(7)友人の来訪
退職を願い出るなら年内がいいかな――と思っていた十二月末。
屋敷に住まう僕の元を、一人の男が訪ねてきた。
「よう、白井」
「……明石? 明石じゃないか」
屋敷の前で僕が出くわしたのは、大学時代よく一緒に遊んでいた明石だった。卒業以来九ヶ月ぶりに再会した彼は、長かった茶髪も黒く短くなって、それがオシャレなスーツ姿に自然に馴染んだ、いかにも社会人らしい姿になっていた。
時刻は夜十時過ぎ、就寝前の見回りの時間のこと。僕は既に寝室に移っていた蔵人老人にお伺いを立て、強烈に怒られながらも許可を貰い、明石を自室へと招き入れた。
「いやあ、このあいだメールで急に住所を訊いてきたから、なんだろうとは思ってたんだけど。いきなり訪ねて来るとは思わなかったよ」
「ああ……」
……明石は陽気な男だったはずだ。それがいま、ひどく沈んだ表情をしている。
僕はしばらく間を置いてから、ストレートに尋ねてみた。
「なにかあったの?」
「……実はいま、金に困ってるんだ」
「…………」
予想していなかったわけではない。むしろ、十中八九そうではないかと思っていた。
明石はとても要領のいい男だったが、よく言えば行動的、悪く言えば無計画なところがあった。その性格が身の破滅を招くというのは、いかにもありそうなことだった。
「俺、いま会社をやってるんだ。家具や食品の輸入販売の……ほら、名刺」
「…………」
受け取った名刺は紙質からして凝っている、とても高級感のあるものだった。
明石の肩書きは代表取締役となっている。
「それでいま、大きめの仕事を請け負ってんだ。ぜんぶ順調で、あとは取引先に支払う金さえあればぜんぶ上手くいく。手形取引の手続きがまだだから、どうしても現金が必要で……なんとかかき集めて、あと……二百万足りない」
「二百万……」
「『金がないと物は渡さない』、『物がないと金は渡さない』の板挟みで……いまは取引先に無理言って待って貰ってるんだ。今日中に現金持ってけば、あとは商品を受け取って右から左で、あっという間に儲けが出るんだよ! 明日! 明日中には利子つけて返せる、それで会社が軌道に乗るんだ、なあ頼むよ、白井……もうお前しか頼れないんだよ!」
「なんで、僕に」
「だってお前、こんな屋敷で働いて……ここに住んでる奴って、すごい金持ちなんだろ? 昨日たまたま山本に会って、聞いたんだよ!」
確かに山本には、僕の仕事について隠すことなく伝えている――人の心を読む、リツのこと以外は。それを共通の友人である明石に話したとしてもおかしなことではない。
「でも……当たり前だけど、お金持ちなのは雇い主であって僕じゃない。僕は失業中に貯金も使っちゃったし……二百万なんて無理だよ。ちゃんとしたとこから借りられないの?」
「借りられるところからはもう……ヤミ金みたいなとこにも手を出してる。あと二百万あれば全部きちんと返済できるんだ! けどもし駄目だったら……会社どころか、俺も、どうなるか……」
「っ」
――先日の老人の言葉、タコ部屋に売られて臓器提供者……そんな残酷なイメージが脳裏に浮かび、胸がただれるような吐き気を覚えた。
「なあ……頼むよ白井。お願いだから、お前の――」
さすがに多少の躊躇いを見せながら、明石が言った。
「――お前の雇い主に、借金を頼んで貰えないか?」
「……わ、悪いけど、無理だよ。そういう話を聞いてくれる人じゃない」
「ダメ元でいいから、頼むよ! もうお前しか頼れる奴はいないんだ、お前に断られたら、俺、もうこのまま…………っ」
明石は口元を手で覆い、眉間に皺を寄せ……切羽詰まった、泣きそうな表情で床の一点を見つめ黙り込んでしまった。
もうこのまま――死ぬしかない、という明石の言葉が聞こえたような気がした。
「………………二百万……明日中に、返せるんだよね?」
僕がそう尋ねると、明石は顔を上げて悲痛な表情に笑顔をにじませた。
「お、おお! 絶対だ、約束する! 一時的に金さえあれば、何も問題ねぇんだから!」
「…………絶対に、大丈夫なの?」
「当たり前だろ! これが危ない橋だったら、俺がお前を巻き込むかよ!」
「…………本当に、不安はないんだよね?」
「大丈夫だって! 俺を信じてくれ!」
「…………」
明石の顔をじっと見つめる。
僕は……自分がこれからなにをしようとしているのかを理解していた。
でも、それを本当に実行できるのかどうかは、まるでわかっていなかった。