(8)悪夢の一夜
僕は、老人の寝室の前に立っていた。
ドアノブをじっと見つめる。
……僕は確信を持って断言することができた。蔵人老人は僕にお金を貸したりはしないだろう。それどころか……そんな申し出をした瞬間、僕のことを解雇するに違いない。
もともと辞めることを考えていたのだから、解雇自体はそれほどの問題では無い。
だが…………部屋に待たせてきた、明石の表情が脳裏に焼き付いている。
明石はお調子者で要領が良くて、無計画で行動的で、そして――打たれ弱い男だということを僕は知っていた。
思い詰めたら本当に死んでしまうかもしれない。
「…………」
僕は考えに考え抜いた末に――老人の部屋の前を、そっと離れた。
廊下を歩き、今度は老人の書斎に向かう。
あそこにある――あの机の引き出しにある札束。あの札束は次の来客があるまで……三日後の水曜まで、使うことはないはずだ。一時的にお金を借りて、老人に気づかれる前にお金を戻す。それなら何も問題は起きないはずだった。
盗むわけじゃない、盗むわけじゃないんだ、それにこれは人助けだから、大丈夫、きっと大丈夫……
そう自分に言い聞かせ、すくむ足を懸命に前に進める。
と、
「――ッ!!」
……全身が硬直し、脂汗がどっと吹き出した。
最低限の常夜灯が点けられた、暗い廊下。その先に――
リツが立って、こちらを見ていた。
「…………」
「…………」
黙ったまま、見つめ合う。
……リツの読心能力は、この距離でも有効なのだろうか?
お互いの距離は五メートル近く離れている。リツが僕の思考を呼んで反応するときは、いつももっと近い距離にいたはずだ。
でも、もし僕の心を読まれていたら――
『ワシの金に手を出す奴は、絶対に許さんよ』
……眼球が震え、視界が霞む。自分の鼓動が痛いほどに高鳴って、暴れる心臓が抑えられない。
呼吸すらもままならず、あやうく失禁しそうだった。逃げることすら出来なかった。
「…………」
果たして、リツは――――ゆっくり、僕から、遠ざかっていった。
表情を変えることなくこちらに背を向け、実に何気ない様子で。
その姿が廊下の向こうへと隠れて、見えなくなる。
全身の力が抜ける。僕は思わず壁にもたれかかって、肩で呼吸を繰り返した。
いくら無表情なリツとはいえ、いまの僕の心を読んだのなら何かしらの反応を見せたはずだ。それらしい反応がなにもなかったということは――バレなかったのか。
どうやらこの距離ではリツの能力は働かず、そして最近ずっと僕のことを避けていたリツは、いまもまたこうして僕から離れていったらしい。
顔中にびっしりと浮かんでいた汗をぬぐう。
僕は痛む心臓を胸の上から押さえつけ、書斎へと歩みを進めた。