耳にした騎士は兜の下、満足げな笑みを浮かべ、その場に崩れ落ちるように倒れ込み、そうして二度と立ち上がることはなかった。
偽月の表面に突き立てられ、その場に墓標のように残された黄金色の大剣――太陽神の神器である神剣を、菫色の瞳で一瞥した美女は、それっきり興味を失ったかのように踵を返し、用意していた転移用の魔刻陣のある場所へと戻るのだった。
◇ ◇ ◇ ◇
「『人間とは取り引きをする動物である。犬は骨を交換しない。』という言葉があるわ」
テラスで午後の紅茶を飲みながら、働き始めてから半月で、どうにか最近は給仕の真似事をさせてもらえるようになったファニタへ、雑談ついでに話しかけました。
「犬頭……コボルトは物々交換するっすけど?」
ここに来たばかりの頃は適当に鋏が入っていただけの髪を見苦しくないようにセットして、動きやすいショートカットにしてあるファニタが、紅茶のポット片手に小首を傾げるファニタ。
「いちいち混ぜっ返さなくてもいいわ。とにかく人が生きていく上で取り引きは必要なこと。この紅茶にしても、紅茶農家が作って、加工して、遠路はるばる運んで、市場へ流通させ、こうしてお湯を沸かして私の口に入るまで、どれほどの人の手が加わったのか、取り引きがなされたのか想像もつかないわ」
「まあそうですね」
「――ではその取り引きで最も重要なものはなんだと思う?」
「えーと、信用とかですかね」
「不正解。答えはお金よ」
「……身も蓋もないっすね。いや、まあ、金がこの世で一番重要ってことは納得できますけど」
赤貧が骨身に染みているファニタがしみじみ同意しました。
「ところが私には個人資産というものが存在しない」
「は? あの皇女様ですよね? 何でも好きなものが食べられて、欲しいものは貰えるんですよね?」
「ええ、そうね。そこは否定しないわ」
とはいえ、あくまで私は『皇女』という公人ですから、私が購入するものは国(王国と帝国双方)の税金から賄われ、すべて帳面で管理されることになります。
例外的に個人からプレゼントされたものは自分の懐へ入ることになりますが、こちらも贈り主へ感謝を示すためにきちんと保管して、折々につれて礼状なり、宝石やアクセサリーなら実際に付けて挨拶したりしないといけないので、まかり間違っても勝手に売り払ったりできません。
物語とかで、悪漢に襲われた王女様が、颯爽と現れて窮地を救ってくれた主人公に、「旅先でなにもないので、せめてこれを」と言って先祖伝来の宝石やネックレスを与える場面があるけれど、あーいうことは現在の私ではできないわよね~。
つーか、国で保有している財産を、見ず知らずの相手――たいていイケメンと相場が決まっているとはいえ――ホイホイ上げるお姫様とか、どっか頭の螺子がゆるんでるんじゃないの? とか思うけど。
ま、なにはともあれ、
「先立つものがまったくないのよねぇ……」
「それは問題ですね」
「問題よね。万一私たちのことがバレても、逃亡資金もないってことだもの」
「あー、その場合はかつての同士や北大陸の残党へ――」
「却下っ!」
滅亡しかない地雷フラグを提案するファニタに即ダメ出しをします。
「普通に、合法的にかつ周囲にバレないようにお金を稼ぎたいのよ。あと魔刻陣法を使った魔道具とかも駄目ね。一目で製作者がバレるから」
「難しいっすねー。そうなると」
「そうよね。基本、私は離宮を動けないし……」
転生チートものなら、現世のちょっとした道具を作ったり、ノーフォーク農法で領地経営をしたりでウハウハなのですが、なかなか現実は上手くいきません。
現世の道具ってのは、そもそも高い技術の蓄積である工業製品であるため、そう簡単に真似はできませんし、できたとしてもコストの面で赤字になる可能性が高いです。
また、領地に関しては今現在、私がタッチできる土地など……ああ、いちおうお爺様(皇帝陛下)などから毎年のお年玉感覚で、帝国の直轄領とかを別荘地として貰っているので、合わせると結構な数の飛び地を持ってはいるのですが、その辺は代官の管理になるので下手に手は出せませんし、仮にやったとしても、実践経験もない九歳の幼女が、「あなた方の農業は非効率的です。こう直しなさい」と言って唯々諾々と従うプロの農家はいないでしょう。子供の戯言として適当に受け流されるのがオチです。
そもそも農家の収入が上がったとして、私のポケットに入るわけではないですからね。それをやったら収賄で、父王が嬉々として告発するでしょう。
「夜な夜な抜け出して、それで魔物を倒して素材を売るってのはどうっすか? 最近……というか、ここ百年の間に魔物に対抗できる勇者もどきの人種が増えて、『冒険者』とか呼ばれて、そいつらのための互助会『冒険者ギルド』ができているから、そこに卸せるっすよ」
続いてのファニタの提案はなかなか魅力的でしたけれど、
「それって九歳の幼女ふたりが行っても卸せるものなのかしら?」
「――あ……」
相変わらず肝心な部分が抜けている話でした。
◇ ◇ ◇ ◇
さて、いろいろとボロがでるのではないかと思えていた皇女生活ですが、『皇女』という他に比較対象がいない、オンリーワンの立場のせいか、並みの九歳児と違っていても、『特異な立場だからこういうこともあるだろう』程度で軽くスルーされることが、ここ二週間あまりの生活で理解できるようになりました。
そもそも忙し過ぎるのよね。
まず午前中は家庭教師による一般教養、神学、行儀作法などの講義を受け、午後は公務として王国や帝国からの使者や賓客を迎え、また場合によっては現地視察、それがなくてもあちこちから贈られてきた手紙や贈物のチェックをして、秘書や書記官が代筆した礼状の最後にサインをする。
他にも離宮の管理に関する最終決定の書類に目を通したり、今後のスケジュールに合わせてドレスの新調や装飾品の選定のために、皇室御用達の商人、デザイナーと会って採寸などを行う。
そうして気がつけばとっぷりと日が暮れ、侍女たちに促されて広々としたダイニングルームで案外簡素な夕食を摂るのが常となっています。ちなみに休日というものは存在しません。
「――毎日大変ですね。僕……いや、私などはセラ様と同い年くらいの時は、朝から晩まで遊び惚けているか、もしくは親父にしごかれていたものですけれど」
夕食後のほっと息を吐けるほんのひと時、相変わらず一見すると忠犬のように、その実体は監獄の看守のように、私の傍につき従うユリウスが、同情に堪えないとばかりしみじみとした感想を漏らしました。
原作では十八歳の時に太陽神から神託を受けて、〈太陽神の戦士〉の称号を戴く事になる勇者で、なぜかいまのところ私の護衛騎士をしているユリウス。
……にしても〈太陽神の戦士〉か。面倒な相手よね~。と、私の中のシルヴァーナが嘆息します。どうしても苦手意識が拭えないのは、前世の記憶があるからでしょうね。
と思いつつ、私は座ったままゆるゆると首を横に振って、ユリウスにいつもの愛想笑いを返しました。
「……しかたありません。私は皇女という公人ですから、私生活なぞあってなきようなものでしょう。頑是無き子供ではいられませんわ」
なにしろトイレにまで監視がいて、出したモノでその日の体調チェックまでしているからなぁ……(果てしなく遠い目)。
まだ女官なのが救いだけど、意識するようになった一週間ほどは「なに、この羞恥プレイ!?」って感じで、●秘になって心配をしたカサンドラの手配で、薬師に調合された整腸剤を飲まされ、いろいろと吹っ切れた切ない思い出が……ああああああっ!?!
それに比べれば、勉強や公務で忙しいくらいまったく全然平気です。これは本当の本当。
それに子供だから――というか、一般的に――割と夜は早めに寝られるので(双月が不吉だからという迷信もあり)――過去世の世界で六十五日休みなしでデスマーチしていた当時から考えれば雲泥の待遇の良さだわ。
「慣れもありますし、忙しい時などできれば夜も残業したいくらいですね」
そんな思いがあったので、私の身を案じているらしいユリウスに、にこにことそれはもう満面の笑みで、まったくいまの境遇をなんとも思っていないことを、あとついでに私の言動に変な部分があってもそれは頑張って背伸びしている結果なので不審に思わないように、と予防線を張る意味で、やや視線を下げて『健気に頑張る幼女』を演出して言ってみました。
「――くっ。こんな窮屈な生活が普通と思い込むだなんて、間違っている。子供は子供らしい時間を過ごすべきじゃないのか……!」
途端、痛ましいものを見たような表情で、端正な顔を歪めたユリウスは、そう小さく吐き捨てると、
「申し訳ございません、明日は王宮に登宮してから参上いたしますので、午後からの出仕ということでお許し願えないでしょうか?」
何か切羽詰ったような表情で訴えるユリウスの言葉――王宮とか不穏な単語が私の胸中に不安の黒雲を湧き立たせますが――に、
「ええ、構いませんよ。というか、ユリウスはずっと私のところへ付きっ切りで全然お休みをとってないでしょう? この機会に休暇を申請してもよろしくってよ?」
まあ、ここまで堂々と行き先を公言している以上、反対するわけにはいかないでしょう。
これは下手をすると、何かアーレンダール王に報告が行って、あり得ない嫌疑で持って無理やり監禁とかあるかも……。やばい。と胸中で夜逃げの手順を考えながら、表面上は屈託なく許可を出しました。
その途端、
「――なるほど。休暇、ですか」
目から鱗のような表情で、ユリウスが一言呟いたのでした。
そして、翌々日――。
十日ほど別荘で休暇を取るようにと、アーレンダール王からのお達しを携えて、ユリウスが意気揚々と戻ってきたのです。
明日の更新はお休みします。
明後日に『第九話 お宝はダンジョンの底』を更新予定です。
7/29 ご指摘があり、表現を変更しました。
×讒言→○戯言